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史記 / 田敬仲完世家

二十六年,魏惠王圍邯鄲,趙求救於齊。齊威王召大臣而謀曰:「救趙孰與勿救?」騶忌子曰:「不如勿救。」段干朋曰:「不救則不義,且不利。」威王曰:「何也?」對曰:「夫魏氏并邯鄲,其於齊何利哉?且夫救趙而軍其郊,是趙不伐而魏全也。故不如南攻襄陵以獘魏,邯鄲拔而乘魏之獘。」威王從其計。其後成侯騶忌與田忌不善,公孫閲謂成侯忌曰:「公何不謀伐魏,田忌必將。戰勝有功,則公之謀中也;戰不勝,非前死則後北,而命在公矣。」於是成侯言威王,使田忌南攻襄陵。十月,邯鄲拔,齊因起兵撃魏,大敗之桂陵。于是齊最彊于諸侯,自稱爲王,以令天下。三十三年,殺其大夫牟辛。三十五年,公孫閲又謂成侯忌曰:「公何不令人操十金卜於市,曰『我田忌之人也。吾三戰而三勝,聲威天下。欲爲大事,亦吉乎不吉乎』?」卜者出,因令人捕爲之卜者,驗其辭於王之所。田忌聞之,因率其徒襲攻臨淄,求成侯,不勝而奔。三十六年,威王卒,子宣王辟彊立。宣王元年,秦用商鞅。周致伯於秦孝公。二年,魏伐趙。趙與韓親,共撃魏。趙不利,戰於南梁。宣王召田忌復故位。韓氏請救於齊。宣王召大臣而謀曰:「蚤救孰與晩救?」騶忌子曰:「不如勿救。」

新字:二十六年,魏恵王囲邯鄲,趙求救於斉。斉威王召大臣而謀曰:「救趙孰与勿救?」騶忌子曰:「不如勿救。」段干朋曰:「不救則不義,且不利。」威王曰:「何也?」対曰:「夫魏氏并邯鄲,其於斉何利哉?且夫救趙而軍其郊,是趙不伐而魏全也。故不如南攻襄陵以獘魏,邯鄲抜而乗魏之獘。」威王従其計。其後成侯騶忌与田忌不善,公孫閲謂成侯忌曰:「公何不謀伐魏,田忌必将。戦勝有功,則公之謀中也;戦不勝,非前死則後北,而命在公矣。」於是成侯言威王,使田忌南攻襄陵。十月,邯鄲抜,斉因起兵撃魏,大敗之桂陵。于是斉最彊于諸侯,自称為王,以令天下。三十三年,殺其大夫牟辛。三十五年,公孫閲又謂成侯忌曰:「公何不令人操十金卜於市,曰『我田忌之人也。吾三戦而三勝,声威天下。欲為大事,亦吉乎不吉乎』?」卜者出,因令人捕為之卜者,験其辞於王之所。田忌聞之,因率其徒襲攻臨淄,求成侯,不勝而奔。三十六年,威王卒,子宣王辟彊立。宣王元年,秦用商鞅。周致伯於秦孝公。二年,魏伐趙。趙与韓親,共撃魏。趙不利,戦於南梁。宣王召田忌復故位。韓氏請救於斉。宣王召大臣而謀曰:「蚤救孰与晩救?」騶忌子曰:「不如勿救。」

書き下し

二十六年、魏の恵王邯鄲を囲む。趙救ひを斉に求む。斉の威王大臣を召して謀りて曰く、「趙を救ふと救ふ勿きと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。段干朋曰く、「救はずんば則ち不義にして、且つ不利なり」と。威王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「夫れ魏氏邯鄲を并せば、其の斉に於て何の利かあらん。且つ夫れ趙を救ひて其の郊に軍せば、是れ趙伐たれずして魏全し。故に南のかた襄陵を攻めて以て魏を獘らし、邯鄲抜けて魏の獘に乗ずるに如かず」と。威王其の計に従ふ。其の後成侯騶忌、田忌と善からず。公孫閲、成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ魏を伐たんことを謀らざる。田忌必ず将たらん。戦ひ勝ちて功有らば、則ち公の謀中るなり。戦ひ勝たずんば、前に死せずんば則ち後に北げん。而して命公に在らん」と。是に於て成侯威王に言ひ、田忌をして南のかた襄陵を攻めしむ。十月、邯鄲抜く。斉因りて兵を起こして魏を撃ち、大いに之を桂陵に敗る。是に於て斉最も諸侯に彊く、自ら称して王と為り、以て天下に令す。三十三年、其の大夫牟辛を殺す。三十五年、公孫閲又成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ人をして十金を操りて市に卜せしめざる。曰く『我は田忌の人なり。吾三たび戦ひて三たび勝ち、声天下に威あり。大事を為さんと欲す。亦吉なるか不吉なるか』と」と。卜者出づ。因りて人をして之が為に卜せし者を捕へしめ、其の辞を王の所に験す。田忌之を聞き、因りて其の徒を率ゐて臨淄を襲攻し、成侯を求むれども、勝たずして奔る。三十六年、威王卒し、子宣王辟彊立つ。宣王元年、秦商鞅を用ふ。周伯を秦の孝公に致す。二年、魏趙を伐つ。趙韓と親しみ、共に魏を撃つ。趙利あらず、南梁に戦ふ。宣王田忌を召して故の位に復す。韓氏救ひを斉に請ふ。宣王大臣を召して謀りて曰く、「蚤く救ふと晩く救ふと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。

