説苑 / 雜言
祁射子見秦惠王,惠王說之,於是唐姑讒之,復見,惠王懷怒以待之。非其說異也,所聽者易也。故以徵為羽,非絃之罪也;以甘為苦,限味之過也。
新字:祁射子見秦恵王,恵王説之,於是唐姑讒之,復見,恵王懐怒以待之。非其説異也,所聴者易也。故以徴為羽,非絃之罪也;以甘為苦,限味之過也。
書き下し
祁射子、秦の惠王に見え、惠王之を說ぶ。是に於いて唐姑之を讒し、復た見ゆるに、惠王怒りを懷きて以て之を待つ。其の說く所異なるに非ざるなり、聽く所の易わればなり。故に徵を以て羽と為すは、絃の罪に非ざるなり。甘きを以て苦しと為すは、味を限るの過ちなり。
現代語訳
祁射子が秦の恵王に謁見し、恵王はこれを喜んだ。ところが唐姑がこれを讒言したため、再び謁見した際には、恵王は怒りを抱いて彼を迎えた。祁射子の説くところが変わったわけではない。恵王が聞く姿勢が変わったのである。だから、徴の音が羽の音に聞こえるのは、弦そのものの罪ではない。甘いものを苦いと感じるのは、味覚が惑わされた過ちなのである。
解説
同じ人物が同じことを説いても、間に入る讒言ひとつで評価が真逆に転じるというこの逸話は、評価というものがいかに当人の実力以上に「聞き手の状態」に左右されるかを鋭く指摘する。現代の組織でも、実績や発言内容は変わらないのに、周囲の噂や第三者の讒言によって突然評価が反転する経験は珍しくない。弦の音が変わったのではなく耳が惑わされたのだという比喩は、評価する側にこそ公正さと自らの判断を疑う謙虚さが求められることを教えている。

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讒言評価聞き手
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