春秋左氏伝 / 荘公十年 乗丘の戦い
夏六月,齊師、宋師次於郎。公子偃曰:『宋師不整,可敗也。宋敗,齊必還,請擊之。』公弗許。自雩門竊出,蒙皋比而先犯之。公從之。大敗宋師於乘丘。齊師乃還。蔡哀侯娶于陳,息侯亦娶焉。息媯將歸,過蔡。蔡侯曰:『吾姨也。』止而見之,弗賓。息侯聞之,怒,使謂楚文王曰:『伐我,吾求救于蔡而伐之。』楚子從之。秋九月,楚敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。齊侯之出也,過譚,譚不禮焉。及其入也,諸侯皆賀,譚又不至。冬,齊師滅譚,譚無禮也。譚子奔莒,同盟故也。
新字:夏六月,斉師、宋師次於郎。公子偃曰:『宋師不整,可敗也。宋敗,斉必還,請撃之。』公弗許。自雩門窃出,蒙皋比而先犯之。公従之。大敗宋師於乗丘。斉師乃還。蔡哀侯娶于陳,息侯亦娶焉。息媯将帰,過蔡。蔡侯曰:『吾姨也。』止而見之,弗賓。息侯聞之,怒,使謂楚文王曰:『伐我,吾求救于蔡而伐之。』楚子従之。秋九月,楚敗蔡師於莘,以蔡侯献舞帰。斉侯之出也,過譚,譚不礼焉。及其入也,諸侯皆賀,譚又不至。冬,斉師滅譚,譚無礼也。譚子奔莒,同盟故也。
書き下し
夏六月、齊の師・宋の師郎に次す。公子偃曰く、「宋の師整はず、敗るべきなり。宋敗るれば、齊必ず還らん。請ふ之を擊たん」と。公許さず。雩門より竊かに出で、皋比を蒙りて先づ之を犯す。公之に從ふ。大いに宋の師を乘丘に敗る。齊の師乃ち還る。蔡の哀侯陳に娶る。息侯も亦た焉に娶る。息媯將に歸がんとし、蔡を過ぐ。蔡侯曰く、「吾が姨なり」と。止めて之を見る。賓せず。息侯之を聞きて、怒り、楚の文王に謂はしめて曰く、「我を伐て。吾救ひを蔡に求めん。而して之を伐て」と。楚子之に從ふ。秋九月、楚蔡の師を莘に敗り、蔡侯獻舞を以て歸る。齊侯の出づるや、譚を過ぐ。譚禮せず。其の入るに及びて、諸侯皆賀す。譚又至らず。冬、齊の師譚を滅ぼす。譚禮無ければなり。譚子莒に奔る。同盟の故なり。
現代語訳
夏六月、斉の軍と宋の軍が郎に陣を留めた。公子偃(魯の大夫)が言った。「宋の軍は陣容が整っていないので、打ち破れます。宋が敗れれば、斉は必ず引き揚げます。どうか攻撃させてください」。公は許さなかった。公子偃は雩門からひそかに出撃し、馬に虎の皮をかぶせて先に宋軍に突撃した。公もこれに続いた。乗丘で宋の軍を大いに破った。斉の軍はそこで引き揚げた。蔡の哀侯は陳から妻を迎えていた。息侯もまた陳から妻を迎えた。息媯(そくき、息侯の夫人となる陳の女性)が嫁ぐ途中で蔡を通った。蔡侯は「私の妻の姉妹だ」と言って引き止めて会い、客としての礼をもって遇さなかった(無礼なふるまいをした)。息侯はこれを聞いて怒り、楚の文王に使者を送って言わせた。「わが国を攻めてください。私は蔡に救援を求めますから、そこで蔡を攻めてください」。楚子はこれに従った。秋九月、楚は莘で蔡の軍を破り、蔡侯献舞を捕らえて連れ帰った。斉侯(桓公)がかつて亡命したとき譚を通ったが、譚は礼をもって遇さなかった。桓公が斉に戻って即位したとき、諸侯はみな祝賀したが、譚はまた来なかった。冬、斉の軍は譚を滅ぼした。譚に礼がなかったからである。譚子は莒に亡命した。同盟国だったからである。
解説
この章句が説くこと
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