春秋左氏伝 / 襄公二十七年 信を以て人を召す
叔向曰。何害也。匹夫一為不信。猶不可。單斃其死。若合諸侯之卿。以為不信。必不捷矣。食言者不病。非子之患也。夫以信召人。而以僭濟之。必莫之與也。安能害我。且吾因宋以守病。則夫能致死。與宋致死。雖倍楚可也。子何懼焉。又不及是。曰。弭兵以召諸侯。而稱兵以害我。吾庸多矣。非所患也。季武子使謂叔孫以公命曰。視邾滕。既而齊人請邾。宋人請滕。皆不與盟。叔孫曰。邾。滕。人之私也。我列國也。何故視之。宋。衛。吾匹也。乃盟。故不書其族。言違命也。晉楚爭先。晉人曰。晉固為諸侯盟主。未有先晉者也。楚人曰。子言晉楚匹也。若晉常先。是楚弱也。
新字:叔向曰。何害也。匹夫一為不信。猶不可。単斃其死。若合諸侯之卿。以為不信。必不捷矣。食言者不病。非子之患也。夫以信召人。而以僭済之。必莫之与也。安能害我。且吾因宋以守病。則夫能致死。与宋致死。雖倍楚可也。子何懼焉。又不及是。曰。弭兵以召諸侯。而称兵以害我。吾庸多矣。非所患也。季武子使謂叔孫以公命曰。視邾滕。既而斉人請邾。宋人請滕。皆不与盟。叔孫曰。邾。滕。人之私也。我列国也。何故視之。宋。衛。吾匹也。乃盟。故不書其族。言違命也。晋楚争先。晋人曰。晋固為諸侯盟主。未有先晋者也。楚人曰。子言晋楚匹也。若晋常先。是楚弱也。
書き下し
叔向曰く、「何ぞ害あらん。匹夫一たび不信を為すも、猶ほ不可なり。單く其の死に斃る。若し諸侯の卿を合して、以て不信を為さば、必ず捷たざらん。言を食む者は病まず。子の患ひに非ざるなり。夫れ信を以て人を召して、僭を以て之を濟さば、必ず之に與する莫からん。安んぞ能く我を害せん。且つ吾宋に因りて以て病を守らば、則ち夫れ能く死を致さん。宋と死を致さば、楚に倍すと雖も可なり。子何をか懼れん。又是に及ばず。曰く、『兵を弭めて以て諸侯を召し、兵を稱げて以て我を害す』と。吾が庸ゐること多し。患ふる所に非ざるなり」と。季武子、叔孫に謂はしむるに公の命を以てして曰く、「邾・滕に視へよ」と。既にして齊人邾を請ひ、宋人滕を請ふ。皆盟に與らず。叔孫曰く、「邾・滕は人の私なり。我は列國なり。何の故に之に視へん。宋・衛は吾が匹なり」と。乃ち盟ふ。故に其の族を書せざるは、命に違ふを言ふなり。晉・楚先を爭ふ。晉人曰く、「晉は固より諸侯の盟主為り。未だ晉に先んずる者有らず」と。楚人曰く、「子晉・楚は匹なりと言ふ。若し晉常に先んぜば、是れ楚弱きなり。
現代語訳
叔向は言った。「何の害がありましょう。一介の男が一度でも信義に背くのは許されず、そうした者は皆その報いで死にます。まして諸侯の卿を集めておいて信義に背けば、必ず勝つことはできません。約束を破る者は、われわれを苦しめることはできません。あなたが心配することではありません。信義によって人を呼び集めておきながら、偽りによって事を成そうとすれば、誰もそれに味方しないでしょう。どうしてわれわれを害することができましょう。それに、われわれが宋の城を頼りにして守りを固めれば、宋の人々も死力を尽くしてくれます。宋とともに死力を尽くせば、楚の兵が倍であっても防げます。あなたは何を恐れるのですか。しかも、事はそこまでには至りません。人々は『戦争をやめると言って諸侯を集めながら、兵を挙げてわれわれを害した』と言うでしょう。そうなれば、われわれの得るものはかえって多くなります。心配するには及びません」。魯の季武子は、襄公の命令として叔孫(叔孫豹)に「邾や滕と同じ扱いにせよ」と伝えさせた。やがて斉は邾を自分の属国として、宋は滕を自分の属国として扱うよう申し出たので、邾と滕はどちらも盟約に加わらなかった。叔孫は言った。「邾や滕は、他国の私的な属国にすぎない。わが国は独立した諸侯の国である。どうして邾や滕と同じ扱いにできようか。宋や衛こそわが国と対等の国だ」。そうして盟約に加わった。『春秋』が叔孫の氏族名を記さなかったのは、君命に背いたことを示すためである。晋と楚は盟約の先頭を争った。晋の人々は言った。「晋はもともと諸侯の盟主である。これまで晋より先に血をすすった者はいない」。楚の人々は言った。「あなた方は晋と楚は対等だと言った。もし晋がいつも先ならば、それは楚が弱いということになる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・萬章章句上萬章問いて曰く、「或ひと曰く、『百里奚は自ら秦の牲を養う者に五羊の皮に鬻ぎ、牛を食いて、以て秦の繆公に要む』と。信なるか。」孟子曰く、「否、然らず。事を好む者は之を為すなり。百里奚は虞の人なり。晉人、垂棘の璧と屈Iの乘とを以て、道を虞に假りて以て虢を伐たんとす。宮之奇諫めて、百里奚諫めず。知虞公の諫む可からざるを知りて去り、秦に之く。年已に七十なり。曾ち牛を食うを以て、秦の穆公に干むるの汙為るを知らざるや、智と謂う可けんや。諫む可からずして諫めざるや、不智と謂う可けんや。虞公の將に亡びんとするを知りて先づ之を去るや、不智と謂う可けんや。時に秦に舉げられ、繆公の與に行う有る可きを知るや、之に相たるは、不智と謂う可けんや。秦に相として其の君を天下に顯わし、後世に傳う可きは、不賢にして之を能くせんや。自ら鬻ぎて以て其の君を成すは、ᰰ黨の自ら好する者も為さず。而るを賢者にして之を為すと謂わんや。」
