春秋左氏伝 / 襄公二十八年 盧蒲姜の策
冬。十月。慶封田于萊。陳無宇從。丙辰。文子使召之。請曰。無宇之母疾病。請歸。慶季卜之。示之兆。曰。死。奉龜而泣。乃使歸。慶嗣聞之。曰。禍將作矣。謂子家速歸。禍作必於嘗。歸猶可及也。子家弗聽。亦無悛志。子息曰。亡矣。幸而獲在吳越。陳無宇濟水。而戕舟發梁。盧蒲姜謂癸曰。有事而不告我。必不捷矣。癸告之。姜曰。夫子愎。莫之止。將不出。我請止之。癸曰。諾。
新字:冬。十月。慶封田于萊。陳無宇従。丙辰。文子使召之。請曰。無宇之母疾病。請帰。慶季卜之。示之兆。曰。死。奉亀而泣。乃使帰。慶嗣聞之。曰。禍将作矣。謂子家速帰。禍作必於嘗。帰猶可及也。子家弗聴。亦無悛志。子息曰。亡矣。幸而獲在呉越。陳無宇済水。而戕舟発梁。盧蒲姜謂癸曰。有事而不告我。必不捷矣。癸告之。姜曰。夫子愎。莫之止。将不出。我請止之。癸曰。諾。
書き下し
冬十月、慶封、萊に田す。陳無宇從ふ。丙辰、文子、之を召さしめ、請ひて曰く、「無宇の母、疾病なり。請ふ歸らん」と。慶季之を卜し、之に兆を示す。曰く、「死なん」と。龜を奉じて泣く。乃ち歸らしむ。慶嗣之を聞きて曰く、「禍將に作らんとす」と。子家に謂ふ、「速やかに歸れ。禍の作るは必ず嘗に於いてせん。歸らば猶ほ及ぶべし」と。子家聽かず、亦た悛むる志無し。子息曰く、「亡びん。幸ひにして吳・越に在るを獲ん」と。陳無宇、水を濟りて、舟を戕(そこな)ひ梁を發(こぼ)つ。盧蒲姜、癸に謂ひて曰く、「事有りて我に告げずんば、必ず捷たざらん」と。癸之に告ぐ。姜曰く、「夫子は愎(もと)る。之を止むる莫くんば、將に出でざらんとす。我請ふ之を止めん」と。癸曰く、「諾」と。
現代語訳
冬十月、慶封は萊で狩りをした。陳無宇(陳文子の子、桓子)が従っていた。丙辰の日、陳文子は使いを出して無宇を呼び戻させ、その使いに願い出させて言った。「無宇の母が重い病です。帰らせていただきたい」。慶季(慶封)はこれを亀卜で占い、その卜兆を無宇に示した。無宇は「死ぬという兆です」と言い、亀甲を捧げ持って泣いてみせた。そこで慶封は彼を帰らせた。慶嗣(慶封の一族、字は子息)はこれを聞いて言った。「禍が起ころうとしている」。そして子家(慶封)に言った。「急いでお帰りください。禍が起こるのはきっと嘗の祭りのときです。今帰ればまだ間に合います」。子家は聞き入れず、改める気配もなかった。子息は言った。「慶氏は滅びるだろう。運がよければ呉か越にでも逃げ延びられよう」。陳無宇は川を渡ると、舟を壊し、橋を落として、慶封がすぐに戻れないようにした。盧蒲姜(慶舎の娘で盧蒲癸の妻)は夫の盧蒲癸に言った。「何か事を起こそうとしているのに私に告げないのなら、きっとうまくいきません」。盧蒲癸は計画を妻に告げた。盧蒲姜は言った。「父はひねくれ者です。誰も止めなければ、かえって外に出ないでしょう。私に止めさせてください」。盧蒲癸は言った。「よし」。
解説
この章句が説くこと
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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史記 魏豹彭越列伝伝へて滎陽に詣らしめ、豹の国を以て郡と為す。漢王豹をして滎陽を守らしむ。楚之を囲むこと急にして、周苛遂に魏豹を殺す。
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『春秋左氏伝』哀公十六年 孔悝の出奔六月、衛侯、孔悝に平陽に酒を飲ましめ、重く之に酬ゆ。大夫皆納るる有り。醉はしめて之を送り、夜半にして之を遣る。伯姬を平陽に載せて行く。西門に及び、貳車をして祏を西圃に反さしむ。子伯季子、初め孔氏の臣たり、新たに公に登る。之を追はんと請ふ。祏を載する者に遇ひ、殺して其の車に乘る。許公為、祏を反す。之に遇ひて曰く、「不仁の人と爭はば、明らかに勝たざる無し」と。必ず先づ射しむ。射ること三發、皆許為に遠し。許為、之を射て殪す。或ひと其の車を以て從ひ、祏を橐中に得たり。孔悝、出でて宋に奔る。楚の大子建の讒に遇ふや、城父より宋に奔る。又華氏の亂を鄭に辟く。鄭人甚だ之を善くす。又晉に適き、晉人と鄭を襲はんことを謀り、乃ち復らんことを求む。鄭人之を復すること初めの如し。晉人、諜を子木に使はし、行を請ひて期す。子木、其の私邑に暴虐なり。
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史記 陳渉世家秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
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『春秋左氏伝』哀公二十五年 衆怒は犯し難し而して大子疾の宮より、譟ぎて以て公を攻む。鄄子士、之を禦がんと請ふ。彌、其の手を援きて曰く、「子は則ち勇なり。將た君を若何せん。先君を見ずや。君、何の所にか欲を逞しくせざらん。且つ君嘗て外に在り。豈に必ずしも反らざらんや。今に當りては可ならず。衆怒は犯し難し。休まば間し易きなり」と。乃ち出づ。將に蒲に適かんとす。彌曰く、「晉は信無し。可ならず」と。將に鄄に適かんとす。彌曰く、「齊・晉、我を爭ふ。可ならず」と。將に泠に適かんとす。彌曰く、「魯は與にするに足らず。請ふ、城鉏に適きて、以て越を鉤かん。越に君有り」と。乃ち城鉏に適く。彌曰く、「衛の盜、知る可からざるなり。請ふ、速かにせよ。我より始めん」と。乃ち寶を載せて以て歸る。公、支離の卒を為り、祝史揮に因りて以て衛を侵す。衛人之を病む。懿子、之を知り、子之に見えて、揮を逐はんと請ふ。文子曰く、「罪無し」と。懿子曰く、「彼、利を專らにするを好みて妄なり。夫れ君の入るを見ば、將に先づ道かんとす。若し之を逐はば、必ず南門より出でて、君の所に適かん。夫れ越は新たに諸侯を得たり。將に必ず師を請はん」と。揮、朝に在り。吏をして諸を其の室より遣らしむ。揮出づ。信するも内れず。五日、乃ち諸を外里に館す。遂に寵有り。越に如きて師を請はしむ。
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『太上感応篇』悪行・悪を以て能と為し、残害を忍作す苟くも或いは義に非ずして動き、理に背きて行ふ。悪を以て能と為し、忍びて残害を作す。良善を陰賊し、君親を暗侮す。其の先生を慢り、其の事ふる所に叛く。
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