自警録 / 第九章 心の独立と体の独立・心の独立と誤解しやすき考え
ただ注意すべきはこの精神を誤解して扶持をくれる人に背き、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを発き、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。 孔子も子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、隠すことが国家に危害を与うるならいざ知らず、会社の内幕を語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍の下にありて、法律の保護を受け、もって生命財産の安固を保ちながら、その国の不為を謀るごときは、決して国民たる個人の独立行為といわれぬ。こんなことは売国奴の所為として誰も卑む。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、陰でかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳述すべきである。 周の武王が殷の紂王を伐たんと出征したとき、民みな武王の意を迎えたが、伯夷叔斉のみは独立行動に出でて、武王の馬を叩いて諫めた。左右の者ども両人を兵せんとした。すなわち輿論は伯夷叔斉を罪せんとした。このとき太公望は独特の意見を述べて、 「此義人なり」 といって扶けて去らしめた。伯夷叔斉も太公も群衆に逆らった心の独立は好みすべきであるが、もし二人の兄弟が武王に反対して、密かに出版物を播き散らしたり、あるいは隠に徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を曲げて武王や太公の政策やら人身を攻撃したならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子と呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは輿論とは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが判かる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に叶わぬ周の粟を食わずとて首陽山に隠れ、歌を詠じて餓死したところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。
書き下し
ただ注意すべきはこの精神を誤解して扶持をくれる人に背き、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを発き、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。 孔子も子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、隠すことが国家に危害を与うるならいざ知らず、会社の内幕を語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍の下にありて、法律の保護を受け、もって生命財産の安固を保ちながら、その国の不為を謀るごときは、決して国民たる個人の独立行為といわれぬ。こんなことは売国奴の所為として誰も卑む。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、陰でかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳述すべきである。 周の武王が殷の紂王を伐たんと出征したとき、民みな武王の意を迎えたが、伯夷叔斉のみは独立行動に出でて、武王の馬を叩いて諫めた。左右の者ども両人を兵せんとした。すなわち輿論は伯夷叔斉を罪せんとした。このとき太公望は独特の意見を述べて、 「此義人なり」 といって扶けて去らしめた。伯夷叔斉も太公も群衆に逆らった心の独立は好みすべきであるが、もし二人の兄弟が武王に反対して、密かに出版物を播き散らしたり、あるいは隠に徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を曲げて武王や太公の政策やら人身を攻撃したならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子と呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは輿論とは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが判かる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に叶わぬ周の粟を食わずとて首陽山に隠れ、歌を詠じて餓死したところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。
現代語訳