現代語訳

二十六年、魏の恵王が邯鄲を包囲し、趙は斉に救援を求めた。斉の威王は大臣たちを呼んで相談した。「趙を救うのと救わないのと、どちらがよいか」。騶忌子は「救わないほうがよい」と言った。段干朋は言った。「救わなければ不義であり、しかも不利である」。威王が「なぜか」と問うと、段干朋は答えた。「魏が邯鄲を併合すれば、斉に何の利があろう。それに趙を救うといって邯鄲の郊外に陣を構えれば、趙は攻められず(攻防が膠着し)、魏も無傷のままである。だから南の襄陵を攻めて魏を疲れさせ、邯鄲が落ちたところで魏の疲弊に乗じるのがよい」。威王はその計略に従った。その後、成侯騶忌は田忌(でんき)と仲が悪くなった。公孫閲(こうそんえつ)が成侯騶忌に言った。「あなたはなぜ魏を討つ計画を進めないのか。そうすれば田忌が必ず将となる。戦って勝ち功を立てれば、それはあなたの計画が当たったということになる。戦って勝てなければ、田忌は前進して戦死するか、退却して敗走するかのどちらかで、その命運はあなたの手に握られる」。そこで成侯は威王に進言し、田忌に南の襄陵を攻めさせた。十月、邯鄲が陥落した。斉はそこで兵を起こして魏を撃ち、桂陵で大いに破った。これによって斉は諸侯の中で最も強くなり、自ら王と称して天下に号令した。三十三年、大夫の牟辛(ぼうしん)を殺した。三十五年、公孫閲はまた成侯騶忌に言った。「あなたはなぜ人に十金を持たせて市場で占わせないのか。こう言わせるのだ。『わたしは田忌の家の者だ。わが主人は三度戦って三度勝ち、その名声は天下に響いている。大事(謀反)を起こそうと思うが、吉か不吉か』と」。占い師が店を出たところで、人に命じてその占い師を捕らえさせ、占いの言葉を王の前で確かめさせた。田忌はこれを聞き、手下を率いて都の臨淄を襲い、成侯を捕らえようとしたが、勝てずに国外へ逃れた。三十六年、威王が死に、子の宣王辟彊(へききょう)が立った。宣王の元年、秦が商鞅を用いた。周が秦の孝公に覇者の称号を与えた。二年、魏が趙を討った。趙は韓と親しみ、共に魏を撃ったが、趙は不利で、南梁で戦った。宣王は田忌を呼び戻して元の地位に戻した。韓が斉に救援を求めた。宣王は大臣たちを呼んで相談した。「早く救うのと遅く救うのと、どちらがよいか」。騶忌子は「救わないほうがよい」と言った。

解説

斉の宮廷の権力闘争と、外交判断の妙が描かれた段です。魏が邯鄲を囲んだとき、段干朋は、趙を見捨てるのは不義で不利だが、すぐに邯鄲へ駆けつけるのも得策ではない、魏の別の拠点を突いて疲れさせ、邯鄲が落ちて魏が消耗した後に叩け、と説きました。この方針で斉は桂陵に大勝し、王を称するまでになります。一方で宰相騶忌は、ライバルの将軍田忌を陥れるため、公孫閲の策に従って、勝てば自分の手柄、負ければ田忌の破滅という出兵を仕組み、さらに田忌の家人を装って謀反の吉凶を占わせる罠まで仕掛けました。田忌は追い詰められて亡命しますが、宣王の代に呼び戻されます。名宰相とされる人物も、権力争いでは手段を選ばなかったという、司馬遷の容赦ない人物描写が光ります。成果の奪い合いと足の引っ張り合いは、今の組織にも無縁ではありません。

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