春秋左氏伝 / 襄公二十八年 淫人の富は殃
遂來奔。獻車於季武子。美澤可以鑑。展莊叔見之。曰。車甚澤。人必瘁。宜其亡也。叔孫穆子食慶封。慶封氾祭。穆子不說。使工為之誦茅鴟。亦不知。既而齊人來讓。奔吳。吳句餘予之朱方。聚其族焉而居之。富於其舊。子服惠伯謂叔孫曰。天殆富淫人。慶封又富矣。穆子曰善人富謂之賞。淫人富謂之殃。天其殃之也。其將聚而殲旃。癸巳。天王崩。未來赴。亦未書。禮也。崔氏之亂。喪群公子。故鉏在魯。叔孫還在燕。賈在句瀆之丘。及慶氏亡。皆召之。具其器用。而反其邑焉。與晏子邶殿。其鄙六十。弗受。子尾曰。富。人之所欲也。何獨弗欲。
新字:遂来奔。献車於季武子。美沢可以鑑。展荘叔見之。曰。車甚沢。人必瘁。宜其亡也。叔孫穆子食慶封。慶封氾祭。穆子不説。使工為之誦茅鴟。亦不知。既而斉人来譲。奔呉。呉句余予之朱方。聚其族焉而居之。富於其旧。子服恵伯謂叔孫曰。天殆富淫人。慶封又富矣。穆子曰善人富謂之賞。淫人富謂之殃。天其殃之也。其将聚而殲旃。癸巳。天王崩。未来赴。亦未書。礼也。崔氏之乱。喪群公子。故鉏在魯。叔孫還在燕。賈在句瀆之丘。及慶氏亡。皆召之。具其器用。而反其邑焉。与晏子邶殿。其鄙六十。弗受。子尾曰。富。人之所欲也。何独弗欲。
書き下し
遂に來奔す。車を季武子に獻ず。美澤にして以て鑑とすべし。展莊叔之を見て曰く、「車甚だ澤なれば、人必ず瘁(つか)る。宜なり其の亡ぶるや」と。叔孫穆子、慶封に食せしむ。慶封、氾祭す。穆子說ばず、工をして之が為に茅鴟を誦せしむ。亦た知らず。既にして齊人來りて讓む。吳に奔る。吳の句餘、之に朱方を予ふ。其の族を聚めて之に居る。其の舊よりも富む。子服惠伯、叔孫に謂ひて曰く、「天殆ど淫人を富ますか。慶封又富めり」と。穆子曰く、「善人の富むは之を賞と謂ひ、淫人の富むは之を殃と謂ふ。天其れ之に殃せんとするなり。其れ將に聚めて旃(これ)を殲さんとす」と。癸巳、天王崩ず。未だ赴を來さず、亦た書せず。禮なり。崔氏の亂に、群公子を喪ふ。故に鉏は魯に在り、叔孫還は燕に在り、賈は句瀆の丘に在り。慶氏亡ぶに及び、皆之を召し、其の器用を具へて、其の邑を反す。晏子に邶殿、其の鄙六十を與ふ。受けず。子尾曰く、「富は人の欲する所なり。何ぞ獨り欲せざる」と。
現代語訳
こうして慶封は魯に亡命して来た。彼は車を季武子に献上した。その車は美しく磨かれていて、鏡に使えるほどであった。展荘叔はこれを見て言った。「車がこれほど光っているなら、人(民)は必ず疲れ果てているだろう。この人が亡びたのももっともだ」。叔孫穆子(叔孫豹)が慶封に食事をふるまった。慶封は祭りの作法を無視して、食物をあちこちにまき散らして祭った。穆子は不快に思い、楽工に「茅鴟」(礼を知らない者をそしる詩)を朗誦させたが、慶封はそれにも気づかなかった。まもなく斉の人がやって来て、慶封をかくまっていることを責めた。慶封は呉に逃れた。呉の句余(呉王余祭)は彼に朱方の地を与えた。慶封は一族を集めてそこに住み、以前よりも富み栄えた。子服恵伯は叔孫(穆子)に言った。「天はどうやら淫らな者を富ませるようです。慶封がまた富んでいます」。穆子は言った。「善人が富むことを賞といい、淫らな者が富むことを殃(わざわい)という。天は彼に災いを下そうとしているのだ。一族をひとところに集めたうえで、まとめて滅ぼそうとしているのだろう」。癸巳の日、天王(周の霊王)が崩じた。まだ訃報が届いていないので、『春秋』にも記さなかった。これは礼にかなっている。崔氏の乱で、斉は多くの公子を失った。そのため公子鉏は魯に、叔孫還は燕に、公子賈は句瀆の丘にいた。慶氏が滅びると、斉は彼らを皆呼び戻し、家財や器物をそろえて与え、それぞれの邑を返した。晏子(晏嬰)には邶殿の地と、その周辺の六十の邑を与えようとしたが、晏子は受けなかった。子尾は言った。「富は誰もが欲しがるものです。