春秋左氏伝 / 襄公三十年 絳県の老人
三月。癸未。晉悼夫人食輿人之城杞者。絳縣人或年長矣。無子。而往與於食。有與疑年。使之年。曰臣小人也。不知紀年。臣生之歲。正月甲子朔。四百有四十五。甲子矣。其季於今。三之一也。吏走問諸朝。師曠曰。魯叔仲惠伯會郤成子于承匡之歲也。是歲也。狄伐魯。叔孫莊叔於是乎敗狄于鹹。獲長狄僑如。及虺也豹也。而皆以名其子。七十三年矣。史趙曰。亥有二首六身。下二如身。是其日數也。士文伯曰。然則二萬六千六百有六旬也。趙孟問其縣大夫。則其屬也。召之而謝過焉。曰。武不才。任君之大事。以晉國之多虞。不能由吾子。使吾子辱在泥塗久矣。武之罪也。敢謝不才。遂仕之。使助為政。辭以老。與之田。使為君復陶。以為絳縣師。而廢其輿尉。於是魯使者在晉。歸以語諸大夫。季武子曰。晉未可媮也。有趙孟以為大夫。有伯瑕以為佐。有史趙師曠而咨度焉。有叔向女齊以師保其君。其朝多君子。其庸可媮乎。勉事之而後可。
新字:三月。癸未。晋悼夫人食輿人之城杞者。絳県人或年長矣。無子。而往与於食。有与疑年。使之年。曰臣小人也。不知紀年。臣生之歳。正月甲子朔。四百有四十五。甲子矣。其季於今。三之一也。吏走問諸朝。師曠曰。魯叔仲恵伯会郤成子于承匡之歳也。是歳也。狄伐魯。叔孫荘叔於是乎敗狄于鹹。獲長狄僑如。及虺也豹也。而皆以名其子。七十三年矣。史趙曰。亥有二首六身。下二如身。是其日数也。士文伯曰。然則二万六千六百有六旬也。趙孟問其県大夫。則其属也。召之而謝過焉。曰。武不才。任君之大事。以晋国之多虞。不能由吾子。使吾子辱在泥塗久矣。武之罪也。敢謝不才。遂仕之。使助為政。辞以老。与之田。使為君復陶。以為絳県師。而廃其輿尉。於是魯使者在晋。帰以語諸大夫。季武子曰。晋未可媮也。有趙孟以為大夫。有伯瑕以為佐。有史趙師曠而咨度焉。有叔向女斉以師保其君。其朝多君子。其庸可媮乎。勉事之而後可。
書き下し
三月癸未、晉の悼夫人、輿人の杞に城く者に食(し)せしむ。絳縣の人、或いは年長じて子無く、往きて食に與る。與に年を疑ふ有り、之をして年を使(い)はしむ。曰く、「臣は小人なり。紀年を知らず。臣生まるるの歲は、正月甲子朔なり。四百有四十五甲子なり。其の季は今に於いて三の一なり」と。吏、走りて諸を朝に問ふ。師曠曰く、「魯の叔仲惠伯、郤成子に承匡に會するの歲なり。是の歲や、狄、魯を伐つ。叔孫莊叔、是に於いてか狄を鹹に敗り、長狄の僑如及び虺や豹やを獲て、皆以て其の子に名づく。七十三年なり」と。史趙曰く、「亥は二首六身有り。下の二は身の如し。是れ其の日數なり」と。士文伯曰く、「然らば則ち二萬六千六百有六旬なり」と。趙孟、其の縣大夫を問へば、則ち其の屬なり。之を召して過ちを謝して曰く、「武、不才にして、君の大事に任ず。晉國の虞多きを以て、吾子を由(もち)ふる能はず、吾子をして泥塗に辱く在らしむること久し。武の罪なり。敢へて不才を謝す」と。遂に之を仕へしめ、政を助けしめんとす。辭するに老を以てす。之に田を與へ、君の復陶と為し、以て絳縣の師と為して、其の輿尉を廢す。是に於いて魯の使者晉に在り、歸りて以て諸大夫に語る。季武子曰く、「晉は未だ媮(かろ)んずべからざるなり。趙孟有りて以て大夫と為し、伯瑕有りて以て佐と為し、史趙・師曠有りて咨度し、叔向・女齊有りて以て其の君を師保す。其の朝、君子多し。其れ庸(なん)ぞ媮んずべけんや。勉めて之に事へて而る後に可なり」と。
現代語訳
