史記 / 呂太后本紀
孝惠以此日飲為淫樂,不聽政,故有病也。二年,楚元王、齊悼惠王皆來朝。十月,孝惠與齊王燕飲太后前,孝惠以為齊王兄,置上坐,如家人之禮。太后怒,乃令酌兩卮酖,置前,令齊王起為壽。齊王起,孝惠亦起,取卮欲俱為壽。太后乃恐,自起泛孝惠卮。齊王怪之,因不敢飲,詳醉去。問,知其酖,齊王恐,自以為不得脫長安,憂。齊內史士說王曰:「太后獨有孝惠與魯元公主。今王有七十餘城,而公主乃食數城。王誠以一郡上太后,為公主湯沐邑,太后必喜,王必無憂。」於是齊王乃上城陽之郡,尊公主為王太后。呂后喜,許之。乃置酒齊邸,樂飲,罷,歸齊王。三年,方筑長安城,四年就半,五年六年城就。諸侯來會。十月朝賀。七年秋八月戊寅,孝惠帝崩。發喪,太后哭,泣不下。留侯子張辟彊為侍中,年十五,謂丞相曰:「太后獨有孝惠,今崩,哭不悲,君知其解乎?」丞相曰:「何解?」辟彊曰:「帝毋壯子,太后畏君等。君今請拜呂台、呂產、呂祿為將,將兵居南北軍,及諸呂皆入宮,居中用事,如此則太后心安,君等幸得脫禍矣。」丞相乃如辟彊計。太后說,其哭乃哀。呂氏權由此起。乃大赦天下。九月辛丑,葬。太子即位為帝,謁高廟。元年,號令一出太后。
新字:孝恵以此日飲為淫楽,不聴政,故有病也。二年,楚元王、斉悼恵王皆来朝。十月,孝恵与斉王燕飲太后前,孝恵以為斉王兄,置上坐,如家人之礼。太后怒,乃令酌両卮酖,置前,令斉王起為寿。斉王起,孝恵亦起,取卮欲倶為寿。太后乃恐,自起泛孝恵卮。斉王怪之,因不敢飲,詳酔去。問,知其酖,斉王恐,自以為不得脱長安,憂。斉内史士説王曰:「太后独有孝恵与魯元公主。今王有七十余城,而公主乃食数城。王誠以一郡上太后,為公主湯沐邑,太后必喜,王必無憂。」於是斉王乃上城陽之郡,尊公主為王太后。呂后喜,許之。乃置酒斉邸,楽飲,罷,帰斉王。三年,方筑長安城,四年就半,五年六年城就。諸侯来会。十月朝賀。七年秋八月戊寅,孝恵帝崩。発喪,太后哭,泣不下。留侯子張辟彊為侍中,年十五,謂丞相曰:「太后独有孝恵,今崩,哭不悲,君知其解乎?」丞相曰:「何解?」辟彊曰:「帝毋壮子,太后畏君等。君今請拝呂台、呂産、呂禄為将,将兵居南北軍,及諸呂皆入宮,居中用事,如此則太后心安,君等幸得脱禍矣。」丞相乃如辟彊計。太后説,其哭乃哀。呂氏権由此起。乃大赦天下。九月辛丑,葬。太子即位為帝,謁高廟。元年,号令一出太后。
書き下し
孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
現代語訳
孝恵帝はこのことがあってから、毎日酒を飲んでみだらな楽しみにふけり、政務を執らなかった。そのために病気になったのである。二年(前193年)、楚の元王(劉交)と斉の悼恵王(劉肥)が皆朝見に来た。十月、孝恵帝は斉王とともに太后の前で酒宴を開いたが、孝恵帝は斉王を兄として上座に座らせ、一般の家の兄弟のような礼をとった。太后は怒り、毒酒を二杯ついで前に置かせ、斉王に立ち上がって長寿を祝う杯をあげさせようとした。斉王が立ち上がると、孝恵帝も立ち上がり、杯を取って一緒に祝おうとした。太后は慌てて、自ら立ち上がって孝恵帝の杯をひっくり返した。斉王は不審に思い、飲まずに、酔ったふりをして退出した。後で尋ねて、それが毒酒だったと知ると、斉王は恐れ、長安から生きて出られないのではないかと思い悩んだ。斉の内史の士という者が王に説いた。「太后のお子は孝恵帝と魯元公主だけだ。