どうしてあなただけが欲しがらないのですか」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』襄公二十六年 子産、邑を辞す鄭伯陳に入るの功を賞す。三月、甲寅、朔、子展を享し、之に先路と三命の服を賜ひ、先づ八邑。子產に次路と再命の服を賜ひ、先づ六邑。子產邑を辭して曰く、「上より以下、隆殺するに兩を以てするは、禮なり。臣の位は四に在り。且つ子展の功なり。臣敢へて賞禮に及ばず。請ふ邑を辭せん」と。公固く之を予ふ。乃ち三邑を受く。公孫揮曰く、「子產其れ將に政を知らんとす。讓りて禮を失はず」と。晉人孫氏の故の為に諸侯を召し、將に以て衛を討たんとす。夏、中行穆子來聘す。公を召すなり。
-
『春秋左氏伝』荘公十年 乗丘の戦い夏六月、齊の師・宋の師郎に次す。公子偃曰く、「宋の師整はず、敗るべきなり。宋敗るれば、齊必ず還らん。請ふ之を擊たん」と。公許さず。雩門より竊かに出で、皋比を蒙りて先づ之を犯す。公之に從ふ。大いに宋の師を乘丘に敗る。齊の師乃ち還る。蔡の哀侯陳に娶る。息侯も亦た焉に娶る。息媯將に歸がんとし、蔡を過ぐ。蔡侯曰く、「吾が姨なり」と。止めて之を見る。賓せず。息侯之を聞きて、怒り、楚の文王に謂はしめて曰く、「我を伐て。吾救ひを蔡に求めん。而して之を伐て」と。楚子之に從ふ。秋九月、楚蔡の師を莘に敗り、蔡侯獻舞を以て歸る。齊侯の出づるや、譚を過ぐ。譚禮せず。其の入るに及びて、諸侯皆賀す。譚又至らず。冬、齊の師譚を滅ぼす。譚禮無ければなり。譚子莒に奔る。同盟の故なり。
-
『春秋左氏伝』哀公二十一年・二十二年 越、呉を滅ぼす二十一年夏五月、越人始めて來る。秋八月、公、齊侯・邾子と顧に盟ふ。齊人、稽首を責め、因りて之を歌ひて曰く、「魯人の皋、數年覺らず、我をして高く蹈ましむ。唯だ其の儒書、以て二國の憂と為る」と。是の行や、公、先づ陽穀に至る。齊の閭丘息曰く、「君、辱くも玉趾を舉げて、以て寡君の軍に在り。群臣將に傳遽して以て寡君に告げんとす。其の復るに比ぶ、君乃ち勤むる無からんや。僕人の未だ次せざるが為に、請ふ、館を舟道に除せん」と。辭して曰く、「敢へて僕人を勤めしめんや」と。二十二年夏四月、邾の隱公、齊より越に奔る。曰く、「吳、無道を為し、父を執へて子を立つ」と。越人之を歸す。大子革、越に奔る。冬十一月丁卯、越、吳を滅ぼす。吳王をして甬東に居らしめんと請ふ。辭して曰く、「孤老いたり。焉んぞ能く君に事へん」と。乃ち縊る。越人以て歸る。
-
論語・述而篇子曰く、富にして求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従わん。
-
『武士道』第七章 至誠信實・富の道は名誉の道に非ず然るに聞く、米国の如き実業国に於てすら、実業家中、十の八は破産せざるなしと。されば士族の商業の能く成功したるもの、百人にして一人を算ふるも、亦た敢て驚くに足らず。要するに武士道の道義を商業に施さんと欲して、為に蕩尽したる財産の数量は、殆ど計るべからざるものあらん。識見ある士人の、直ちに富の道は名誉の道に非ざるを認めたるも、亦た宜なりと謂ふべし。この二者の道の由つて岐るる処は、果していづれにありや。レッキーがかつて誠実の誘因として挙げたる実業、政治、哲学の三者中、其一は武士道全く之を欠き、其二は封建制度の政治社会に在りて、殆ど此れが発達を見ること能はざりき。而して誠実信義の徳の、士林の道徳範囲に於て其重きをなすに至りたる所以は、其哲学的誘因に由れるものにして、即ちレッキーの所謂、至高の形態に於て発達したるものなり。
-
論語・季氏篇斉の景公、馬千駟有り。死するの日、民徳として称する無し。伯夷・叔斉、首陽の下に餓う。民今に到るまで之を称す。其れ斯を之謂うか。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る