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春秋左氏伝 / 襄公二十六年 子産、楚を禦がず

冬,十月,楚子伐鄭,鄭人將禦之。子產曰:晉楚將平。諸侯將和。楚王是故昧於一來。不如使逞而歸。乃易成也。夫小人之性。釁於勇。嗇於禍。以足其性。而求名焉者。非國家之利也。若何從之。子展說。不禦寇。十二月,乙酉,入南里,墮其城,涉於樂氏,門于師之梁。縣門發。獲九人焉。涉于氾而歸。而後葬許靈公。衛人歸衛姬于晉。乃釋衛侯。君子是以知平公之失政也。晉韓宣子聘于周。王使請事對曰:晉士起將歸時事於宰旅。無他事矣。王聞之曰:韓氏其昌阜於晉乎。辭不失舊。齊人城郟之歲。其夏。齊烏餘以廩丘奔晉。襲衛羊角取之。遂襲我高魚。有大雨自其竇入。介于其庫。以登其城。克而取之。又取邑于宋。於是范宣子卒。諸侯弗能治也。及趙文子為政。乃卒治之。文子言於晉侯曰:晉為盟主。諸侯或相侵也。則討而使歸其地。今烏餘之邑。皆討類也。而貪之。是無以為盟主也。請歸之。公曰:諾。孰可使也。對曰:胥梁帶能無用師。晉侯使往。

新字:冬,十月,楚子伐鄭,鄭人将禦之。子産曰:晋楚将平。諸侯将和。楚王是故昧於一来。不如使逞而帰。乃易成也。夫小人之性。釁於勇。嗇於禍。以足其性。而求名焉者。非国家之利也。若何従之。子展説。不禦寇。十二月,乙酉,入南里,堕其城,渉於楽氏,門于師之梁。県門発。獲九人焉。渉于氾而帰。而後葬許霊公。衛人帰衛姫于晋。乃釈衛侯。君子是以知平公之失政也。晋韓宣子聘于周。王使請事対曰:晋士起将帰時事於宰旅。無他事矣。王聞之曰:韓氏其昌阜於晋乎。辞不失旧。斉人城郟之歳。其夏。斉烏余以廩丘奔晋。襲衛羊角取之。遂襲我高魚。有大雨自其竇入。介于其庫。以登其城。克而取之。又取邑于宋。於是范宣子卒。諸侯弗能治也。及趙文子為政。乃卒治之。文子言於晋侯曰:晋為盟主。諸侯或相侵也。則討而使帰其地。今烏余之邑。皆討類也。而貪之。是無以為盟主也。請帰之。公曰:諾。孰可使也。対曰:胥梁帯能無用師。晋侯使往。

書き下し

冬、十月、楚子鄭を伐つ。鄭人將に之を禦がんとす。子產曰く、「晉・楚將に平らがんとし、諸侯將に和せんとす。楚王是の故に一たび來るに昧るのみ。逞くして歸らしむるに如かず。乃ち成り易からん。夫れ小人の性は、勇に釁き、禍に嗇り、以て其の性を足して、名を求むる者は、國家の利に非ざるなり。若何ぞ之に從はん」と。子展說び、寇を禦がず。十二月、乙酉、南里に入り、其の城を墮ち、樂氏に涉り、師之梁に門す。縣門發し、九人を獲たり。氾を涉りて歸る。而る後に許の靈公を葬る。衛人衛姬を晉に歸る。乃ち衛侯を釋す。君子是を以て平公の政を失ふを知る。晉の韓宣子周に聘す。王事を請はしむ。對へて曰く、「晉の士起將に時事を宰旅に歸せんとす。他事無し」と。王之を聞きて曰く、「韓氏其れ晉に昌阜ならんか。辭舊を失はず」と。齊人郟に城くの歲、其の夏、齊の烏餘廩丘を以て晉に奔る。衛の羊角を襲ひて之を取る。遂に我が高魚を襲ふ。大雨有り、其の竇より入り、其の庫に介して、以て其の城に登り、克ちて之を取る。又邑を宋に取る。是に於いて范宣子卒す。諸侯治むる能はず。趙文子政を為すに及び、乃ち卒に之を治む。文子晉侯に言ひて曰く、「晉盟主為り。諸侯或いは相侵さば、則ち討ちて其の地を歸さしむ。今烏餘の邑は、皆討類なり。而るに之を貪るは、是れ以て盟主為ること無きなり。請ふ之を歸さん」と。公曰く、「諾。孰か使ふべき」と。對へて曰く、「胥梁帶能く師を用ゐること無からん」と。晉侯往かしむ。