いま王は七十余城を持っておられるのに、公主はわずか数城を領地としているにすぎない。王が本当に一郡を太后に献上して公主の湯沐の邑(化粧料の領地)とされれば、太后は必ず喜び、王はきっと心配がなくなるだろう」。そこで斉王は城陽郡を献上し、公主を尊んで王太后と呼んだ。呂后は喜んでこれを受け入れた。そこで斉王の屋敷で酒宴を開いて楽しく飲み、宴が終わると斉王を国に帰した。三年(前192年)、長安城の築城を始め、四年には半分ができあがり、五年・六年で城は完成した。諸侯が集まり、十月に朝賀を行った。七年(前188年)秋八月戊寅の日、孝恵帝が崩御した。喪を発すると、太后は声を上げて泣いたが、涙は流れなかった。留侯(張良)の子の張辟彊は侍中(帝の側近)で、年は十五であったが、丞相に言った。「太后のお子は孝恵帝だけだったのに、いま崩御されても、声を上げて泣くだけで悲しんではおられない。あなたはそのわけがお分かりか」。丞相は「どういうわけか」と言った。張辟彊は言った。「帝には成人した子がいないので、太后はあなた方を恐れておられるのだ。あなたがいま、呂台・呂産・呂禄を将軍に任じて兵を率いさせ、南軍と北軍(都の二つの親衛軍)に置き、呂氏の一族を皆宮中に入れて、中で政務を執らせるよう願い出れば、太后のお心は安らぎ、あなた方も幸いに禍を免れることができるだろう」。丞相はそこで張辟彊の計略の通りにした。太后は喜び、その泣き声はようやく悲しみを帯びた。呂氏の権力はここから始まった。そこで天下に大赦を行った。九月辛丑の日に孝恵帝を葬った。太子が即位して皇帝となり、高祖の廟に参拝した。元年、号令はすべて太后から出された。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀十一月、太后王陵を廃せんと欲し、乃ち拝して帝の太傅と為し、之が相権を奪ふ。王陵遂に病みて免ぜられて帰る。乃ち左丞相平を以て右丞相と為し、辟陽侯審食其を以て左丞相と為す。左丞相事を治めず、宮中を監せしむること、郎中令の如し。食其故より太后に幸せらるるを得て、常に事を用ゐ、公卿皆因りて事を決す。乃ち酈侯の父を追尊して悼武王と為し、以て諸呂を王とする漸と為さんと欲す。四月、太后諸呂を侯とせんと欲し、乃ち先づ高祖の功臣郎中令無択を封じて博城侯と為す。魯元公主薨ず、謚を賜ひて魯元太后と為す。子偃を魯王と為す。魯王の父は、宣平侯張敖なり。斉の悼恵王の子章を封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。斉の丞相寿を平定侯と為す。少府延を梧侯と為す。乃ち呂種を封じて沛侯と為し、呂平を扶柳侯と為し、張買を南宮侯と為す。太后呂氏を王とせんと欲し、先づ孝恵の後宮の子彊を立てて淮陽王と為し、子不疑を常山王と為し、子山を襄城侯と為し、子朝を軹侯と為し、子武を壺関侯と為す。太后大臣に風す、大臣酈侯呂台を立てて呂王と為さんことを請ふ、太后之を許す。建成の康侯釈之卒す、嗣子罪有り、廃す、其の弟呂禄を立てて胡陵侯と為し、康侯の後を続がしむ。二年、常山王薨ず、其の弟襄城侯山を以て常山王と為し、名を義と更む。十一月、呂王台薨ず、謚して粛王と為す、太子嘉代はり立ちて王と為る。三年、事無し。四年、呂嬃を封じて臨光侯と為し、呂他を兪侯と為し、呂更始を贅其侯と為し、呂忿を呂城侯と為し、及び諸侯の丞相五人を封ず。宣平侯の女孝恵の皇后為りし時、子無し、詳りて身有りと為し、美人の子を取りて之に名づけ、其の母を殺し、名づくる所の子を立てて太子と為す。孝恵崩じ、太子立ちて帝と為る。
