春秋左氏伝 / 襄公二十八年 嘗祭の政変
十一月。乙亥。嘗于大公之廟。慶舍蒞事。盧蒲姜告之。且止之。弗聽。曰。誰敢者。遂如公。麻嬰為尸。慶奊為上獻。盧蒲癸。王何。執寢戈。慶氏以其甲環公宮。陳氏。鮑氏。之圉人為優。慶氏之馬善驚。士皆釋甲束馬而飲酒。且觀優。至於魚里。欒高陳鮑之徒。介慶氏之甲。子尾抽桷擊扉三。盧蒲癸自後刺子之。王何以戈擊之。解其左肩。猶援廟桷動於甍。以俎壺投殺人而後死。遂殺慶繩麻嬰。公懼。鮑國曰。群臣為君故也陳須無以公歸。稅服而如內宮。慶封歸。遇告亂者。丁亥。伐西門。弗克。還伐北門。克之。入伐內宮。弗克。反陳于嶽。請戰弗許。
新字:十一月。乙亥。嘗于大公之廟。慶舎莅事。盧蒲姜告之。且止之。弗聴。曰。誰敢者。遂如公。麻嬰為尸。慶奊為上献。盧蒲癸。王何。執寝戈。慶氏以其甲環公宮。陳氏。鮑氏。之圉人為優。慶氏之馬善驚。士皆釈甲束馬而飲酒。且観優。至於魚里。欒高陳鮑之徒。介慶氏之甲。子尾抽桷撃扉三。盧蒲癸自後刺子之。王何以戈撃之。解其左肩。猶援廟桷動於甍。以俎壺投殺人而後死。遂殺慶縄麻嬰。公懼。鮑国曰。群臣為君故也陳須無以公帰。税服而如内宮。慶封帰。遇告乱者。丁亥。伐西門。弗克。還伐北門。克之。入伐内宮。弗克。反陳于嶽。請戦弗許。
書き下し
十一月乙亥、大公の廟に嘗す。慶舍、事に蒞む。盧蒲姜之に告げ、且つ之を止む。聽かずして曰く、「誰か敢へてする者ぞ」と。遂に公に如く。麻嬰、尸と為り、慶奊、上獻と為る。盧蒲癸・王何、寢戈を執る。慶氏、其の甲を以て公宮を環る。陳氏・鮑氏の圉人、優を為す。慶氏の馬善く驚く。士皆甲を釋き馬を束ねて酒を飲み、且つ優を觀て、魚里に至る。欒・高・陳・鮑の徒、慶氏の甲を介す。子尾、桷を抽きて扉を擊つこと三たび。盧蒲癸、後ろより子之を刺し、王何、戈を以て之を擊ち、其の左肩を解く。猶ほ廟の桷を援きて甍を動かし、俎・壺を以て人に投じ殺して而る後に死す。遂に慶繩・麻嬰を殺す。公懼る。鮑國曰く、「群臣は君の為の故なり」と。陳須無、公を以て歸り、服を稅(ぬ)ぎて內宮に如く。慶封歸り、亂を告ぐる者に遇ふ。丁亥、西門を伐つ、克たず。還りて北門を伐ち、之に克つ。入りて內宮を伐つ、克たず。反りて嶽に陳し、戰を請ふも許さず。
現代語訳
十一月乙亥の日、大公(太公望)の廟で嘗の祭りを行った。慶舎がその祭事を取り仕切った。盧蒲姜は父に計画があることを告げ、そのうえで行くのを止めた。慶舎は聞き入れずに言った。「誰がそんなことをするものか」。こうして公のもとへ行った。麻嬰が尸(祖先の霊の代わりに祭りを受ける役)となり、慶奊(慶繩)が上献(最初に酒を献ずる役)となった。盧蒲癸と王何は寝所を守る戈を持って慶舎の護衛についた。慶氏は自家の兵で公宮を取り囲んだ。陳氏と鮑氏の馬丁たちが芝居を演じた。慶氏の馬は物音に驚きやすかったので、兵士たちは皆、甲を脱ぎ、馬をつないでおいて酒を飲み、そのうえ芝居を見物しながら魚里まで行った。欒氏・高氏・陳氏・鮑氏の手の者たちが、慶氏の脱いだ甲を着込んだ。子尾が垂木を引き抜いて扉を三度打った(合図)。盧蒲癸が背後から子之(慶舎)を刺し、王何が戈で打って、その左肩を断ち割った。それでも慶舎はなお廟の垂木をつかんで棟を揺るがし、祭器の俎や壺を投げつけて人を殺し、そのあとで死んだ。続いて慶繩と麻嬰を殺した。景公は恐れた。鮑国(鮑文子)は言った。「群臣は君のためにしたのです」。