春秋左氏伝 / 襄公二十六年 伊戻、太子を讒す
秋。楚客聘於晉。過宋。大子知之。請野享之。公使往。伊戾請從之。公曰:夫不惡女乎。對曰:小人之事君子也。惡之不敢遠。好之不敢近。敬以待命。敢有貳心乎。縱有共其外。莫共其內。臣請往也。遣之。至則欿用牲。加書徵之。而騁告公曰:大子將為亂。既與楚客盟矣。公曰:為我子。又何求。對曰:欲速。公使視之。則信有焉。問諸夫人與左師。則皆曰固聞之。公囚大子。大子曰:唯佐也能免我。召而使請。曰日中不來。吾知死矣。左師聞之。聒而與之語。過期。乃縊而死。佐為大子。公徐聞其無罪也。乃亨伊戾。左師見夫人之步馬者問之。對曰:君夫人氏也。
新字:秋。楚客聘於晋。過宋。大子知之。請野享之。公使往。伊戻請従之。公曰:夫不悪女乎。対曰:小人之事君子也。悪之不敢遠。好之不敢近。敬以待命。敢有貳心乎。縦有共其外。莫共其内。臣請往也。遣之。至則欿用牲。加書徴之。而騁告公曰:大子将為乱。既与楚客盟矣。公曰:為我子。又何求。対曰:欲速。公使視之。則信有焉。問諸夫人与左師。則皆曰固聞之。公囚大子。大子曰:唯佐也能免我。召而使請。曰日中不来。吾知死矣。左師聞之。聒而与之語。過期。乃縊而死。佐為大子。公徐聞其無罪也。乃亨伊戻。左師見夫人之歩馬者問之。対曰:君夫人氏也。
書き下し
秋、楚の客晉に聘し、宋を過ぐ。大子之を知り、請ひて野に之を享せんとす。公往かしむ。伊戾請ひて之に從はんとす。公曰く、「夫れ女を惡まざるか」と。對へて曰く、「小人の君子に事ふるや、之を惡むも敢へて遠ざからず、之を好むも敢へて近づかず、敬みて以て命を待つ。敢へて貳心有らんや。縱ひ其の外に共する有るも、其の內に共する莫し。臣請ふ往かん」と。之を遣る。至れば則ち欿りて牲を用ゐ、書を加へて之を徵とし、而して騁せて公に告げて曰く、「大子將に亂を為さんとす。既に楚の客と盟へり」と。公曰く、「我が子為り。又何をか求めん」と。對へて曰く、「速やかならんことを欲す」と。公之を視しむ。則ち信に有り。諸を夫人と左師とに問ふ。則ち皆曰く、「固より之を聞けり」と。公大子を囚ふ。大子曰く、「唯だ佐や能く我を免れしめん」と。召して請はしめて曰く、「日中にして來らずんば、吾死を知る」と。左師之を聞き、聒しくして之と語り、期を過ごす。乃ち縊れて死す。佐大子と為る。公徐ろに其の罪無きを聞くや、乃ち伊戾を亨る。左師夫人の步馬する者を見て之に問ふ。對へて曰く、「君夫人氏なり」と。
現代語訳
秋、楚の客人が晋へ聘問に行く途中で宋を通った。太子(痤)はその客と知り合いだったので、郊外で饗応したいと願い出た。平公は行くことを許した。伊戻は太子のお供をしたいと願い出た。平公は言った。「太子はおまえを嫌っているのではないか」。伊戻は答えた。「小人が君子に仕えるときは、嫌われても遠ざからず、好かれても近づきすぎず、慎んで命令を待つものです。どうして二心など抱きましょう。外向きのお世話をする者はいても、内向きのお世話をする者がおりません。どうか私に行かせてください」。平公は伊戻を行かせた。伊戻は現地に着くと、地面に穴を掘って犠牲を埋め、その上に盟約の文書を置いて証拠をこしらえ、馬を走らせて平公に報告した。「太子は乱を起こそうとしています。すでに楚の客と盟約を結びました」。平公は言った。「太子は私の子だ。この上何を求めることがあろう」。伊戻は答えた。「早く位に就きたいのです」。平公が人をやって調べさせると、確かに盟約の跡があった。夫人(棄)と左師(向戌)に尋ねると、二人とも「前からそのような話は聞いておりました」と言った。平公は太子を監禁した。太子は言った。「佐だけが私を救うことができる」。佐を呼んで父にとりなしを頼ませ、「日が南中するまでに来なければ、私は死ぬものと覚悟する」と言った。左師はそれを聞くと、佐をつかまえて長々とおしゃべりをし、約束の時刻を過ぎさせた。太子はそこで首をくくって死んだ。佐が太子となった。平公はしばらくたって、痤に罪がなかったことを知り、伊戻を煮殺した。あるとき左師は、夫人の馬を引いて歩かせている者を見かけ、誰の馬かと尋ねた。その者は「君夫人のものです」と答えた。
解説
この章句が説くこと
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