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史記 斉悼恵王世家斉の悼恵王劉肥は、高祖の長庶男なり。其の母は外婦なり、曹氏と曰ふ。高祖六年、肥を立てて斉王と為し、七十城を食ましめ、諸民の能く斉言する者は皆斉王に予ふ。斉王は、孝恵帝の兄なり。孝恵帝二年、斉王入朝す。恵帝斉王と燕飲し、亢礼すること家人の如し。呂太后怒り、且に斉王を誅せんとす。斉王懼れて脱るるを得ざらんとし、乃ち其の内史勲の計を用ひ、城陽郡を献じ、以て魯元公主の湯沐邑と為す。呂太后喜び、乃ち辞して国に就くを得たり。悼恵王即位して十三年、恵帝六年を以て卒す。子襄立つ、是れを哀王と為す。哀王元年、孝恵帝崩じ、呂太后制を称し、天下の事皆高后に決す。二年、高后其の兄の子酈侯呂台を立てて呂王と為し、斉の済南郡を割きて呂王の奉邑と為す。哀王三年、其の弟章入りて漢に宿衛す、呂太后封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。後四年、章の弟興居を封じて東牟侯と為し、皆長安中に宿衛す。哀王八年、高后斉の瑯邪郡を割きて営陵侯劉沢を立てて瑯邪王と為す。其の明年、趙王友入朝し、邸に幽死す。三趙王皆廃せらる。高后諸呂を立て諸呂を三王と為し、権を擅にし事を用ふ。朱虚侯年二十、気力有り、劉氏の職を得ざるを忿る。嘗て入りて高后の燕飲に侍す、高后朱虚侯劉章をして酒吏為らしむ。章自ら請ひて曰く、「臣は、将種なり、請ふ軍法を以て酒を行ふを得ん」と。高后曰く、「可なり」と。酒酣にして、章進みて飲み歌舞す。已にして曰く、「請ふ太后の為に耕田の歌を言はん」と。高后之を児子として畜ひ、笑ひて曰く、「顧ふに而の父は田を知るのみ。若は生まれて王子為り、安んぞ田を知らんや」と。章曰く、「臣之を知る」と。太后曰く、「試みに我が為に田を言へ」と。
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史記 呂太后本紀呂太后は、高祖の微なりし時の妃なり、孝恵帝・女の魯元太后を生む。高祖の漢王と為るに及び、定陶の戚姫を得て、愛幸し、趙の隠王如意を生む。孝恵人と為り仁弱なり、高祖以為へらく我に類せずと、常に太子を廃して、戚姫の子如意を立てんと欲す、如意我に類すと。戚姫幸せられ、常に上に従ひて関東に之き、日夜啼泣し、其の子を立てて太子に代へんと欲す。呂后年長じ、常に留守し、上に見ゆること希にして、益々疏し。如意立ちて趙王と為りし後、幾ど太子に代はらんとする者数(しばしば)なり、大臣の之を争ひ、及び留侯の策に頼りて、太子廃せらるる毋きを得たり。呂后人と為り剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む、誅する所の大臣多く呂后の力なり。呂后の兄二人、皆将と為る。長兄周呂侯事に死し、其の子呂台を封じて酈侯と為し、子産を交侯と為す。次兄呂釈之を建成侯と為す。高祖十二年四月甲辰、長楽宮に崩ず、太子号を襲ひて帝と為る。是の時高祖の八子、長男肥は、孝恵の兄なり、母を異にす、肥は斉王為り。余は皆孝恵の弟なり、戚姫の子如意は趙王為り、薄夫人の子恒は代王為り、諸姫の子子恢は梁王為り、子友は淮陽王為り、子長は淮南王為り、子建は燕王為り。