春秋左氏伝 / 昭公元年 公子囲、王を弑す
楚公子圍使公子黑肱。伯州犁。城犨。櫟。郟。鄭人懼。子產曰。不害。令尹將行大事。而先除二子也。禍不及鄭。何患焉。冬。楚公子圍將聘于鄭。伍舉為介。未出竟。聞王有疾而還。伍舉遂聘。十一月。己酉。公子圍至。入問王疾。縊而弒之。遂殺其二子幕及平夏。右尹子干出奔晉。宮廄尹子皙出奔鄭。殺大宰伯州犁于郟。葬王于郟。謂之郟敖。使赴于鄭。伍舉問應為後之辭焉。對曰。寡大夫圍。伍舉更之曰。共王之子圍為長。子干奔晉。從車五乘。叔向使與秦公子同食。皆百人之餼。趙文子曰。秦公子富。叔向曰。底祿以德。德鈞以年。年同以尊。公子以國。不聞以富。且夫以千乘去其國。彊禦已甚。詩曰。不侮鰥寡。不畏彊禦。秦楚匹也。使后子與子干齒辭。曰。鍼懼選。楚公子不獲。是以皆來。亦唯命。且臣與羇齒。無乃不可乎。史佚有言曰。非羇何忌。
新字:楚公子囲使公子黒肱。伯州犁。城犨。櫟。郟。鄭人懼。子産曰。不害。令尹将行大事。而先除二子也。禍不及鄭。何患焉。冬。楚公子囲将聘于鄭。伍舉為介。未出竟。聞王有疾而還。伍舉遂聘。十一月。己酉。公子囲至。入問王疾。縊而弒之。遂殺其二子幕及平夏。右尹子干出奔晋。宮廄尹子皙出奔鄭。殺大宰伯州犁于郟。葬王于郟。謂之郟敖。使赴于鄭。伍舉問応為後之辞焉。対曰。寡大夫囲。伍舉更之曰。共王之子囲為長。子干奔晋。従車五乗。叔向使与秦公子同食。皆百人之餼。趙文子曰。秦公子富。叔向曰。底禄以徳。徳鈞以年。年同以尊。公子以国。不聞以富。且夫以千乗去其国。彊禦已甚。詩曰。不侮鰥寡。不畏彊禦。秦楚匹也。使后子与子干歯辞。曰。鍼懼選。楚公子不獲。是以皆来。亦唯命。且臣与羇歯。無乃不可乎。史佚有言曰。非羇何忌。
書き下し
楚の公子圍、公子黑肱・伯州犁をして犨・櫟・郟に城(きづ)かしむ。鄭人懼る。子產曰く、「害あらず。令尹將に大事を行はんとして、先づ二子を除くなり。禍鄭に及ばず、何ぞ患へん」と。冬、楚の公子圍將に鄭に聘せんとし、伍舉介と為る。未だ竟を出でざるに、王疾有りと聞きて還る。伍舉遂に聘す。十一月、己酉、公子圍至り、入りて王の疾を問ひ、縊りて之を弒す。遂に其の二子幕及び平夏を殺す。右尹子干晉に出奔し、宮廄尹子皙鄭に出奔す。大宰伯州犁を郟に殺す。王を郟に葬り、之を郟敖と謂ふ。使をして鄭に赴げしむ。伍舉後と為るの辭を應(いか)にせんと問ふ。對へて曰く、「寡大夫圍」と。伍舉之を更めて曰く、「共王の子圍を長と為す」と。子干晉に奔る、從車五乘。叔向秦の公子と食を同じくせしめ、皆百人の餼なり。趙文子曰く、「秦の公子は富めり」と。叔向曰く、「祿を底(さだ)むるには德を以ってし、德鈞(ひと)しければ年を以ってし、年同じければ尊を以ってす。公子は國を以ってし、富を以ってするを聞かず。且つ夫れ千乘を以って其の國を去る、彊禦已に甚だし。詩に曰く、『鰥寡を侮らず、彊禦を畏れず』と。秦・楚は匹なり」と。后子をして子干と齒せしむ。辭して曰く、「鍼は選めらるるを懼れ、楚の公子は獲られず、是を以って皆來る。亦た唯だ命のままなり。且つ臣と羇と齒するは、乃ち不可なること無からんや。史佚言へる有りて曰く、『羇に非ずんば何ぞ忌まん』と」。
現代語訳
楚の公子囲(令尹、のちの霊王)は、公子黒肱と伯州犁に犨・櫟・郟の三邑に城を築かせた。鄭の人々は(自国を攻める準備かと)恐れた。子産は言った。「害はない。令尹は大事(王位の簒奪)を行おうとして、まず二人を遠ざけたのだ。禍は鄭には及ばない。何を心配することがあろう」。冬、楚の公子囲は鄭に聘問に行こうとし、伍挙が副使となった。まだ国境を出ないうちに、王(郟敖)が病気だと聞いて引き返した。伍挙はそのまま鄭へ聘問した。十一月己酉の日、公子囲は都に戻り、宮中に入って王の病を見舞い、首を絞めて殺した。さらに王の二人の子、幕と平夏を殺した。右尹の子干は晋に出奔し、宮廄尹の子皙は鄭に出奔した。大宰の伯州犁を郟で殺した。王を郟に葬り、郟敖と呼んだ。使者を鄭に遣わして訃報を告げさせた。伍挙は使者に、後継者についてどう告げるのかを尋ねた。