陳須無(陳文子)は公を連れて帰り、公は祭服を脱いで内宮に入った。慶封は帰る途中、乱を告げに来た者に出会った。丁亥の日、慶封は都の西門を攻めたが勝てなかった。引き返して北門を攻め、これを破った。城内に入って内宮を攻めたが、勝てなかった。引き返して嶽の地に陣を敷き、決戦を申し込んだが、相手は応じなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』襄公二十八年 慶氏打倒の謀議御者之を知り、則ち其の肉を去りて、其の洎(しる)を以て饋る。子雅・子尾怒る。慶封、盧蒲嫳に告ぐ。盧蒲嫳曰く、「之を禽獸に譬ふれば、吾其の皮に寢處せん」と。析歸父をして晏平仲に告げしむ。平仲曰く、「嬰の衆は用ゐるに足らず、知は能く謀る無し。言は敢へて出ださず。盟有るも可なり」と。子家曰く、「子の言云へり、又焉んぞ盟を用ゐん」と。北郭子車に告ぐ。子車曰く、「人各々以て君に事ふる有り、佐の能くする所に非ざるなり」と。陳文子、桓子に謂ひて曰く、「禍將に作らんとす。吾其れ何をか得ん」と。對へて曰く、「慶氏の木百車を莊に得ん」と。文子曰く、「慎みて守るべきのみ」と。盧蒲癸・王何、慶氏を攻めんことを卜し、子之に兆を示して曰く、「或ひと讎を攻めんことを卜す。敢へて其の兆を獻ず」と。子之曰く、「克たん。血を見ん」と。
-
『春秋左氏伝』宣公十八年 東門氏の追放十八年春、晉侯・衛の大子臧、齊を伐ち、陽穀に至る。齊侯晉侯に會して繒に盟ひ、公子彊を以て晉に質と為す。晉の師還る。蔡朝・南郭偃、逃れ歸る。夏、公楚に使ひして師を乞はしむ、以て齊を伐たんと欲するなり。秋、邾人鄫子を鄫に戕す。凡そ內より其の君を虐するを弒と曰ひ、外よりするを戕と曰ふ。楚の莊王卒す、楚の師出でず。既にして晉の師を用ふ、楚是に於てか蜀の役有り。公孫歸父襄仲の公を立てしを以て、寵有り。三桓を去りて、以て公室を張らんと欲し、公と謀りて晉に聘す、晉人を以て之を去らんと欲するなり。冬、公薨ず。季文子朝に言ひて曰く、「我をして適を殺し庶を立てしめ、以て大援を失はしめし者は、仲なるかな」と。臧宣叔怒りて曰く、「其の時に當りて、治むること能はず、後の人何の罪かある。子之を去らんと欲せば、許、請ふ之を去らん」と。遂に東門氏を逐ふ。子家還りて笙に及び、壇帷して、命を介に復す。既に命を復し、袒して髮を括り、位に即きて哭し、三たび踊りて出で、遂に齊に奔る。書して曰く、「歸父晉より還る」と。之を善するなり。
-
史記 田敬仲完世家二十六年、魏の恵王邯鄲を囲む。趙救ひを斉に求む。斉の威王大臣を召して謀りて曰く、「趙を救ふと救ふ勿きと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。段干朋曰く、「救はずんば則ち不義にして、且つ不利なり」と。威王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「夫れ魏氏邯鄲を并せば、其の斉に於て何の利かあらん。且つ夫れ趙を救ひて其の郊に軍せば、是れ趙伐たれずして魏全し。故に南のかた襄陵を攻めて以て魏を獘らし、邯鄲抜けて魏の獘に乗ずるに如かず」と。威王其の計に従ふ。其の後成侯騶忌、田忌と善からず。公孫閲、成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ魏を伐たんことを謀らざる。