史記 / 留侯世家
且夫楚唯無彊,六國立者復橈而從之,陛下焉得而臣之?誠用客之謀,陛下事去矣。」漢王輟食吐哺,罵曰:「豎儒,幾敗而公事!」令趣銷印。漢四年,韓信破齊而欲自立為齊王,漢王怒。張良說漢王,漢王使良授齊王信印,語在淮陰事中。其秋,漢王追楚至陽夏南,戰不利而壁固陵,諸侯期不至。良說漢王,漢王用其計,諸侯皆至。語在項籍事中。漢六年正月,封功臣。良未嘗有戰鬬功,高帝曰:「運籌策帷帳中,決勝千里外,子房功也。自擇齊三萬戶。」良曰:「始臣起下邳,與上會留,此天以臣授陛下。陛下用臣計,幸而時中,臣願封留足矣,不敢當三萬戶。」乃封張良為留侯,與蕭何等俱封。六年上已封大功臣二十餘人,其餘日夜爭功不決,未得行封。上在雒陽南宮,從複道望見諸將往往相與坐沙中語。上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳。」上曰:「天下屬安定,何故反乎?」留侯曰:「陛下起布衣,以此屬取天下,今陛下為天子,而所封皆蕭、曹故人所親愛,而所誅者皆生平所仇怨。今軍吏計功,以天下不足遍封,此屬畏陛下不能盡封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。」上乃憂曰:「為之奈何?」留侯曰:「上平生所憎,羣臣所共知,誰最甚者?」
新字:且夫楚唯無彊,六国立者復橈而従之,陛下焉得而臣之?誠用客之謀,陛下事去矣。」漢王輟食吐哺,罵曰:「豎儒,幾敗而公事!」令趣銷印。漢四年,韓信破斉而欲自立為斉王,漢王怒。張良説漢王,漢王使良授斉王信印,語在淮陰事中。其秋,漢王追楚至陽夏南,戦不利而壁固陵,諸侯期不至。良説漢王,漢王用其計,諸侯皆至。語在項籍事中。漢六年正月,封功臣。良未嘗有戦闘功,高帝曰:「運籌策帷帳中,決勝千里外,子房功也。自択斉三万戸。」良曰:「始臣起下邳,与上会留,此天以臣授陛下。陛下用臣計,幸而時中,臣願封留足矣,不敢当三万戸。」乃封張良為留侯,与蕭何等倶封。六年上已封大功臣二十余人,其余日夜争功不決,未得行封。上在雒陽南宮,従複道望見諸将往往相与坐沙中語。上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳。」上曰:「天下属安定,何故反乎?」留侯曰:「陛下起布衣,以此属取天下,今陛下為天子,而所封皆蕭、曹故人所親愛,而所誅者皆生平所仇怨。今軍吏計功,以天下不足遍封,此属畏陛下不能尽封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。」上乃憂曰:「為之奈何?」留侯曰:「上平生所憎,羣臣所共知,誰最甚者?」
書き下し
且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
現代語訳
しかも楚が強くならないようにできればよいが、そうでなければ、立てられた六国の王たちはまた屈して楚に従うだろう。陛下はどうして彼らを臣下にできようか。本当にあの客の策を用いれば、陛下の大事はおしまいだ」。漢王は食事をやめ、口の中の物を吐き出し、罵って言った。「あの青二才の儒者め、危うくこのわしの大事をぶち壊すところだった」。そして急いで印を溶かして潰させた。漢四年、韓信は斉を破ると、自ら立って斉王になろうとした。漢王は怒った。張良が漢王に説き、漢王は張良に斉王の印を韓信に授けさせた。このことは淮陰侯の伝の中に記してある。その秋、漢王は楚を追って陽夏の南に至ったが、戦いに利なく固陵に塁を築いて守った。諸侯は約束の期日になっても来なかった。張良が漢王に説き、漢王がその策を用いると、諸侯はみなやって来た。このことは項籍の伝の中に記してある。漢六年正月、功臣を封じた。張良は戦場での戦功が一度もなかったが、高帝は言った。「策を陣営の帳の中でめぐらし、千里の外で勝ちを決したのは、子房の功である。斉の地から三万戸を自分で選ぶがよい」。張良は言った。「初め私は下邳で兵を挙げ、留で陛下とお会いした。これは天が私を陛下に授けたのだ。陛下は私の策を用いてくださり、幸いにも時宜にかなった。私は留に封じていただければ十分で、三万戸などとても受けられない」。そこで張良を留侯に封じ、蕭何らとともに封じた。漢六年、高祖はすでに大功臣二十人余りを封じていたが、残りの者たちは日夜手柄を争って決着がつかず、まだ封じることができなかった。高祖は洛陽の南宮にいて、二階建ての渡り廊下から、将軍たちがあちこちで砂の上に座り込んで話し合っているのを眺めていた。高祖は言った。