春秋左氏伝 / 襄公二十六年 衛献公の復帰
二月庚寅,甯喜右宰穀伐孫氏,不克。伯國傷。甯子出舍於郊。伯國死。孫氏夜哭國人召甯子。甯子復攻孫氏。克之。辛卯。殺子叔及大子角。書曰:甯喜弒其君剽。言罪之在甯氏也。孫林父以戚如晉書曰:入于戚以叛。罪孫氏也。臣之祿。君實有之。義則進。否則奉身而退。專祿以周旋。戮也。甲午。衛侯入。書曰:復歸國。納之也。大夫逆於竟者。執其手而與之言道。逆者自車揖之。逆於門者頷之而已。公至。使讓大叔文子曰:寡人淹恤在外。二三子皆使寡人。朝夕聞衛國之言。吾子獨不在寡人。古人有言曰非所怨勿怨寡人怨矣。對曰:臣知罪矣。臣不佞。不能負羈絏以從扞牧圉。臣之罪一也。有出者。有居者。臣不能貳。通外內之言以事君。臣之罪二也。有二罪。敢忘其死。乃行。從近關出。公使止之。衛人侵戚東鄙。孫氏愬于晉。晉戍茅氏。殖綽伐茅氏。殺晉戍三百人。孫蒯追之。弗敢擊。文子曰:厲之不如。遂從衛師。敗之圉。雍鉏獲殖綽。復愬于晉。
新字:二月庚寅,甯喜右宰穀伐孫氏,不克。伯国傷。甯子出舎於郊。伯国死。孫氏夜哭国人召甯子。甯子復攻孫氏。克之。辛卯。殺子叔及大子角。書曰:甯喜弒其君剽。言罪之在甯氏也。孫林父以戚如晋書曰:入于戚以叛。罪孫氏也。臣之禄。君実有之。義則進。否則奉身而退。専禄以周旋。戮也。甲午。衛侯入。書曰:復帰国。納之也。大夫逆於竟者。執其手而与之言道。逆者自車揖之。逆於門者頷之而已。公至。使譲大叔文子曰:寡人淹恤在外。二三子皆使寡人。朝夕聞衛国之言。吾子独不在寡人。古人有言曰非所怨勿怨寡人怨矣。対曰:臣知罪矣。臣不佞。不能負羈絏以従扞牧圉。臣之罪一也。有出者。有居者。臣不能貳。通外内之言以事君。臣之罪二也。有二罪。敢忘其死。乃行。従近関出。公使止之。衛人侵戚東鄙。孫氏愬于晋。晋戍茅氏。殖綽伐茅氏。殺晋戍三百人。孫蒯追之。弗敢撃。文子曰:厲之不如。遂従衛師。敗之圉。雍鉏獲殖綽。復愬于晋。
書き下し
二月庚寅、甯喜・右宰穀孫氏を伐つ。克たず。伯國傷つく。甯子出でて郊に舍る。伯國死す。孫氏夜哭す。國人甯子を召す。甯子復た孫氏を攻め、之に克つ。辛卯、子叔及び大子角を殺す。書して「甯喜其の君剽を弒す」と曰ふは、罪の甯氏に在るを言ふなり。孫林父戚を以て晉に如く。書して「戚に入りて以て叛く」と曰ふは、孫氏を罪するなり。臣の祿は、君實に之を有す。義なれば則ち進み、否なれば則ち身を奉じて退く。祿を專らにして以て周旋するは、戮なり。甲午、衛侯入る。書して「國に復歸す」と曰ふは、之を納るればなり。大夫の竟に逆ふる者は、其の手を執りて之と言ふ。道に逆ふる者は、車よりして之に揖す。門に逆ふる者は、之に頷くのみ。公至り、大叔文子を讓めしむ。曰く、「寡人外に淹恤す。二三子皆寡人をして朝夕衛國の言を聞かしむ。吾子獨り寡人に在らず。古人言へること有り、曰く『怨む所に非ずんば怨むこと勿かれ』と。寡人怨めり」と。對へて曰く、「臣罪を知れり。臣不佞にして、羈絏を負ひて以て從ひ、牧圉を扞る能はず。臣の罪一なり。出づる者有り、居る者有り。臣貳して外內の言を通じ以て君に事ふる能はず。臣の罪二なり。二罪有り、敢へて其の死を忘れんや」と。乃ち行き、近關より出づ。公之を止めしむ。衛人戚の東鄙を侵す。孫氏晉に愬ふ。晉茅氏に戍る。殖綽茅氏を伐ち、晉の戍三百人を殺す。孫蒯之を追ふも、敢へて擊たず。文子曰く、「厲にも之れ如かず」と。遂に衛の師に從ひ、之を圉に敗る。雍鉏殖綽を獲たり。復た晉に愬ふ。
現代語訳
二月庚寅の日、甯喜と右宰穀が孫氏を攻めたが、勝てなかった。伯国(孫襄)が傷を負った。甯子(甯喜)は都を出て郊外に宿営した。伯国が死んだ。孫氏の屋敷では夜に哭泣の声があがった。国人たちは(孫氏が弱ったと見て)甯子を呼び戻した。甯子はふたたび孫氏を攻め、これに勝った。辛卯の日、子叔(衛の殤公、名は剽)と太子の角を殺した。『春秋』が「甯喜がその君剽を弒した」と記したのは、罪が甯氏にあることを言うためである。孫林父は戚の邑ごと晋に帰属した。『春秋』が「戚に入って叛いた」と記したのは、孫氏を罪とするためである。臣下の禄は、本来は君主が所有するものである。道義にかなえば進んで仕え、かなわなければ身ひとつで退く。