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『韓非子』主道第五虚なれば則ち實の情を知り、静なれば則ち動の正を知る。
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史記 蘇秦列伝且つ夫れ韓・魏の重く秦を畏るる所以の者は、秦と境を接し界を壌にするが為なり。兵出でて相当たれば、十日を出でずして戦勝存亡の機決す。韓・魏戦ひて秦に勝たば、則ち兵半ば折れ、四境守られず。戦ひて勝たずんば、則ち国已に危亡其の後に随ふ。是の故に韓・魏の重く秦と戦ひて、軽く之が臣と為る所以なり。今秦の斉を攻むるは則ち然らず。韓・魏の地を倍にし、衛の陽晋の道を過ぎ、亢父の険を径る、車は軌を方ぶるを得ず、騎は比びて行くを得ず、百人険を守れば、千人も敢へて過ぎず。秦深く入らんと欲すと雖も、則ち狼顧し、韓・魏の其の後を議せんことを恐る。是の故に恫疑虚猲し、驕矜して敢へて進まず、則ち秦の斉を害する能はざること亦明らかなり。夫れ深く秦の斉を奈何ともする無きを料らずして、西面して之に事へんと欲す、是れ群臣の計の過ちなり。今秦に臣事するの名無くして彊国の実有り、臣是の故に願はくは大王少しく意を留めて之を計れ」と。斉王曰く、「寡人不敏、僻遠にして海を守り、窮道東境の国なり、未だ嘗て余教を聞くを得ず。今足下趙王の詔を以て之に詔す、敬んで国を以て従はん」と。
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葉隠・聞書第十一太閤様、名護屋御越の節、主水殿、御謀叛勧められ候。しかれども未(いま)がつつかぬなり。また三国領するも安き事なれども、「討つ事は安き事なり。しかれども十代と治むる事、とても成るまじ。一国ばかりは長久すべし。」と仰せられ候由。
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 徳を務めて先を争わず且つ晉・楚狎りて諸侯の盟を主ること久し。豈に專ら晉に在らんや」と。叔向趙孟に謂ひて曰く、「諸侯は晉の德に歸するのみ。其の盟を尸るに歸するに非ざるなり。子德を務めよ。先を爭ふこと無かれ。且つ諸侯盟ふに、小國固より必ず盟を尸る者有り。楚晉の細と為る。亦た可ならずや」と。乃ち楚人を先んず。書して晉を先んずるは、晉に信有ればなり。壬午、宋公兼ねて晉・楚の大夫を享す。趙孟客為り。子木之と言ふ。對ふる能はず。叔向をして侍りて言はしむ。子木も亦た對ふる能はざるなり。乙酉、宋公及び諸侯の大夫蒙門の外に盟ふ。子木趙孟に問ひて曰く、「范武子の德は何如」と。對へて曰く、「夫子の家事治まり、晉國に言ひて隱情無し。其の祝史信を鬼神に陳べて、愧づる辭無し」と。子木歸りて以て王に語る。王曰く、「尚きかな。能く神人を歆ばしむ。宜なり其の光いに五君を輔け、以て盟主と為ること」と。子木又王に語りて曰く、「宜なり晉の伯たること。叔向有りて以て其の卿を佐く。楚以て之に當たる無し。與に爭ふべからず」と。晉の荀盈遂に楚に如きて盟に蒞む。
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 楚人、甲を衷す秋、七月、戊寅、左師至る。是の夜や、趙孟及び子皙盟ひて、以て言を齊ふ。庚辰、子木陳より至る。陳の孔奐・蔡の公孫歸生至る。曹・許の大夫皆至る。藩を以て軍と為す。晉・楚各〻其の偏に處る。伯夙趙孟に謂ひて曰く、「楚の氛甚だ惡し。難を懼る」と。趙孟曰く、「吾左に還りて宋に入らば、我を若何せん」と。辛巳、將に宋の西門の外に盟はんとす。楚人甲を衷る。伯州犁曰く、「諸侯の師を合して、以て不信を為すは、乃ち不可なること無からんや。夫れ諸侯信を楚に望む。是を以て來服す。若し信ならずんば、是れ其の諸侯を服する所以を棄つるなり」と。固く甲を釋かんことを請ふ。子木曰く、「晉・楚信無きこと久し。利を事とするのみ。苟くも志を得ば、焉んぞ信有るを用ゐん」と。大宰退きて人に告げて曰く、「令尹將に死せんとす。三年に及ばじ。志を逞しくせんことを求めて信を棄つ。志將に逞しからんや。志以て言を發し、言以て信を出だし、信以て志を立つ。參つ以て之を定む。信亡びて何を以てか三に及ばん」と。趙孟楚の甲を衷するを患へ、以て叔向に告ぐ。
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