春秋左氏伝 / 襄公二十七年 楚人、甲を衷す
秋。七月。戊寅。左師至。是夜也。趙孟及子皙盟。以齊言。庚辰。子木至自陳。陳孔奐。蔡公孫歸生。至。曹許之大夫皆至。以藩為軍。晉楚各處其偏。伯夙謂趙孟曰。楚氛甚惡。懼難。趙孟曰。吾左還入於宋。若我何。辛巳。將盟於宋西門之外。楚人衷甲。伯州犁曰。合諸侯之師。以為不信。無乃不可乎。夫諸侯望信於楚。是以來服。若不信。是棄其所以服諸侯也。固請釋甲。子木曰。晉楚無信久矣。事利而已。苟得志焉。焉用有信。大宰退告人曰。令尹將死矣。不及三年。求逞志而棄信。志將逞乎。志以發言。言以出信。信以立志。參以定之。信亡何以及三。趙孟患楚衷甲。以告叔向。
新字:秋。七月。戊寅。左師至。是夜也。趙孟及子皙盟。以斉言。庚辰。子木至自陳。陳孔奐。蔡公孫帰生。至。曹許之大夫皆至。以藩為軍。晋楚各処其偏。伯夙謂趙孟曰。楚氛甚悪。懼難。趙孟曰。吾左還入於宋。若我何。辛巳。将盟於宋西門之外。楚人衷甲。伯州犁曰。合諸侯之師。以為不信。無乃不可乎。夫諸侯望信於楚。是以来服。若不信。是棄其所以服諸侯也。固請釈甲。子木曰。晋楚無信久矣。事利而已。苟得志焉。焉用有信。大宰退告人曰。令尹将死矣。不及三年。求逞志而棄信。志将逞乎。志以発言。言以出信。信以立志。参以定之。信亡何以及三。趙孟患楚衷甲。以告叔向。
書き下し
秋、七月、戊寅、左師至る。是の夜や、趙孟及び子皙盟ひて、以て言を齊ふ。庚辰、子木陳より至る。陳の孔奐・蔡の公孫歸生至る。曹・許の大夫皆至る。藩を以て軍と為す。晉・楚各〻其の偏に處る。伯夙趙孟に謂ひて曰く、「楚の氛甚だ惡し。難を懼る」と。趙孟曰く、「吾左に還りて宋に入らば、我を若何せん」と。辛巳、將に宋の西門の外に盟はんとす。楚人甲を衷る。伯州犁曰く、「諸侯の師を合して、以て不信を為すは、乃ち不可なること無からんや。夫れ諸侯信を楚に望む。是を以て來服す。若し信ならずんば、是れ其の諸侯を服する所以を棄つるなり」と。固く甲を釋かんことを請ふ。子木曰く、「晉・楚信無きこと久し。利を事とするのみ。苟くも志を得ば、焉んぞ信有るを用ゐん」と。大宰退きて人に告げて曰く、「令尹將に死せんとす。三年に及ばじ。志を逞しくせんことを求めて信を棄つ。志將に逞しからんや。志以て言を發し、言以て信を出だし、信以て志を立つ。參つ以て之を定む。信亡びて何を以てか三に及ばん」と。趙孟楚の甲を衷するを患へ、以て叔向に告ぐ。
現代語訳
秋七月戊寅の日、左師(向戌)が宋に帰着した。その夜、趙孟(趙武)と子皙(楚の公子黒肱)が盟約を結び、盟約の文言をそろえた。庚辰の日、子木が陳から到着した。陳の孔奐と蔡の公孫帰生が到着した。曹と許の大夫もみな到着した。各国は垣根を巡らしただけで陣営とした。晋と楚はそれぞれ両端に陣取った。伯夙(荀盈)が趙孟に言った。「楚の陣営の気配がひどく悪い。変事が起こるのではないかと心配です」。趙孟は言った。「われわれは左に回って宋の城内に入ればよい。楚がわれわれをどうできようか」。辛巳の日、宋の西門の外で盟約を結ぶことになった。楚の人々は衣の下に甲冑を着込んでいた。伯州犁(楚の太宰)が言った。「諸侯の軍を集めておきながら不信の行いをするのは、よくないのではありませんか。諸侯は楚に信義を期待して、だからこそ従ってきたのです。もし信義を守らなければ、諸侯を従わせてきた根拠を捨てることになります」。そして甲冑を脱ぐよう強く求めた。子木は言った。「晋と楚の間に信義がなくなって久しい。ただ利を求めるだけだ。思いどおりになるなら、信義など何の役に立とう」。太宰(伯州犁)は退出して人に言った。「令尹はまもなく死ぬだろう。三年はもたない。思いを遂げようとして信義を捨てている。それで思いが遂げられるだろうか。志があって言葉が発せられ、言葉があって信義が生まれ、信義があって志が立つ。この三つが互いに支え合って物事は定まる。信義を失って、どうして三年ももとうか」。趙孟は楚が甲冑を着込んでいることを憂え、叔向に告げた。
解説
この章句が説くこと
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