孔子家語 / 屈節解
齊人攻魯,道由單父,單父之老請曰:「麥已熟矣,今齊寇至,不及人人自收其麥。請放民出,皆獲傳郭之麥;可以益糧,且不資於寇。」三請而宓子不聽。俄而齊寇逮於麥,季孫聞之怒,使人以讓宓子曰:「民寒耕熱耘,曾不得食,豈不哀哉?不知猶可,以告者而子不聽,非所以為民也。」宓子蹴然曰:「今茲無麥,明年可樹。若使不耕者獲,是使民樂有寇,且得單父一歲之麥,於魯不加強,喪之不加弱。若使民有自取之心,其創必數世不息。」季孫聞之,赧然而愧曰:「地若可入,吾豈忍見宓子哉?」
新字:斉人攻魯,道由単父,単父之老請曰:「麦已熟矣,今斉寇至,不及人人自収其麦。請放民出,皆獲伝郭之麦;可以益糧,且不資於寇。」三請而宓子不聴。俄而斉寇逮於麦,季孫聞之怒,使人以譲宓子曰:「民寒耕熱耘,曽不得食,豈不哀哉?不知猶可,以告者而子不聴,非所以為民也。」宓子蹴然曰:「今茲無麦,明年可樹。若使不耕者獲,是使民楽有寇,且得単父一歳之麦,於魯不加強,喪之不加弱。若使民有自取之心,其創必数世不息。」季孫聞之,赧然而愧曰:「地若可入,吾豈忍見宓子哉?」
書き下し
齊人魯を攻め、道單父に由る、單父の老請いて曰く、「麥已に熟せり、今齊寇至る、人々自ら其の麥を收むるに及ばず。請う民を放ちて出でしめ、皆傳郭の麥を獲せしめよ。以て糧を益すべく、且つ寇に資らざらん。」三たび請うも宓子聽かず。俄かにして齊寇麥に逮ぶ。季孫之を聞きて怒り、人をして以て宓子を讓めしめて曰く、「民寒に耕し熱に耘して、曾て食を得ず、豈哀しからずや。知らざれば猶お可なり、告ぐる者有りて子聽かざるは、民の為にする所以に非ざるなり。」宓子蹴然として曰く、「今茲麥無くとも、明年樹うべし。若し耕さざる者をして獲せしめば、是れ民をして寇有るを樂しましむるなり。且つ單父一歲の麥を得るとも、魯に於て加えて強からず、之を喪うとも加えて弱からず。若し民をして自ら取るの心有らしめば、其の創必ず數世息まざらん。」季孫之を聞きて、赧然として愧じて曰く、「地若し入るべくんば、吾豈宓子を見るに忍びんや。」
現代語訳
斉が魯を攻め、その進軍路は単父を通ることになった。単父の長老たちが願い出て言った。「麦がすでに実っています。今、斉の敵軍が迫っており、とても各家が自分たちの麦を刈り取っている時間はありません。どうか民を外に出させ、城郭の外に広がる麦を誰でも自由に刈り取らせてください。そうすれば食糧を増やせますし、敵に麦を奪われずに済みます。」三度願い出たが、宓子はこれを聞き入れなかった。まもなく斉の敵軍が麦畑にまで達し、麦は敵の手に渡ってしまった。季孫氏はこれを聞いて怒り、人を遣わして宓子を叱責させて言った。「民は寒い時期に耕し暑い時期に草取りをして、それでも食べる物すら得られないのは、なんと哀れなことか。知らなかったのならまだしも、進言する者がいたのに聞き入れなかったのは、民のためを思う政治とは言えない。」宓子は顔色を変えて言った。「今年、麦が手に入らなくても、来年また植えればよいのです。もし耕作していない者にまで麦を取らせれば、それは民に『敵が攻めてくれば得をする』と喜ばせることになってしまいます。それに、単父一年分の麦を得たところで魯の国力がそれほど強くなるわけでもなく、それを失ったところでそれほど弱くなるわけでもありません。もし民に『機に乗じて自分のものを取ってよいのだ』という心を持たせてしまえば、その傷は必ず何世代にもわたって癒えないでしょう。」季孫氏はこれを聞いて、顔を赤らめて恥じ入り、言った。「もし地面に穴があって入れるものなら、私はどうして宓子に合わせる顔があろうか。」
解説

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『春秋左氏伝』昭公元年 禹微かりせば吾魚ならん天王劉定公をして趙孟を潁に勞はしむ。雒汭に館す。劉子曰く、「美なるかな禹の功、明德遠し。禹微かりせば、吾其れ魚ならんか。吾子と弁冕端委して、以て民を治め諸侯に臨むは、禹の力なり。子盍ぞ亦た遠く禹の功を績ぎて、大いに民を庇はざる」と。對へて曰く、「老夫は罪戾を是れ懼る。焉んぞ能く遠きを恤へん。吾儕は偷食し、朝に夕を謀らず。何ぞ其れ長からん」と。劉子歸りて以て王に語りて曰く、「諺に所謂『老いて將に知らんとして耄之に及ぶ』とは、其れ趙孟の謂か。晉の正卿と為りて、以て諸侯を主り、而も隸人に儕しくし、朝に夕を謀らず。神人を棄てたり。神怒り民叛かば、何を以てか能く久しからん。趙孟は年を復せざらん。神怒れば其の祀を歆けず、民叛けば其の事に即かず。祀事從はずんば、又何を以てか年あらん」と。叔孫歸る。曾夭季孫に御して以て之を勞ふ。旦より日中に及ぶまで、出でず。曾夭曾阜に謂ひて曰く、「旦より日中に及ぶ。吾罪を知れり。魯は相忍ぶを以て國を為むるなり。其の外に忍びて、其の內に忍ばずんば、焉んぞ之を用ゐん」と。阜曰く、「數月外に於てし、一旦是に於てす。庸ぞ何ぞ傷まん。賈して贏を欲して、囂を惡まんや」と。阜叔孫に謂ひて曰く、「以て出づべし」と。叔孫楹を指して曰く、「是を惡むと雖も、其れ去るべけんや」と。乃ち出でて之に見ゆ。
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