高祖の弟交は楚王為り、兄の子濞は呉王為り。劉氏に非ざる功臣番君呉芮の子臣は長沙王為り。呂后最も戚夫人及び其の子趙王を怨み、乃ち永巷をして戚夫人を囚へしめ、而して趙王を召す。使者三たび反る、趙の相建平侯周昌使者に謂ひて曰く、「高帝臣に趙王を属す、趙王年少なり。竊かに聞く太后戚夫人を怨み、趙王を召して并せて之を誅せんと欲すと、臣敢へて王を遣はさず。王も且つ亦病めり、詔を奉ずる能はず。」と。呂后大いに怒り、乃ち人をして趙の相を召さしむ。趙の相徴されて長安に至る、乃ち人をして復た趙王を召さしむ。王来たるも、未だ到らず。
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史記 呂太后本紀孝恵帝慈仁にして、太后の怒りを知り、自ら趙王を霸上に迎へ、与に宮に入り、自ら挾みて趙王と起居飲食を与にす。太后之を殺さんと欲するも、間を得ず。孝恵の元年十二月、帝晨に出でて射す。趙王少くして、蚤く起くる能はず。太后其の独り居るを聞き、人をして酖を持ちて之に飲ましむ。犁明、孝恵還る、趙王已に死せり。是に於て乃ち淮陽王友を徙して趙王と為す。夏、詔して酈侯の父に賜ひて追謚して令武侯と為す。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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史記 呂太后本紀帝壮にして、或いは其の母の死して、真の皇后の子に非ざるを聞き、乃ち言を出だして曰く、「后安んぞ能く吾が母を殺して我を名づくる。我未だ壮ならず、壮ならば即ち変を為さん。」と。太后聞きて之を患ひ、其の乱を為さんことを恐れ、乃ち之を永巷の中に幽し、帝の病甚だしと言ひ、左右見るを得る莫し。太后曰く、「凡そ天下を有ちて治めて万民の命と為す者は、之を蓋ふこと天の如く、之を容るること地の如し、上に歓心有りて以て百姓を安んじ、百姓欣然として以て其の上に事へ、歓欣交通して天下治まる。今皇帝病久しくして已まず、乃ち失惑惛乱し、嗣を継ぎて宗廟の祭祀を奉ずる能はず、天下を属すべからず、其れ之に代へよ。」と。群臣皆頓首して言ふ、「皇太后天下の斉民の為に宗廟社稷を安んずる所以を計ること甚だ深し、群臣頓首して詔を奉ず。」と。帝位を廃せられ、太后之を幽殺す。五月丙辰、常山王義を立てて帝と為し、名を更めて弘と曰ふ。元年と称せざるは、太后天下の事を制するを以てなり。軹侯朝を以て常山王と為す。太尉の官を置き、絳侯勃を太尉と為す。五年八月、淮陽王薨ず、弟壺関侯武を以て淮陽王と為す。六年十月、太后曰く呂王嘉居処驕恣なりと、之を廃し、粛王台の弟呂産を以て呂王と為す。夏、天下に赦す。斉の悼恵王の子興居を封じて東牟侯と為す。七年正月、太后趙王友を召す。友諸呂の女を以て后と受くるも、愛さず、他姫を愛す、諸呂の女妒み、怒りて去り、之を太后に讒し、誣ふるに罪過を以てして、曰く、「呂氏安んぞ王たるを得ん。太后百歳の後、吾必ず之を撃たん」と。太后怒り、故を以て趙王を召す。趙王至る、邸に置きて見ず、衛をして囲みて之を守らしめ、食を与へず。其の群臣或いは竊かに饋る、輒ち捕へて之を論ず、趙王餓ゑ、乃ち歌ひて曰く、「諸呂事を用ゐて劉氏危ふし、王侯を迫脅して彊ひて我に妃を授く。
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