春秋左氏伝 / 昭公元年 禹微かりせば吾魚ならん
天王使劉定公勞趙孟於潁。館於雒汭。劉子曰。美哉禹功。明德遠矣。微禹。吾其魚乎。吾與子弁冕端委。以治民臨諸侯。禹之力也。子盍亦遠績禹功。而大庇民乎。對曰。老夫罪戾是懼。焉能恤遠。吾儕偷食。朝不謀夕。何其長也。劉子歸以語王曰。諺所謂老將知而耄及之者。其趙孟之謂乎。為晉正卿。以主諸侯。而儕於隸人。朝不謀夕。棄神人矣。神怒民叛。何以能久。趙孟不復年矣。神怒不歆其祀。民叛不即其事。祀事不從。又何以年。叔孫歸。曾夭御季孫以勞之。旦及日中。不出。曾夭謂曾阜曰。旦及日中。吾知罪矣。魯以相忍為國也。忍其外。不忍其内。焉用之。阜曰。數月於外。一旦於是。庸何傷。賈而欲贏。而惡囂乎。阜謂叔孫曰。可以出矣。叔孫指楹曰。雖惡是。其可去乎。乃出見之。
新字:天王使劉定公労趙孟於潁。館於雒汭。劉子曰。美哉禹功。明徳遠矣。微禹。吾其魚乎。吾与子弁冕端委。以治民臨諸侯。禹之力也。子盍亦遠績禹功。而大庇民乎。対曰。老夫罪戻是懼。焉能恤遠。吾儕偸食。朝不謀夕。何其長也。劉子帰以語王曰。諺所謂老将知而耄及之者。其趙孟之謂乎。為晋正卿。以主諸侯。而儕於隸人。朝不謀夕。棄神人矣。神怒民叛。何以能久。趙孟不復年矣。神怒不歆其祀。民叛不即其事。祀事不従。又何以年。叔孫帰。曽夭御季孫以労之。旦及日中。不出。曽夭謂曽阜曰。旦及日中。吾知罪矣。魯以相忍為国也。忍其外。不忍其内。焉用之。阜曰。数月於外。一旦於是。庸何傷。賈而欲贏。而悪囂乎。阜謂叔孫曰。可以出矣。叔孫指楹曰。雖悪是。其可去乎。乃出見之。
書き下し
天王劉定公をして趙孟を潁に勞はしむ。雒汭に館す。劉子曰く、「美なるかな禹の功、明德遠し。禹微かりせば、吾其れ魚ならんか。吾子と弁冕端委して、以て民を治め諸侯に臨むは、禹の力なり。子盍ぞ亦た遠く禹の功を績ぎて、大いに民を庇はざる」と。對へて曰く、「老夫は罪戾を是れ懼る。焉んぞ能く遠きを恤へん。吾儕は偷食し、朝に夕を謀らず。何ぞ其れ長からん」と。劉子歸りて以て王に語りて曰く、「諺に所謂『老いて將に知らんとして耄之に及ぶ』とは、其れ趙孟の謂か。晉の正卿と為りて、以て諸侯を主り、而も隸人に儕しくし、朝に夕を謀らず。神人を棄てたり。神怒り民叛かば、何を以てか能く久しからん。趙孟は年を復せざらん。神怒れば其の祀を歆けず、民叛けば其の事に即かず。祀事從はずんば、又何を以てか年あらん」と。叔孫歸る。曾夭季孫に御して以て之を勞ふ。旦より日中に及ぶまで、出でず。曾夭曾阜に謂ひて曰く、「旦より日中に及ぶ。吾罪を知れり。魯は相忍ぶを以て國を為むるなり。其の外に忍びて、其の內に忍ばずんば、焉んぞ之を用ゐん」と。阜曰く、「數月外に於てし、一旦是に於てす。庸ぞ何ぞ傷まん。賈して贏を欲して、囂を惡まんや」と。阜叔孫に謂ひて曰く、「以て出づべし」と。叔孫楹を指して曰く、「是を惡むと雖も、其れ去るべけんや」と。乃ち出でて之に見ゆ。
現代語訳
周の天王(景王)は劉定公を遣わし、潁で趙孟を慰労させた。一行は雒水が黄河に注ぐあたりに宿を取った。劉子(劉定公)は言った。「禹の功績はまことに見事なものだ。その明らかな徳は遠くまで及んでいる。禹がいなければ、我々は魚になっていたことだろう。私とあなたが冠をかぶり礼服を着て、民を治め諸侯に臨んでいられるのは、禹の力のおかげである。あなたもどうして遠く禹の功業を受け継いで、大いに民を守ろうとなさらないのか」。趙孟は答えた。「老いた私は罪を犯すことばかりを恐れています。どうして遠い先のことまで心配できましょう。我々はその日暮らしで食べているだけで、朝には夕方のことも考えておりません。どうして長い先のことが考えられましょう」。劉子は帰って王に語った。「ことわざに『年老いてようやく物事がわかるようになるころには、耄碌が追いついてくる』というのは、まさに趙孟のことでしょう。晋の正卿として諸侯を主宰する身でありながら、自分を下僕と同列に置き、朝には夕方のことも考えないと言う。神も人も見捨てたのです。