現代語訳

冬十月、楚子(康王)が鄭を攻めた。鄭の人々はこれを防ごうとした。子産が言った。「晋と楚はまもなく和平を結び、諸侯も和解しようとしている。楚王はだからこそ、今のうちに一度攻めて来ようと欲張っているだけだ。思いどおりにさせて帰らせるほうがよい。そうすれば和平も成りやすくなる。そもそも小人の性質は、勇ましさに駆られて動き、戦いの災いを好み、それで自分の気性を満たして名声を求めるものだ。それは国家の利益ではない。どうしてそんな者に従えようか」。子展は喜んで、敵を防がなかった。十二月乙酉の日、楚軍は南里に入ってその城壁を壊し、楽氏の渡し場で川を渡り、師之梁の門を攻めた。城門の吊り戸が落とされ、楚兵九人が城内に取り残されて捕らえられた。楚軍は氾水を渡って帰った。そのあとで許の霊公を葬った。衛の人々は衛姫を晋に嫁がせた。晋はそこで衛侯(献公)を釈放した。君子はこのことから、晋の平公が政治を誤っていることを知った。晋の韓宣子(韓起)が周に聘問した。周王(霊王)は人をやって用向きを尋ねさせた。宣子は答えた。「晋の士である私、起は、季節ごとの貢ぎ物を宰旅(王の役人)にお納めしに参っただけで、ほかに用はございません」。王はそれを聞いて言った。「韓氏は晋で栄えるだろう。言葉が昔の礼を失っていない」。斉の人々が郟に城を築いた年(襄公二十四年)の夏、斉の烏余が廩丘の邑を手みやげに晋に亡命した。烏余は衛の羊角を襲ってこれを取り、さらにわが魯の高魚を襲った。大雨が降ったとき、城壁の排水口から入り込み、武器庫で甲冑を身につけて城壁に登り、城を攻め落として取った。また宋からも邑を奪った。ちょうどそのころ范宣子(士匄)が死に、諸侯はこれを処理することができなかった。趙文子が晋の政権を担うようになって、ようやく片をつけた。文子は晋侯(平公)に言った。「晋は盟主です。諸侯が互いに侵し合えば、討伐して奪った土地を返させるのが務めです。今、烏余の手にある邑は、どれも討伐すべき類のものです。それを欲張って自分のものにしておくのでは、盟主である資格がありません。どうか返してください」。平公は言った。「よかろう。誰を使いに出せばよいか」。文子は答えた。「胥梁帯なら、軍を用いずにやり遂げられるでしょう」。晋侯は胥梁帯を行かせた。

解説

楚が鄭に攻め込んでくる。鄭の人々は迎え撃とうとするが、子産は止めた。晋と楚の和平が近いからこそ、楚王は今のうちに一度攻めて面目を得たいだけだ。思いどおりにさせて帰せば、和平はかえってまとまりやすい。そして戦いたがる者について「勇に釁き、禍に嗇り」、勇ましさに駆られ、戦いを好み、自分の名を求める者だと言い切る。勝てるかどうかではなく、戦うことが国益にかなうかどうかで判断した。実際に楚軍は城壁の一部を壊して帰っただけで、鄭の損害は小さかった。後半には晋の話が三つ続く。衛姫を受け取って衛侯を放した平公は、女性で判断を変えたと君子に批判される。韓宣子は周王の問いに余計なことを言わず、古い礼の言葉づかいを守って褒められる。趙文子は、亡命者の烏余が奪った土地を晋が抱え込んでいるのは盟主らしくないとして、元の国に返させる。いずれも、目の前の得より立場にふさわしいふるまいを選べるかが問われている。

この章句が説くこと

戦略的忍耐国益盟主の責任辞令功名心

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