春秋左氏伝 / 襄公二十七年 慶封、相鼠を知らず
二十七年春。胥梁帶使諸喪邑者。具車徒以受地。必周。使烏餘具車徒以受封。烏餘以眾出。使諸侯偽效烏餘之封者。而遂執之。盡獲之。皆取其邑而歸諸侯。諸侯是以睦於晉。齊慶封來聘。其車美。孟孫謂叔孫曰。慶季之車。不亦美乎。叔孫曰。豹聞之。服美不稱。必以惡終。美車何為。叔孫與慶封食不敬。為賦相鼠。亦不知也。衛甯喜專。公患之。公孫免餘請殺之。公曰。微甯子不及此。吾與之言矣。事未可知。祗成惡名。止也。對曰。臣殺之。君勿與知。乃與公孫無地。公孫臣謀。使攻甯氏。弗克。皆死。公曰。臣也無罪。父子死余矣。
新字:二十七年春。胥梁帯使諸喪邑者。具車徒以受地。必周。使烏余具車徒以受封。烏余以衆出。使諸侯偽効烏余之封者。而遂執之。尽獲之。皆取其邑而帰諸侯。諸侯是以睦於晋。斉慶封来聘。其車美。孟孫謂叔孫曰。慶季之車。不亦美乎。叔孫曰。豹聞之。服美不称。必以悪終。美車何為。叔孫与慶封食不敬。為賦相鼠。亦不知也。衛甯喜専。公患之。公孫免余請殺之。公曰。微甯子不及此。吾与之言矣。事未可知。祗成悪名。止也。対曰。臣殺之。君勿与知。乃与公孫無地。公孫臣謀。使攻甯氏。弗克。皆死。公曰。臣也無罪。父子死余矣。
書き下し
二十七年春、胥梁帶、諸〻の邑を喪ひし者をして、車徒を具へて以て地を受けしめ、必ず周にせしむ。烏餘をして車徒を具へて以て封を受けしむ。烏餘眾を以て出づ。諸侯をして偽りて烏餘に封を效す者たらしめて、遂に之を執へ、盡く之を獲たり。皆其の邑を取りて諸侯に歸す。諸侯是を以て晉に睦む。齊の慶封來聘す。其の車美なり。孟孫叔孫に謂ひて曰く、「慶季の車、亦た美ならずや」と。叔孫曰く、「豹之を聞く、服美にして稱はざれば、必ず惡を以て終はる、と。美車何をか為さん」と。叔孫慶封と食す。敬まず。為に相鼠を賦す。亦た知らざるなり。衛の甯喜專らにす。公之を患ふ。公孫免餘之を殺さんことを請ふ。公曰く、「甯子微かりせば此に及ばず。吾之と言へり。事未だ知るべからず。祗だ惡名を成さん。止めよ」と。對へて曰く、「臣之を殺さん。君與り知ること勿かれ」と。乃ち公孫無地・公孫臣と謀り、甯氏を攻めしむ。克たず、皆死す。公曰く、「臣や罪無し。父子余に死せり」と。
現代語訳
襄公二十七年の春、胥梁帯は、烏余に邑を奪われた国々に、兵車と兵を用意して土地の引き渡しを受けるよう命じ、必ずひそかに準備させた。一方で烏余には、兵車と兵を用意して(晋からの)封地を受け取るよう命じた。烏余が兵を率いて出てくると、胥梁帯は諸侯の兵を、烏余に封地を引き渡す者に見せかけて近づかせ、そのまま烏余を捕らえ、配下をことごとく捕らえた。そして奪われていた邑をすべて取り返して諸侯に返した。諸侯はこれによって晋と親しくなった。斉の慶封が魯に聘問に来た。その車は美しかった。孟孫(仲孫羯)が叔孫(叔孫豹)に言った。「慶季(慶封)の車は、なんと美しいではないか」。叔孫は言った。「私、豹はこう聞いている。身なりが立派でも、それにふさわしい中身がなければ、必ず悪い最期を迎える、と。車が美しくて何になろう」。叔孫が慶封と食事をしたとき、慶封は礼を欠いた。叔孫は慶封のために「相鼠」の詩を歌った(鼠にさえ皮があるのに、人に礼儀がないとは、という詩である)。慶封はそれにも気づかなかった。衛の甯喜が政治を独占した。献公はこれを憂えた。公孫免余が甯喜を殺すことを願い出た。献公は言った。「甯子がいなければ、私は国に戻れなかった。私は彼に(政治を任せると)約束したのだ。それに事がうまくいくかどうかも分からない。悪名を残すだけだ。やめておけ」。免余は答えた。「私が殺します。君はこの件にかかわらないでください」。そこで公孫無地・公孫臣と謀り、二人に甯氏を攻めさせたが、勝てず、二人とも死んだ。献公は言った。「臣には罪がなかった。父子(公孫臣とその父)ともに私のために死んだ」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』桓公六年 鬬伯比、隨を驕らす策六年春、曹より來朝す。書して「寔(こ)れ來たる」と曰ふは、其の國に復らざればなり。楚の武王隨を侵し、薳章をして成を求めしめ、瑕に軍して以て之を待つ。隨人少師をして成を董さしむ。鬬伯比楚子に言ひて曰く、「吾の志を漢東に得ざるや、我則ち然らしむ。我吾が三軍を張りて吾が甲兵を被り、武を以て之に臨む。彼則ち懼れて協して以て我を謀る、故に間し難きなり。漢東の國、隨を大と為す。隨張らば、必ず小國を棄てん。小國離るるは、楚の利なり。少師は侈る、請ふ師を羸(よわ)くして以て之を張らしめん」と。熊率且比曰く、「季梁在り、何の益かあらん」と。鬬伯比曰く、「以て後圖と為す。少師其の君を得ん」と。王軍を毀りて少師を納る。