禄として与えられた土地を自分のものにして、それを取引の材料にするのは、死罪にあたる。甲午の日、衛侯(献公)が国に入った。『春秋』が「国に復帰した」と記したのは、国人が迎え入れたからである。国境まで出迎えた大夫には、献公はその手を取って言葉を交わした。道の途中で出迎えた者には、車上から会釈した。城門で出迎えた者には、うなずくだけだった。献公は都に着くと、人をやって大叔文子(大叔儀)を責めさせた。「私は国外で苦労していた。ほかの者たちは皆、朝夕に衛国の様子を私に伝えてくれた。あなただけは私を気にかけなかった。古人の言葉に『恨むべきでないことは恨むな』とあるが、私は恨んでいる」。文子は答えた。「私は自分の罪を承知しております。私は才なく、馬の手綱を背負って君のお供をし、君の牧や馬屋を守ることができませんでした。これが第一の罪です。国を出られた君と国に残った君とがあったのに、私は二心をもって国の内外に通じて君にお仕えすることができませんでした。これが第二の罪です。二つの罪がある以上、どうして死を忘れましょうか」。そして国を出ようとし、最も近い関所から出た。献公は人をやって引き止めさせた。衛の人々が戚の東の辺境を侵した。孫氏は晋に訴えた。晋は茅氏の地に守備兵を置いた。殖綽が茅氏を攻め、晋の守備兵三百人を殺した。孫蒯(孫林父の子)はこれを追ったが、あえて攻撃しなかった。文子(孫林父)は言った。「おまえは悪鬼にも及ばない」。孫蒯はそこで衛の軍を追って圉で破り、雍鉏が殖綽を捕らえた。孫氏はまた晋に訴えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 政は甯氏、祭は寡人衛の獻公、子鮮をして復を為さしめんとす。辭す。敬姒強ひて之に命ず。對へて曰く、「君信無し。臣免れざるを懼る」と。敬姒曰く、「然りと雖も、吾が故を以てせよ」と。許諾す。初め、獻公甯喜と言はしむ。甯喜曰く、「必ず子鮮在れ。然らずんば必ず敗れん」と。故に公子鮮を使はす。子鮮命を敬姒に獲ず、公の命を以て甯喜と言ひて曰く、「苟くも反らば、政は甯氏に由り、祭は則ち寡人」と。甯喜蘧伯玉に告ぐ。伯玉曰く、「瑗は君の出づるを聞くを得ず、敢へて其の入るを聞かんや」と。遂に行き、近關より出づ。右宰穀に告ぐ。右宰穀曰く、「不可なり。罪を兩君に獲ば、天下誰か之を畜はん」と。悼子曰く、「吾命を先人に受く。以て貳すべからず」と。穀曰く、「我請ふ使ひして之を觀ん」と。遂に公に夷儀に見ゆ。反りて曰く、「君外に淹恤すること十二年なり。而も憂色無く、亦た寬言無し。猶ほ夫の人なり。若し已めずんば、死するに日無からん」と。悼子曰く、「子鮮在り」と。右宰穀曰く、「子鮮在るも何の益かあらん。多くとも能く亡げんのみ。我に於いて何をか為さん」と。悼子曰く、「然りと雖も、以て已むべからず」と。孫文子戚に在り。孫嘉齊に聘し、孫襄居守す。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 衛侯、晋に囚わる六月、公晉の趙武・宋の向戌・鄭の良霄・曹人と澶淵に會し、以て衛を討ち、戚の田を疆し、衛の西鄙懿氏六十を取りて、以て孫氏に與ふ。趙武書せざるは、公を尊ぶなり。向戌書せざるは、後るればなり。鄭宋に先んずるは、所を失はざればなり。是に於いて衛侯之に會す。晉人寧喜・北宮遺を執へ、女齊をして以て先づ歸らしむ。衛侯晉に如く。晉人執へて之を士弱氏に囚ふ。秋、七月、齊侯・鄭伯、衛侯の故の為に晉に如く。晉侯兼ねて之を享す。晉侯嘉樂を賦す。國景子齊侯に相として蓼蕭を賦す。子展鄭伯に相として緇衣を賦す。叔向晉侯に命じて二君を拜せしめて曰く、「寡君敢へて齊君の我が先君の宗祧を安んずるを拜す。敢へて鄭君の貳せざるを拜す」と。國子晏平仲をして叔向に私せしむ。
