史記 / 呂太后本紀
高后已葬,以左丞相審食其為帝太傅。朱虛侯劉章有氣力,東牟侯興居其弟也。皆齊哀王弟,居長安。當是時,諸呂用事擅權,欲為亂,畏高帝故大臣絳、灌等,未敢發。朱虛侯婦,呂祿女,陰知其謀。恐見誅,乃陰令人告其兄齊王,欲令發兵西,誅諸呂而立。
新字:高后已葬,以左丞相審食其為帝太傅。朱虚侯劉章有気力,東牟侯興居其弟也。皆斉哀王弟,居長安。当是時,諸呂用事擅権,欲為乱,畏高帝故大臣絳、灌等,未敢発。朱虚侯婦,呂禄女,陰知其謀。恐見誅,乃陰令人告其兄斉王,欲令発兵西,誅諸呂而立。
書き下し
高后已に葬る、左丞相審食其を以て帝の太傅と為す。朱虚侯劉章気力有り、東牟侯興居は其の弟なり。皆斉の哀王の弟にして、長安に居る。是の時に当たりて、諸呂事を用ゐて権を擅にし、乱を為さんと欲す、高帝の故の大臣絳・灌等を畏れ、未だ敢へて発せず。朱虚侯の婦は、呂禄の女なり、陰かに其の謀を知る。誅せられんことを恐れ、乃ち陰かに人をして其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめ、諸呂を誅して立たしめんと欲す。
現代語訳
呂后を葬り終えると、左丞相審食其を帝の太傅とした。朱虚侯劉章は気力にあふれた人物で、東牟侯劉興居はその弟であった。二人とも斉の哀王(劉襄)の弟で、長安にいた。このとき、呂氏一族は政治を握って権力をほしいままにし、乱を起こそうとしていたが、高帝以来の大臣である絳侯(周勃)・灌嬰らを恐れて、まだ事を起こせずにいた。朱虚侯の妻は呂禄の娘で、ひそかにその陰謀を知った。朱虚侯は誅殺されるのを恐れ、ひそかに人をやって兄の斉王に知らせ、兵を起こして西へ攻め上らせ、呂氏一族を誅して斉王を帝位に就けようとした。
解説
呂后の死後、呂氏一族と劉氏・功臣たちの対立が表面化する段です。呂氏は政権を握っていましたが、周勃や灌嬰ら高祖以来の重臣を恐れ、すぐには動けませんでした。ここで鍵を握ったのが朱虚侯劉章です。劉章は呂禄の娘を妻としており、その妻を通じて呂氏の陰謀を知りました。呂后が劉氏と呂氏を婚姻で結びつけて取り込もうとした策が、逆に呂氏の情報を漏らす経路になったのです。劉章は兄の斉王に挙兵を促し、呂氏を倒してその兄を帝に立てようとしました。ここから、いわゆる「呂氏の乱」の鎮圧が始まります。婚姻や縁故で人を縛って味方を固めても、人の心までは縛れません。結びつきの強さは、そのまま情報の通り道にもなるという教訓を含んでいます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
内通呂氏一族の滅亡後ろ盾に頼った権勢の脆さ権力闘争白馬の盟の通り討たれる劉章
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