「あれは何を話しているのか」。留侯は言った。「陛下はご存じないのか。あれは謀反の相談だ」。高祖は言った。「天下はようやく安定したところだ。どうして謀反など起こすのか」。留侯は言った。「陛下は庶民から身を起こし、あの者たちの力で天下を取った。いま陛下は天子となられたが、封じたのはみな蕭何・曹参らの古なじみで親しい者ばかり、誅したのはみな日ごろ恨みのあった者ばかりだ。いま軍吏たちが手柄を計算すると、天下の土地をすべて使っても全員を封じるには足りないとしている。あの者たちは、陛下がすべての者を封じることはできないのではないかと恐れ、また日ごろの過失を疑われて誅されるのではないかと恐れている。だから集まって謀反を相談しているのだ」。高祖は憂えて言った。「どうしたらよいか」。留侯は言った。「陛下が日ごろ憎んでいて、しかも群臣がみなそれを知っている者のうち、誰が最もひどいか」。
解説
関連する章句
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『新序』善謀第十漢の六年、正月、功臣を封ず。張子房未だ嘗て戰鬭の功有らず。高皇帝曰く、籌策を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。子房自ら齊の三萬戸を擇べ、と。良曰く、始め臣下邳より起こり、上と留に會す。此れ天の臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用い、幸いにして時に中たる。臣願わくは留に封ぜられて足れり。敢えて齊の三萬戸に當たらず、と。乃ち良を封じて留侯と爲す。
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史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
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史記 高祖本紀漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
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史記 陳丞相世家漢王大いに怒りて罵る、陳平漢王を躡む。漢王も亦た悟り、乃ち厚く斉の使を遇し、張子房をして卒に信を立てて斉王と為さしむ。平を封ずるに戸牖郷を以てす。其の奇計策を用ひ、卒に楚を滅ぼす。常に護軍中尉を以て従ひて燕王臧荼を定む。漢六年、人の上書して楚王韓信の反くを告ぐる者有り。高帝諸将に問ふ、諸将曰く、「亟やかに兵を発して豎子を阬にせんのみ」と。高帝黙然たり。陳平に問ふ、平固く辞謝して、曰く、「諸将は云何」と。上具に之を告ぐ。陳平曰く、「人の上書して信の反くを言ふ、之を知る者有るか」と。曰く、「未だ有らず」と。曰く、「信之を知るか」と。曰く、「知らず」と。陳平曰く、「陛下の精兵は楚に孰与ぞ」と。上曰く、「過ぐる能はず」と。平曰く、「陛下の将の兵を用ふるに能く韓信に過ぐる者有るか」と。上曰く、「及ぶ莫きなり」と。平曰く、「今兵は楚の精に如かず、而して将は及ぶ能はず、而して兵を挙げて之を攻むるは、是れ之に戦ひを趣すなり、窃かに陛下の為に之を危ぶむ」と。上曰く、「之を為すこと奈何」と。平曰く、「古者天子巡狩し、諸侯を会す。南方に雲夢有り、陛下弟だ出でて偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会せよ。陳は、楚の西界なり、信天子の好を以て出遊するを聞かば、其の勢必ず事無くして郊迎し謁せん。謁せば、而して陛下因りて禽にせよ、此れ特だ一力士の事のみ」と。高帝以て然りと為し、乃ち使を発して諸侯に陳に会せんことを告げしむ、「吾将に南のかた雲夢に遊ばんとす」と。上因りて随ひて以て行く。行きて未だ陳に至らざるに、楚王信果たして道中に郊迎す。高帝豫め武士を具へ、信の至るを見て、即ち之を執縛し、後車に載す。信呼びて曰く、「天下已に定まる、我固より当に烹らるべし」と。高帝顧みて信に謂ひて曰く、「若声すること毋かれ。而の反くこと、明らかなり」と。武士反接す。遂に諸侯に陳に会し、尽く楚の地を定む。還りて雒陽に至り、信を赦して以て淮陰侯と為し、而して功臣と符を剖きて封を定む。是に於て平と符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、戸牖侯と為す。平辞して曰く、「此れ臣の功に非ざるなり」と。