田忌必ず将たらん。戦ひ勝ちて功有らば、則ち公の謀中るなり。戦ひ勝たずんば、前に死せずんば則ち後に北げん。而して命公に在らん」と。是に於て成侯威王に言ひ、田忌をして南のかた襄陵を攻めしむ。十月、邯鄲抜く。斉因りて兵を起こして魏を撃ち、大いに之を桂陵に敗る。是に於て斉最も諸侯に彊く、自ら称して王と為り、以て天下に令す。三十三年、其の大夫牟辛を殺す。三十五年、公孫閲又成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ人をして十金を操りて市に卜せしめざる。曰く『我は田忌の人なり。吾三たび戦ひて三たび勝ち、声天下に威あり。大事を為さんと欲す。亦吉なるか不吉なるか』と」と。卜者出づ。因りて人をして之が為に卜せし者を捕へしめ、其の辞を王の所に験す。田忌之を聞き、因りて其の徒を率ゐて臨淄を襲攻し、成侯を求むれども、勝たずして奔る。三十六年、威王卒し、子宣王辟彊立つ。宣王元年、秦商鞅を用ふ。周伯を秦の孝公に致す。二年、魏趙を伐つ。趙韓と親しみ、共に魏を撃つ。趙利あらず、南梁に戦ふ。宣王田忌を召して故の位に復す。韓氏救ひを斉に請ふ。宣王大臣を召して謀りて曰く、「蚤く救ふと晩く救ふと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。
-
史記 呂太后本紀高后已に葬る、左丞相審食其を以て帝の太傅と為す。朱虚侯劉章気力有り、東牟侯興居は其の弟なり。皆斉の哀王の弟にして、長安に居る。是の時に当たりて、諸呂事を用ゐて権を擅にし、乱を為さんと欲す、高帝の故の大臣絳・灌等を畏れ、未だ敢へて発せず。朱虚侯の婦は、呂禄の女なり、陰かに其の謀を知る。誅せられんことを恐れ、乃ち陰かに人をして其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめ、諸呂を誅して立たしめんと欲す。
-
『韓非子』備內第十七故に人主は以て心を己の死するを利とする者に加えざる可からず。
-
史記 魏其武安侯列伝詔書独り魏其の家に蔵し、家丞封ず。乃ち魏其を先帝の詔を矯むと劾し、罪棄市に当たる。五年十月、悉く灌夫及び家属を論ず。魏其良久しくして乃ち聞く。聞きて即ち恚り、痱を病み、食はずして死せんと欲す。或ひと上に魏其を殺すに意無しと聞く。魏其復た食ひ、病を治む。議定まりて死せざらんとす。乃ち蜚語の悪言を為して上に聞する有り。故に十二月の晦を以て論じて渭城に棄市す。其の春、武安侯病み、専ら服謝罪を呼ぶ。巫の鬼を視る者をして之を視しむるに、魏其・灌夫共に守りて、之を殺さんと欲するを見る。竟に死す。子恬嗣ぐ。元朔三年、武安侯襜褕を衣て宮に入るに坐し、不敬なり。淮南王安の謀反覚れ、治む。王前に朝す。武安侯太尉為り。時に王を覇上に迎へ、王に謂ひて曰く、「上未だ太子有らず。大王最も賢にして、高祖の孫なり。即し宮車晏駕せば、大王に非ずして立つるは当に誰なるべき」と。淮南王大いに喜び、厚く金財物を遺る。上魏其の時より武安を直とせず。特だ太后の為の故なるのみ。淮南王の金の事を聞くに及び、上曰く、「武安侯をして在らしめば、族せん」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る