三月癸未の日、晋の悼夫人(平公の母)は、杞の築城に従事した人夫たちに食事をふるまった。絳県の人で、年老いて子のない者がいて、彼も出かけて食事にあずかった。その場にいた者が彼の年齢を疑い、年を言わせた。老人は言った。「私は小人で、年の数え方を知りません。私が生まれた年は、正月甲子の日が朔日でした。それから四百四十五回の甲子の日を経ました。最後の一巡りは、今でちょうど三分の一です」。役人は走って朝廷に問い合わせた。師曠(晋の楽師)は言った。「魯の叔仲恵伯が承匡で郤成子と会見した年である。その年、狄が魯を攻め、叔孫荘叔が鹹で狄を破って、長狄の僑如と虺と豹を捕らえ、みなその名を自分の子に名づけた。それから七十三年になる」。史趙(晋の史官)は言った。「亥の字は、上に二つの首(二)と、下に六つの身(六)がある。下の二画を身と同じように数えれば(二・六・六・六)、それがその日数である」。士文伯は言った。「それならば二万六千六百六旬、すなわち二万六千六百六十日である」。趙孟(趙武)がその老人の属する県の大夫を問うと、それは趙孟自身の配下であった。趙孟は老人を呼んで過ちをわびて言った。「私は不才でありながら、君の大事を任されています。晋の国に憂患が多いために、あなたを用いることができず、長いあいだあなたを泥の中のような労役に甘んじさせてしまいました。私の罪です。不才をおわびします」。そして老人を官に就けて政治を助けさせようとした。老人は老齢を理由に辞退した。そこで田地を与え、君の衣服をつかさどる復陶の官とし、絳県の師(長老として県の相談役)とした。そして老人を徴用した輿尉(人夫を割り当てる役人)を罷免した。このとき魯の使者が晋にいて、帰国してこの話を大夫たちに語った。季武子は言った。「晋はまだ侮ってはならない。趙孟が大夫としており、伯瑕(士文伯)が補佐しており、史趙と師曠がいて相談に応じ、叔向と女齊が君の師や守り役となっている。その朝廷には君子が多い。どうして侮れようか。努めて晋に仕えてこそよいのだ」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』外篇・治道・必ず一般の用ふ可き有り是れ最も愚拙の人に任すも、必ず一般の用ふ可き有り。善く之を用ふる者に在るのみ。
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『春秋左氏伝』宣公十二年 進みては忠を尽くす是の役や、鄭の石制、實に楚の師を入れ、將に以て鄭を分ちて、公子魚臣を立てんとす。辛未、鄭僕叔及び子服を殺す。君子曰く、「史佚の所謂亂を怙むこと毋かれとは、是の類を謂ふなり。詩に曰く、『亂離瘼めり、爰に其れ適き歸せん』と。亂を怙む者に歸するかな」と。鄭伯・許男、楚に如く。秋、晉の師歸る。桓子死を請ふ、晉侯之を許さんと欲す。士貞子諫めて曰く、「不可なり。城濮の役、晉の師三日穀す、文公猶ほ憂色有り。左右曰く、『喜び有りて憂ふ、如し憂ひ有らば喜ばんか』と。公曰く、『得臣猶ほ在り、憂ひ未だ歇まざるなり』と。困獸すら猶ほ鬥ふ、況んや國相をや。楚の子玉を殺すに及びて、公喜びて而る後に知るべきなり、曰く、『余を毒する莫きのみ』と。是れ晉再び克ちて楚再び敗るるなり。楚是を以て再世競はず。今天或いは者大いに晉を警むるなり、而るに又林父を殺して以て楚の勝ちを重ねば、其れ乃ち久しく競はざること無からんや。林父の君に事ふるや、進みては忠を盡くさんことを思ひ、退きては過ちを補はんことを思ふ、社稷の衛なり、若之何ぞ之を殺さん。夫れ其の敗るるや、日月の食の如し、何ぞ明を損せん」と。晉侯其の位に復せしむ。
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