春秋左氏伝 / 昭公元年 魏舒、車を毀つ
鄭為游楚亂故。六月。丁巳。鄭伯及其大夫盟于公孫段氏。罕虎。公孫僑。公孫段。印段。游吉。駟帶。私盟于閨門之外。實薰隧。公孫黑強與於盟。使大史書其名。且曰七子。子產弗討。晉中行穆子敗無終及群狄于大原。崇卒也。將戰。魏舒曰。彼徒我車。所遇又阨。以什共車。必克。困諸阨。又克。請皆卒。自我始。乃毀車以為行。五乘為三伍。荀吳之嬖人不肯即卒。斬以徇。為五陳以相離。兩於前。伍於後。專為右角。參為左角。偏為前拒。以誘之。翟人笑之。未陳而薄之。大敗之。莒展輿立。而奪群公子秩。公子召去疾于齊。秋。齊公子鉏納去疾。展輿奔吳。叔弓帥師疆鄆田。因莒亂也。於是莒務婁。瞀胡。及公子滅明。以大厖。與常儀靡。奔齊。君子曰。莒展之不立。棄人也夫。人可棄乎。詩曰。無競維人。善矣。
新字:鄭為游楚乱故。六月。丁巳。鄭伯及其大夫盟于公孫段氏。罕虎。公孫僑。公孫段。印段。游吉。駟帯。私盟于閨門之外。実薫隧。公孫黒強与於盟。使大史書其名。且曰七子。子産弗討。晋中行穆子敗無終及群狄于大原。崇卒也。将戦。魏舒曰。彼徒我車。所遇又阨。以什共車。必克。困諸阨。又克。請皆卒。自我始。乃毀車以為行。五乗為三伍。荀呉之嬖人不肯即卒。斬以徇。為五陳以相離。両於前。伍於後。専為右角。参為左角。偏為前拒。以誘之。翟人笑之。未陳而薄之。大敗之。莒展輿立。而奪群公子秩。公子召去疾于斉。秋。斉公子鉏納去疾。展輿奔呉。叔弓帥師疆鄆田。因莒乱也。於是莒務婁。瞀胡。及公子滅明。以大厖。与常儀靡。奔斉。君子曰。莒展之不立。棄人也夫。人可棄乎。詩曰。無競維人。善矣。
書き下し
鄭游楚の亂の故を為(もっ)て、六月、丁巳、鄭伯其の大夫と公孫段氏に盟ふ。罕虎・公孫僑・公孫段・印段・游吉・駟帶、閨門の外に私盟す、實に薰隧なり。公孫黑強ひて盟に與り、大史をして其の名を書かしめ、且つ七子と曰はしむ。子產討ぜず。晉の中行穆子、無終及び群狄を大原に敗る、卒を崇べばなり。將に戰はんとするに、魏舒曰く、「彼は徒、我は車、遇ふ所又阨(せま)し。什を以って車に共へば、必ず克たん。諸を阨に困しめば、又克たん。請ふ皆卒とせん、我より始めん」と。乃ち車を毀ちて以って行と為し、五乘を三伍と為す。荀吳の嬖人卒に即くを肯ぜず、斬りて以って徇(とな)ふ。五陳を為して以って相離れ、兩は前に於いてし、伍は後に於いてし、專は右角と為り、參は左角と為り、偏は前拒と為り、以って之を誘ふ。翟人之を笑ふ。未だ陳せざるに之に薄(せま)り、大いに之を敗る。莒の展輿立ちて、群公子の秩を奪ふ。公子去疾を齊より召す。秋、齊の公子鉏去疾を納れ、展輿吳に奔る。叔弓師を帥ゐて鄆の田を疆(さかひ)す、莒の亂に因るなり。是に於いて莒の務婁・瞀胡及び公子滅明、大厖と常儀靡とを以って齊に奔る。君子曰く、「莒展の立たざるは、人を棄つればなるかな。人棄つ可けんや。詩に曰く、『競(つよ)きこと維れ人より無し』と。善し」と。
現代語訳
鄭は游楚の騒動があったため、六月丁巳の日、鄭伯が大夫たちと公孫段の家で盟約した。罕虎(子皮)・公孫僑(子産)・公孫段・印段・游吉・駟帯の六人は、宮中の小門の外で私的に盟った。その場所は薫隧である。公孫黒(子皙)は無理やり盟約に加わり、大史にその名を書かせ、さらに「七子」と記させた。子産はこれを罰しなかった。晋の中行穆子(荀呉)が無終および諸狄を大原で破った。歩兵を重んじたからである。戦おうとするとき、魏舒が言った。「敵は歩兵、わが方は戦車です。しかも戦う場所は狭い。十人で一台の車に当たるように組み替えれば必ず勝てます。敵を狭い所に追い込めば、また勝てます。どうか全軍を歩兵にしてください。私から始めます」。そこで車を壊して歩兵の隊列とし、五乗の兵を三つの伍に組み直した。荀呉の寵臣が歩兵になることを承知しなかったので、斬って見せしめとした。五つの陣を作って互いに離し、両の隊を前に、伍の隊を後ろに置き、専の隊を右翼、参の隊を左翼、偏の隊を前衛として、敵を誘った。狄人はこれを笑った。狄人がまだ陣を整えないうちに攻めかかり、大いに打ち破った。莒では展輿が即位し、公子たちの俸禄を奪った。公子たちは去疾を斉から呼び寄せた。秋、斉の公子鉏が去疾を莒に送り込み、展輿は呉に逃げた。魯の叔弓が軍を率いて鄆の田地の境界を定めた。莒の混乱に乗じたのである。このとき莒の務婁・瞀胡と公子滅明は、大厖と常儀靡の地を持って斉に逃げた。君子は言った。「莒の展輿が位を保てなかったのは、人を棄てたからであろう。人を棄ててよいものか。『詩』に『人材ほど強いものはない』とある。まことによい言葉だ」。
解説
この章句が説くこと
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