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武士道 / 第七章 至誠信實・富の道は名誉の道に非ず

然るに聞く、米國の如き實業國に於てすら、實業家中、十の八は破產せざるなしと。されば士族の商業の能く成功したるもの百人にして一人を算ふるも亦た敢て驚くに足らず。要するに武士道の道義を商業に施さんと欲して、爲に蕩盡したる財產の數量は、殆ど計るべからざるものあらん。識見ある士人の直ちに富の道は、名譽の道に非ざるを認めたるも、亦た宜なりと謂ふべし。この二者の道の由つて歧るゝ處は果して何れにありや。レツキーが曾て誠實の誘因として擧げたる實業、政治、哲學の三者中、其一は武士道全く之を缺き、其二は封建制度の政治社會に在りて、殆ど此れが發達を見ること能はざりき。而して誠實信義の德の、士林の道德範圍に於て其重きをなすに至りたる所以は、其哲學的誘因に由れるものにして、即ちレツキーの所謂、至高の形態に於て發達したるものなり。

新字:然るに聞く、米国の如き実業国に於てすら、実業家中、十の八は破産せざるなしと。されば士族の商業の能く成功したるもの百人にして一人を算ふるも亦た敢て驚くに足らず。要するに武士道の道義を商業に施さんと欲して、為に蕩尽したる財産の数量は、殆ど計るべからざるものあらん。識見ある士人の直ちに富の道は、名誉の道に非ざるを認めたるも、亦た宜なりと謂ふべし。この二者の道の由つて歧るゝ処は果して何れにありや。レツキーが曽て誠実の誘因として挙げたる実業、政治、哲学の三者中、其一は武士道全く之を欠き、其二は封建制度の政治社会に在りて、殆ど此れが発達を見ること能はざりき。而して誠実信義の徳の、士林の道徳範囲に於て其重きをなすに至りたる所以は、其哲学的誘因に由れるものにして、即ちレツキーの所謂、至高の形態に於て発達したるものなり。

書き下し

然るに聞く、米国の如き実業国に於てすら、実業家中、十の八は破産せざるなしと。されば士族の商業の能く成功したるもの、百人にして一人を算ふるも、亦た敢て驚くに足らず。要するに武士道の道義を商業に施さんと欲して、為に蕩尽したる財産の数量は、殆ど計るべからざるものあらん。識見ある士人の、直ちに富の道は名誉の道に非ざるを認めたるも、亦た宜なりと謂ふべし。この二者の道の由つて岐るる処は、果していづれにありや。レッキーがかつて誠実の誘因として挙げたる実業、政治、哲学の三者中、其一は武士道全く之を欠き、其二は封建制度の政治社会に在りて、殆ど此れが発達を見ること能はざりき。而して誠実信義の徳の、士林の道徳範囲に於て其重きをなすに至りたる所以は、其哲学的誘因に由れるものにして、即ちレッキーの所謂、至高の形態に於て発達したるものなり。

現代語訳

ところが聞くところでは、アメリカのような実業国においてさえ、実業家の十のうち八は破産しないものはないといいます。ですから士族の商業でうまくいったものが百人に一人だとしても、驚くには当たりません。要するに武士道の道義を商業に施そうとして、そのために使い果たした財産の額は、ほとんど計り知れないものがあるでしょう。見識のある武士がただちに、富の道は名誉の道ではないと認めたのも、もっともなことです。この二つの道が分かれるところは、どこにあるのでしょうか。レッキーがかつて誠実の誘因として挙げた実業、政治、哲学の三つのうち、一つ目は武士道がまったく欠き、二つ目は封建制度の政治社会にあってはほとんど発達を見られませんでした。そして誠実と信義の徳が武士の道徳の範囲で重きをなすに至った理由は、哲学的な誘因によるもので、レッキーのいう最も高い形態において発達したものです。

解説

失敗の統計的な慰めから、本質的な問いへ移ります。富の道と名誉の道は別だと武士は見抜いた。そして誠実がどこから育つかという分析が入ります。レッキーの三つの誘因のうち、実業と政治は日本では働かず、哲学だけが働いた。つまり日本の誠実は利害から独立して育った最も高い形だ、と。しかしそれは同時に、商業の現場で鍛えられていないという弱さでもあります。次の段でその両面が論じられます。

この章句が説くこと

名誉誠実哲学分岐

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