神が怒り、民が背けば、どうして長く保てましょう。趙孟は来年を迎えられないでしょう。神が怒ればその祭祀を受けず、民が背けばその仕事に就きません。祭祀も政事も思うようにならなければ、どうして年を重ねられましょう」。叔孫(叔孫豹)が魯に帰った。曾夭は季孫(季武子)の車の御者を務め、季孫とともに叔孫を慰労しに行った。朝から昼になっても、叔孫は出てこなかった。曾夭は曾阜(叔孫の家臣)に言った。「朝から昼まで待たされました。わが主人は自分の罪をよくわかっています。魯は互いに堪え忍ぶことで国を成り立たせてきました。外では堪え忍んでおきながら、内では堪え忍ばないというのなら、いったい何のためでしょう」。曾阜は言った。「わが主人は数か月も国外で苦労したのです。こちらはたった一日、朝のうちだけのことです。何の差し支えがありましょう。商人が儲けを望むなら、市場の騒がしさを嫌ってはいられないでしょう」。曾阜は叔孫に言った。「もう出てもよいでしょう」。叔孫は柱を指して言った。「この柱を憎んでいても、取り除くわけにはいかないだろう」。そこで出て行って季孫に会った。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公元年 信を以て本と為す國家罷れず、民に謗讟無く、諸侯に怨み無く、天に大災無きは、子の力なり。令名有り。而るに之を終ふるに恥を以てせんことを、午や是れ懼る。吾子其れ以て戒めざるべからず」と。文子曰く、「武賜を受けたり。然れども宋の盟に、子木は人を禍するの心有り、武は人を仁するの心有り。是れ楚の晉に駕せし所以なり。今武猶ほ是の心なり。楚又僭を行ふも、害する所に非ざるなり。武將に信以て本と為し、循ひて之を行はんとす。譬へば農夫の如し。是れ穮し是れ蔉へば、饑饉有りと雖も、必ず豐年有り。且つ吾之を聞く、『能く信なれば人の下と為らず』と。吾未だ能くせざるなり。詩に曰く、『僭せず賊せざれば、則と為らざること鮮し』と。信なり。能く人の則と為る者は、人の下と為らず。吾能くせざるを是れ難しとす。楚は患ひと為らず」と。楚の令尹圍牲を用ゐて、舊書を讀み、牲の上に加へんのみと請ふ。晉人之を許す。
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人物志・釋爭君子は屈するの以て伸と為す可きを知る、故に辱を含みて辞せず。卑讓の以て敵に勝つ可きを知る、故に之に下りて疑わず。
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孔子家語・屈節解齊人魯を攻め、道單父に由る、單父の老請いて曰く、「麥已に熟せり、今齊寇至る、人々自ら其の麥を收むるに及ばず。請う民を放ちて出でしめ、皆傳郭の麥を獲せしめよ。以て糧を益すべく、且つ寇に資らざらん。」三たび請うも宓子聽かず。俄かにして齊寇麥に逮ぶ。季孫之を聞きて怒り、人をして以て宓子を讓めしめて曰く、「民寒に耕し熱に耘して、曾て食を得ず、豈哀しからずや。知らざれば猶お可なり、告ぐる者有りて子聽かざるは、民の為にする所以に非ざるなり。」宓子蹴然として曰く、「今茲麥無くとも、明年樹うべし。若し耕さざる者をして獲せしめば、是れ民をして寇有るを樂しましむるなり。且つ單父一歲の麥を得るとも、魯に於て加えて強からず、之を喪うとも加えて弱からず。若し民をして自ら取るの心有らしめば、其の創必ず數世息まざらん。」季孫之を聞きて、赧然として愧じて曰く、「地若し入るべくんば、吾豈宓子を見るに忍びんや。」
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論語・衛霊公篇子曰わく、君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む。
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