春秋左氏伝 / 襄公二十六年 賦詩して衛侯を請う
曰:晉君宣其明德於諸侯。恤其患而補其闕。正其違而治其煩。所以為盟主也。今為臣執君。若之何。叔向告趙文子。文子以告晉侯。晉侯言衛侯之罪。使叔向告二君。國子賦轡之柔矣。子展賦將仲子兮。晉侯乃許歸衛侯。叔向曰:鄭七穆。罕氏其後亡者也。子展儉而壹。初。宋芮司徒生女子。赤而毛。棄諸堤下。共姬之妾。取以入。名之曰棄。長而美。平公入夕。共姬與之食。公見棄也而視之尤。姬納諸御。嬖。生佐。惡而婉。大子痤美而很。合左師畏而惡之。寺人惠牆伊戾。為大子內師。而無寵。
新字:曰:晋君宣其明徳於諸侯。恤其患而補其闕。正其違而治其煩。所以為盟主也。今為臣執君。若之何。叔向告趙文子。文子以告晋侯。晋侯言衛侯之罪。使叔向告二君。国子賦轡之柔矣。子展賦将仲子兮。晋侯乃許帰衛侯。叔向曰:鄭七穆。罕氏其後亡者也。子展倹而壱。初。宋芮司徒生女子。赤而毛。棄諸堤下。共姫之妾。取以入。名之曰棄。長而美。平公入夕。共姫与之食。公見棄也而視之尤。姫納諸御。嬖。生佐。悪而婉。大子痤美而很。合左師畏而悪之。寺人恵牆伊戻。為大子内師。而無寵。
書き下し
曰く、「晉君其の明德を諸侯に宣べ、其の患ひを恤へて其の闕を補ひ、其の違ひを正して其の煩を治む。盟主為る所以なり。今臣の為に君を執ふ。之を若何せん」と。叔向趙文子に告ぐ。文子以て晉侯に告ぐ。晉侯衛侯の罪を言ひ、叔向をして二君に告げしむ。國子轡之柔矣を賦し、子展將仲子兮を賦す。晉侯乃ち衛侯を歸すを許す。叔向曰く、「鄭の七穆、罕氏其れ後に亡ぶる者なり。子展儉にして壹なり」と。初め、宋の芮司徒女子を生む。赤くして毛あり。諸を堤下に棄つ。共姬の妾取りて以て入り、之を名づけて棄と曰ふ。長じて美なり。平公入りて夕す。共姬之と食はしむ。公棄を見て之を視ること尤だし。姬諸を御に納る。嬖せられて佐を生む。惡にして婉なり。大子痤は美にして很る。合左師畏れて之を惡む。寺人惠牆伊戾、大子の內師為りて寵無し。
現代語訳
晏平仲は叔向に言った。「晋君は明らかな徳を諸侯に広め、諸侯の苦しみを気づかって足りないところを補い、誤りを正して乱れを治めておられます。それが盟主である理由です。ところが今、臣下(孫林父)のために君主(衛侯)を捕らえておられる。これはどうしたものでしょうか」。叔向はこれを趙文子(趙武)に伝え、文子は晋侯(平公)に伝えた。晋侯は衛侯の罪を並べ立て、叔向に命じてそれを斉と鄭の二君に告げさせた。すると国子(国景子)は「轡之柔矣」の詩を歌い(寛大に扱って諸侯を従えるよう求め)、子展は「将仲子兮」の詩を歌った(人の言葉も恐れるべきだと訴えた)。晋侯はそこで衛侯を帰国させることを許した。叔向は言った。「鄭の七穆(穆公から出た七つの家)のうち、罕氏(子展の家)は最後まで滅びないだろう。子展は倹約で、心が一つに定まっている」。これより前、宋の芮司徒に女の子が生まれた。赤い肌で毛が生えていたので、堤の下に捨てた。共姫(宋の共公夫人)の侍女がそれを拾って宮中に入れ、「棄」と名づけた。成長すると美しくなった。平公(宋の平公、共姫の子)が夕刻に母のもとへ挨拶に来たとき、共姫は棄に食事の給仕をさせた。平公は棄を見て、しきりに目を向けた。共姫は棄を平公の側室として差し出した。棄は寵愛されて佐を生んだ。佐は容貌は醜いが、性格は柔和であった。太子の痤は容貌は美しいが、ねじけた性格であった。合左師(向戌)は太子を恐れ、また憎んでいた。寺人(宦官)の恵牆伊戻は太子の内師(奥向きの世話役)であったが、太子に目をかけられていなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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