使者は「寡大夫囲(わが国の大夫囲)」と答えた。伍挙はこれを改めて「共王の子、囲が年長である(ので後を継いだ)」と言わせた。子干は晋に亡命したが、従う車は五乗であった。叔向は、子干を秦の公子(后子鍼)と同じ待遇にし、どちらにも百人分の食糧を支給した。趙文子(趙武)は言った。「秦の公子は裕福だ(のに同じ扱いでよいのか)」。叔向は言った。「俸禄は徳によって定め、徳が等しければ年齢により、年齢が同じなら身分の尊さによる、と聞いています。亡命の公子の待遇は、その国の格によって定めるものであって、富によって定めるとは聞いたことがありません。それに千乗の車を連ねて国を去るとは、強引なことが甚だしい。『詩』に『寡婦や孤独な者を侮らず、強い者を畏れない』とあります。秦と楚は同格の国です」。そこで后子と子干に席次を並べさせようとした。后子は辞退して言った。「私は罪を数え立てられるのを恐れ、楚の公子は身の置き所を得られず、それでどちらもこちらへ来たのです。ご命令のままに従います。とはいえ、私のような者と羇(旅の身の亡命者)とが席次を争うのは、よろしくないのではありませんか。史佚の言葉に『羇でなければ、何を遠慮することがあろうか』とあります」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 范雎蔡沢列伝此の時に当たり、秦の昭王、謁者王稽を魏に使はす。鄭安平詐りて卒と為り、王稽に侍す。王稽問ふ、「魏に賢人の与に倶に西游すべき者有るか」と。鄭安平曰く、「臣の里中に張禄先生有り、君に見えて天下の事を言はんと欲す。その人仇有り、敢へて昼見えず」と。王稽曰く、「夜与に倶に来たれ」と。鄭安平、夜張禄と王稽に見ゆ。語未だ究まらざるに、王稽、范睢の賢なるを知り、謂ひて曰く、「先生、我を三亭の南に待て」と。私かに約して去る。王稽、魏を辞して去り、過りて范睢を載せて秦に入る。湖に至り、車騎の西より来たるを望見す。范睢曰く、「彼の来たる者は誰と為す」と。王稽曰く、「秦の相穣侯、東して県邑を行く」と。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は秦の権を専らにし、諸侯の客を内るるを悪むと。此れ恐らくは我を辱めん、我寧ろ且く車中に匿れん」と。頃有りて、穣侯果たして至り、王稽を労ひ、因りて車を立てて語りて曰く、「関東に何の変か有る」と。曰く、「有る無し」と。また王稽に謂ひて曰く、「謁君、諸侯の客子と倶に来たること無きを得んや。益無し、徒らに人の国を乱すのみ」と。王稽曰く、「敢へてせず」と。即ち別れ去る。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は智士なり、その事を見ること遅し。郷者車中に人有るを疑ひて、これを索むることを忘る」と。是に於いて范睢車を下りて走りて曰く、「此れ必ずこれを悔いん」と。行くこと十余里、果たして騎をして還りて車中を索めしむ、客無し、乃ち已む。王稽遂に范睢と咸陽に入る。已に使ひを報じ、因りて言ひて曰く、「魏に張禄先生有り、天下の弁士なり。曰く『秦王の国は累卵より危ふし、臣を得ば則ち安からん。然れども書を以て伝ふべからず』と。臣故に載せて来たる」と。秦王信ぜず、舎して食はしむるに草具を以てす。命を待つこと歳余。是の時に当たり、昭王已に立つこと三十六年。南のかた楚の鄢郢を抜き、楚の懐王秦に幽死す。秦東のかた斉を破る。湣王嘗て帝と称し、後これを去る。数々三晋を困しむ。天下の弁士を厭ひ、信ずる所無し。
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史記 呂太后本紀孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
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