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史記 留侯世家項伯嘗て人を殺し、良に従ひて匿る。後十年、陳渉等兵を起こす、良も亦た少年百余人を聚む。景駒自ら立ちて楚の仮王と為り、留に在り。良往きて之に従はんと欲し、道にして沛公に還ふ。沛公数千人を将ゐ、地を下邳の西に略す、遂に焉に属す。沛公良を拝して廄将と為す。良数々太公兵法を以て沛公に説く、沛公之を善しとし、常に其の策を用ふ。良他人の為にする者は、皆省みず。良曰く、「沛公は殆ど天授なり」と。故に遂に之に従ひ、去りて景駒に見えず。沛公の薛に之きて、項梁に見ゆるに及び、項梁楚の懐王を立つ。良乃ち項梁に説きて曰く、「君已に楚の後を立つ、而して韓の諸公子横陽君成は賢なり、立てて王と為すべし、益々党を樹てん」と。項梁良をして韓成を求めしめ、立てて以て韓王と為す。良を以て韓の申徒と為し、韓王と千余人を将ゐて西のかた韓の地を略し、数城を得るも、秦輒ち復た之を取る、往来して游兵を潁川に為す。沛公の雒陽より南のかた轘轅に出づるや、良兵を引きて沛公に従ひ、韓の十余城を下し、楊熊の軍を撃破す。沛公乃ち韓王成をして陽翟に留守せしめ、良と倶に南し、宛を攻め下し、西のかた武関に入る。沛公兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す、良説きて曰く、「秦の兵尚ほ強し、未だ軽んずべからず。臣聞く、其の将は屠者の子なりと、賈豎は動かすに利を以てし易し。願はくは沛公且く留まりて壁し、人をして先行せしめ、五万人の為に食を具へ、益々為に旗幟を諸山の上に張り、疑兵と為し、酈食其をして重宝を持して秦の将に啗はしめよ」と。秦の将果たして叛き、連和して倶に西のかた咸陽を襲はんと欲す、沛公之を聴かんと欲す。良曰く、「此れ独り其の将叛かんと欲するのみ、恐らくは士卒従はざらん。従はずんば必ず危ふし、其の解くるに因りて之を撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引きて秦軍を撃ち、大いに之を破る。遂に北のかた藍田に至り、再び戦ひ、秦の兵竟に敗る。遂に咸陽に至り、秦王子嬰沛公に降る。
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史記 淮陰侯列伝願はくは仮王と為らば便なり」と。是の時に当たり、楚方に急に漢王を滎陽に囲む。韓信の使者至り、書を発く。漢王大いに怒り、罵りて曰く、「吾此に困しみ、旦暮に若の来りて我を佐くるを望む。乃ち自ら立ちて王と為らんと欲す」と。張良・陳平漢王の足を躡み、因りて耳に附けて語りて曰く、「漢方に不利なり。寧ぞ能く信の王たるを禁ぜんや。如かず因りて立て、善く之を遇し、自ら守りを為さしめんには。然らずんば、変生ぜん」と。漢王も亦悟り、因りて復た罵りて曰く、「大丈夫諸侯を定むれば、即ち真王と為るのみ。何ぞ仮を以て為さん」と。乃ち張良を遣はして往きて信を立てて斉王と為し、其の兵を徴して楚を撃たしむ。楚已に龍且を亡ひ、項王恐れ、盱眙の人武渉をして往きて斉王信に説かしめて曰く、「天下共に秦に苦しむこと久し。相与に力を勠せて秦を撃つ。秦已に破れ、功を計りて地を割き、土を分かちて之に王とし、以て士卒を休む。今漢王復た兵を興して東し、人の分を侵し、人の地を奪ふ。已に三秦を破り、兵を引きて関を出で、諸侯の兵を収めて以て東のかた楚を撃つ。其の意は尽く天下を呑むに非ずんば休まず。其の厭足を知らざること是くの如く甚だし。且つ漢王は必とすべからず。身項王の掌握の中に居ること数しばなり。項王憐れみて之を活かす。然るに脱するを得れば、輒ち約に倍き、復た項王を撃つ。其の親信すべからざること此くの如し。今足下自ら以て漢王と厚交を為すと為し、之が為に力を尽くして兵を用ゐると雖も、終に之が禽とする所と為らん。足下の須臾を得て今に至る所以の者は、項王尚存するを以てなり。当今二王の事、権は足下に在り。足下右に投ずれば則ち漢王勝ち、左に投ずれば則ち項王勝つ。項王今日亡びば、則ち次に足下を取らん。足下は項王と故有り。何ぞ漢に反きて楚と連和し、天下を参分して之に王たらざる。今此の時を釈てて、自ら漢に必して以て楚を撃つ。且つ智者たる為すは固より此くの若きか」と。
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