ただ注意すべきは、この精神を誤解して、扶持をくれる人に背き、人に拘らなければそれが心の独立だと思うことで、これは疑いなく間違いです。世にはしばしば、自分の会社の欠点をさらけ出し、はなはだしくは親の罪や秘密を暴き、あるいは上官の悪口を言って、それで自分の思想の自由だと思う者がいますが、場合によることとはいえ、よくよく熟慮が必要です。 孔子も、子は父のために隠し、父は子のために隠す、と教えたように、隠すことが国家に危害を与えるというならともかく、会社の内幕を語って、いたずらに他人に告げるようなことは、裏切りも同然であり、これを思想の独立と混同してはなりません。一定の国籍のもとにあって、法律の保護を受け、生命財産の安全を保ちながら、その国の不利益をはかるようなことは、決して国民たる個人の独立行為とはいえません。こんなことは売国奴のふるまいとして、誰もが卑しみます。それと同じく、役所や会社に勤める者が、上官や重役と異なる独特の意見を持つなら、陰でかれこれ言わずに、まず第一に、社長なり長官なりに意見を述べるべきです。 周の武王が殷の紂王を討とうと出征したとき、民はみな武王の意を迎えましたが、伯夷・叔斉だけは独立した行動に出て、武王の馬を叩いて諫めました。左右の者たちは二人を斬ろうとしました。つまり世論は伯夷・叔斉を罪しようとしたのです。このとき太公望は独特の意見を述べて、 「この人たちは義人である」 と言って、助け起こして去らせました。伯夷・叔斉も太公望も、群衆に逆らった心の独立は好ましいものですが、もしこの二人の兄弟が武王に反対して、ひそかに出版物をばらまいたり、あるいは陰で徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても、事実を曲げて武王や太公望の政策や人身を攻撃したなら、彼らは決して義人でも善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子と呼んだでしょう。なぜなら、彼らの考えは世論とは異なり、いわゆる独立した思想であったとしても、同意を求めようとするなら、やはり彼らには他人を頼む心があることが分かるからです。ところが彼らは、真に心の独立を重んじ、ついに、我が心に合わない周の粟は食べないと言って首陽山に隠れ、歌を詠じて餓死しました。このことは、確かに二人が心の独立を重んじた証拠です。
解説

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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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史記 陳渉世家秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
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『春秋左氏伝』哀公二十五年 衆怒は犯し難し而して大子疾の宮より、譟ぎて以て公を攻む。鄄子士、之を禦がんと請ふ。彌、其の手を援きて曰く、「子は則ち勇なり。將た君を若何せん。先君を見ずや。君、何の所にか欲を逞しくせざらん。且つ君嘗て外に在り。豈に必ずしも反らざらんや。今に當りては可ならず。衆怒は犯し難し。休まば間し易きなり」と。乃ち出づ。將に蒲に適かんとす。彌曰く、「晉は信無し。可ならず」と。將に鄄に適かんとす。彌曰く、「齊・晉、我を爭ふ。可ならず」と。將に泠に適かんとす。彌曰く、「魯は與にするに足らず。請ふ、城鉏に適きて、以て越を鉤かん。越に君有り」と。乃ち城鉏に適く。彌曰く、「衛の盜、知る可からざるなり。請ふ、速かにせよ。我より始めん」と。乃ち寶を載せて以て歸る。公、支離の卒を為り、祝史揮に因りて以て衛を侵す。衛人之を病む。懿子、之を知り、子之に見えて、揮を逐はんと請ふ。文子曰く、「罪無し」と。懿子曰く、「彼、利を專らにするを好みて妄なり。夫れ君の入るを見ば、將に先づ道かんとす。若し之を逐はば、必ず南門より出でて、君の所に適かん。夫れ越は新たに諸侯を得たり。將に必ず師を請はん」と。揮、朝に在り。吏をして諸を其の室より遣らしむ。揮出づ。信するも内れず。五日、乃ち諸を外里に館す。遂に寵有り。越に如きて師を請はしむ。
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『春秋左氏伝』哀公十六年 孔悝の出奔六月、衛侯、孔悝に平陽に酒を飲ましめ、重く之に酬ゆ。大夫皆納るる有り。醉はしめて之を送り、夜半にして之を遣る。伯姬を平陽に載せて行く。西門に及び、貳車をして祏を西圃に反さしむ。子伯季子、初め孔氏の臣たり、新たに公に登る。之を追はんと請ふ。祏を載する者に遇ひ、殺して其の車に乘る。許公為、祏を反す。之に遇ひて曰く、「不仁の人と爭はば、明らかに勝たざる無し」と。必ず先づ射しむ。射ること三發、皆許為に遠し。許為、之を射て殪す。或ひと其の車を以て從ひ、祏を橐中に得たり。孔悝、出でて宋に奔る。楚の大子建の讒に遇ふや、城父より宋に奔る。又華氏の亂を鄭に辟く。鄭人甚だ之を善くす。又晉に適き、晉人と鄭を襲はんことを謀り、乃ち復らんことを求む。鄭人之を復すること初めの如し。晉人、諜を子木に使はし、行を請ひて期す。子木、其の私邑に暴虐なり。
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『太上感応篇』悪行・悪を以て能と為し、残害を忍作す苟くも或いは義に非ずして動き、理に背きて行ふ。悪を以て能と為し、忍びて残害を作す。良善を陰賊し、君親を暗侮す。其の先生を慢り、其の事ふる所に叛く。