史記 / 伍子胥列伝
久之、楚平王以其邊邑鐘離與吳邊邑卑梁氏俱蠶、兩女子爭桑相攻、乃大怒、至於兩國舉兵相伐。吳使公子光伐楚、拔其鐘離・居巢而歸。伍子胥說吳王僚曰、楚可破也。願復遣公子光。公子光謂吳王曰、彼伍胥父兄為戮於楚、而勸王伐楚者、欲以自報其讎耳。伐楚未可破也。伍胥知公子光有內志、欲殺王而自立、未可說以外事、乃進專諸於公子光、退而與太子建之子勝耕於野。
新字:久之、楚平王以其辺邑鐘離与吳辺邑卑梁氏俱蠶、両女子争桑相攻、乃大怒、至於両国舉兵相伐。吳使公子光伐楚、抜其鐘離・居巣而帰。伍子胥説吳王僚曰、楚可破也。願復遣公子光。公子光謂吳王曰、彼伍胥父兄為戮於楚、而勧王伐楚者、欲以自報其讎耳。伐楚未可破也。伍胥知公子光有内志、欲殺王而自立、未可説以外事、乃進専諸於公子光、退而与太子建之子勝耕於野。
書き下し
之を久しくして、楚の平王、其の辺邑鐘離と呉の辺邑卑梁氏と俱に蠶し、両女子桑を争ひて相ひ攻むるを以て、乃ち大いに怒り、両国兵を挙げて相ひ伐つに至る。呉、公子光をして楚を伐たしめ、其の鐘離・居巣を抜きて帰る。伍子胥、呉王僚に説きて曰く、「楚破る可きなり。願はくは復た公子光を遣せ」と。公子光、呉王に謂ひて曰く、「彼の伍胥の父兄は楚に戮せらる、而して王に楚を伐つを勧むるは、以て自ら其の讎に報いんと欲するのみ。楚を伐つも未だ破る可からざるなり」と。伍胥、公子光に内志有りて、王を殺して自立せんと欲し、未だ外事を以て説く可からざるを知り、乃ち専諸を公子光に進め、退きて太子建の子の勝と野に耕す。
現代語訳
しばらくして、楚の平王は、辺境の町・鐘離と呉の辺境の町・卑梁氏がともに養蚕をしていて、両家の娘が桑の葉を奪い合って争い、互いに攻め合ったことに大いに怒り、ついに両国が兵を挙げて攻め合うまでになった。呉は公子光に楚を討たせ、鐘離と居巣を攻め落として帰還した。伍子胥は呉王僚に説いた。「楚は破ることができます。どうかもう一度、公子光を派遣してください」。すると公子光は呉王に言った。「あの伍胥は父と兄を楚に殺されている。王に楚を討てと勧めるのは、自分の仇を討ちたいだけのことです。楚はまだ破れますまい」。伍子胥は、公子光には内心の野心があり、王を殺して自ら位に就こうとしているのだから、対外戦争の話では動かせないと悟った。そこで刺客の専諸を公子光に引き合わせ、自分は身を引いて、太子建の子である勝とともに田舎で畑を耕した。
解説
この章句が説くこと
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