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『春秋左氏伝』定公十年 駟赤、郈を取る克たず。秋、二子、齊の師と復た郈を圍む。克たず。叔孫、郈の工師駟赤に謂ひて曰く、「郈は唯だ叔孫氏の憂ひのみに非ず、社稷の患ひなり。將に之を若何せんとす」と。對へて曰く、「臣の業は、揚水の卒章の四言に在り」と。叔孫、稽首す。駟赤、侯犯に謂ひて曰く、「齊・魯の際に居りて事ふる無きは、必ず不可なり。子、盍ぞ事を齊に求めて以て民に臨まざる。然らずんば、將に叛かれんとす」と。侯犯、之に從ふ。齊の使至る。駟赤、郈人と之が為に郈中に宣言して曰く、「侯犯、將に郈を以て齊に易へんとす。齊人、將に郈の民を遷さんとす」と。眾、兇懼す。駟赤、侯犯に謂ひて曰く、「眾の言異なれり。子、齊に易ふるに如かず。其の死せんよりは、猶ほ是れ郈なり、而して紓ぶるを得ん。何ぞ必ずしも此ならん。齊人は此を以て魯に偪らんと欲す。必ず倍して子に地を與へん。且つ盍ぞ多く甲を子の門に舍きて、以て不虞に備へざる」と。侯犯曰く、「諾」と。乃ち多く甲を焉に舍く。侯犯、齊に易へんことを請ふ。齊の有司、郈を觀て將に至らんとす。駟赤、人をして周く走りて呼ばしめて曰く、「齊の師至れり」と。郈人大いに駭き、侯犯の門の甲を介して、以て侯犯を圍む。
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孫子・謀攻篇故に上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。
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『韓非子』說林下二十三夫れ一臣を殺して一国を存す、其れ吉と言はざるは何ぞや。且つ死者知無くんば、則ち臣を以て鼓に釁るも益無きなり。死者知有らば、臣将に戦ひに当たるの時、臣鼓をして鳴らざらしめん」と。荊人因りて殺さざるなり。知伯将に仇由を伐たんとして道難くして通ぜず、乃ち大鐘を鋳て仇由の君に遺る。仇由の君大いに説び、道を除きて将に之を内れんとす。赤章曼枝曰く、「不可なり。此れ小の大に事ふる所以なり、而るに今や大以て来る、卒必ず之に随はん、内るべからざるなり」と。仇由の君聴かず、遂に之を内る。赤章曼枝因りて轂を断ちて駆り、斉に至り、七月にして仇由亡ぶ。越已に呉に勝ち、又卒を荊に索めて晋を攻めんとす。左史倚相、荊王に謂ひて曰く、「夫れ越は呉を破りて、豪士死し、鋭卒尽き、大甲傷つく。今又卒を索めて以て晋を攻むるは、我に病まざるを示すなり。師を起こして与に呉を分かつに如かず」と。荊王曰く、「善し」と。因りて師を起こして越に従ふ。越王怒り、将に之を撃たんとす。大夫種曰く、「不可なり。吾が豪士尽き、大甲傷つく。我与に戦はば、必ず克たず。之に賂ふに如かず」と。乃ち露山の陰五百里を割きて以て之に賂ふ。荊、陳を伐ち、呉之を救ふ。軍間三十里。雨ふること十日、夜星あり。左史倚相、子期に謂ひて曰く、「雨ふること十日、甲輯まりて兵聚まる。呉人必ず至らん、之に備ふるに如かず」と。乃ち陳を為す。陳未だ成らざるに呉人至り、荊の陳を見て反る。左史曰く、「呉は反覆六十里、其の君子必ず休み、小人必ず食はん。我三十里を行きて之を撃たば、必ず敗るべきなり」と。乃ち之に従ひ、遂に呉の軍を破る。韓・趙相与に難を為す。韓子、兵を魏に索めて曰く、「願はくは師を借りて以て趙を伐たん」と。魏の文侯曰く、「寡人は趙と兄弟なり、以て従ふべからず」と。趙も又兵を索めて以て韓を攻めんとす。文侯曰く、「寡人は韓と兄弟なり、敢へて従はず」と。二国、兵を得ずして、怒りて反る。
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『春秋左氏伝』昭公十一年 幣重くして言甘し十一年、春、王の二月、叔弓宋に如く。平公を葬るなり。景王萇弘に問ひて曰く、「今茲諸侯、何か實に吉にして、何か實に凶なる」と。對へて曰く、「蔡凶なり。此れ蔡侯般其の君を弒するの歲なり。歲豕韋に在り。此を過ぎず。楚將に之を有たんとす。然れども壅むるなり。歲大梁に及びて、蔡復し楚凶ならん。天の道なり」と。楚子申に在り。蔡の靈侯を召す。靈侯將に往かんとす。蔡の大夫曰く、「王は貪にして信無し。唯だ蔡に於いて感む。今幣重くして言甘し。我を誘ふなり。往く無きに如かず」と。蔡侯可かず。五月、丙申、楚子甲を伏せて蔡侯に申に饗す。醉はしめて之を執ふ。
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『韓非子』喻老第二十一故に曰く、「将に之を翕めんと欲すれば、必ず固く之を張る。将に之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす」と。晋の献公、将に虞を襲はんと欲し、之に遺るに璧馬を以てす。知伯、将に仇由を襲はんとし、之に遺るに広車を以てす。故に曰く、「将に之を取らんと欲すれば、必ず固く之に与ふ」と。事を無形に起こして、大功を天下に要む、「是を微明と謂ふ」。小弱に処りて重く自ら卑損す、「弱は強に勝つ」と謂ふなり。
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