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史記 衛康叔世家二子之に従ふ。公射服を釈かずして之と言ふ。二子怒り、宿に如く。孫文子の子数々公に侍りて飲む。師曹をして巧言の卒章を歌はしむ。師曹又公の嘗て笞うつこと三百なりしを怒り、乃ち之を歌ひ、以て孫文子を怒らしめ、衛の献公に報いんと欲す。文子蘧伯玉に語る。伯玉曰く、「臣知らざるなり」と。遂に攻めて献公を出す。献公斉に奔る。斉衛の献公を聚邑に置く。孫文子・甯恵子共に定公の弟秋を立てて衛君と為す。是を殤公と為す。殤公秋立ち、孫文子林父を宿に封ず。十二年、甯喜孫林父と寵を争ひて相悪む。殤公甯喜をして孫林父を攻めしむ。林父晋に奔り、復た故の衛の献公を入れんことを求む。献公斉に在り、斉の景公之を聞き、衛の献公と晋に如きて入らんことを求む。晋為に衛を伐ち、誘ひて与に盟ふ。衛の殤公晋の平公に会す。平公殤公と甯喜とを執へて復た衛の献公を入る。献公亡げて外に在ること十二年にして入る。献公の後の元年、甯喜を誅す。三年、呉の延陵季子使ひして衛を過ぎ、蘧伯玉・史(史鰌)を見て曰く、「衛は君子多し。其の国故無からん」と。宿を過ぐ。孫林父為に磬を撃つ。曰く、「楽しからず。音大いに悲し。衛をして乱れしむるは乃ち此なり」と。是の年、献公卒し、子の襄公悪立つ。襄公の六年、楚の霊王諸侯を会す。襄公病と称して往かず。九年、襄公卒す。初め、襄公に賤妾有り、之を幸し、身有り。夢に人有りて謂ひて曰く、「我は康叔なり。若が子をして必ず衛を有たしめん。而の子に名づけて元と曰へ」と。妾之を怪しみ、孔成子に問ふ。成子曰く、「康叔は衛の祖なり」と。子を生むに及びて、男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり」と。之に名づけて元と曰ふ。襄公の夫人子無し。是に於て乃ち元を立てて嗣と為す。是を霊公と為す。四十二年春、霊公郊に游び、子郢をして仆たらしむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。
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『春秋左氏伝』哀公二十六年 縦にして其の罪を盈たしめよ二十六年夏五月、叔孫舒、師を帥ゐて越の皋如・后庸、宋の樂茷に會し、衛侯を納れんとす。文子、之を納れんと欲す。懿子曰く、「君は愎にして虐なり。少しく之を待て。必ず民に毒せん。乃ち子に睦まん」と。師、外州を侵し、大いに獲。出でて之を禦ぎ、大いに敗る。褚師定子の墓を掘り、之を平莊の上に焚く。文子、王孫齊をして皋如に私せしめて曰く、「子、將に大いに衛を滅ぼさんとするか。抑も君を納るるのみか」と。皋如曰く、「寡君の命は他無し。衛君を納るるのみ」と。文子、衆を致して焉に問ひて曰く、「君、蠻夷を以て國を伐つ。國幾ど亡びんとす。請ふ、之を納れん」と。衆曰く、「納るること勿かれ」と。曰く、「彌牟亡びて益有らば、請ふ、北門より出でん」と。衆曰く、「出づること勿かれ」と。重く越人に賂し、申ねて開き陴を守りて公を納る。公、敢へて入らず。師還る。悼公を立つ。南氏之に相たり。城鉏を以て越人に與ふ。公曰く、「期則ち此を為す」と。苟も夫人に怨み有る者をして之に報いしむ。司徒期、越に聘す。公、攻めて其の幣を奪ふ。期、王に告ぐ。王、之を取らしむ。期、衆を以て之を取る。公怒りて、期の甥の大子為る者を殺す。遂に越に卒す。宋の景公、子無し。公孫周の子得と啟とを取りて、諸を公宮に畜ふ。未だ立つること有らず。是に於て皇緩は右師為り、皇非我は大司馬為り、皇懷は司徒為り、靈不緩は左師為り、樂茷は司城為り、樂朱鉏は大司寇為り。六卿三族、降りて政を聽き、大尹に因りて以て達す。大尹常に告げずして、其の欲を以て、君命と稱して以て令す。國人之を惡む。司城、大尹を去らんと欲す。左師曰く、「之を縱にして、其の罪を盈たしめよ。重くして基無し。能く敝るること無からんや」と。
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 子鮮、終身仕えず夏、免餘復た甯氏を攻め、甯喜及び右宰穀を殺し、諸を朝に尸す。石惡將に宋の盟に會せんとし、命を受けて出づ。其の尸に衣せ、之を股に枕して之を哭す。斂めて以て亡げんと欲するも、免れざるを懼れ、且つ曰く、「命を受けたり」と。乃ち行く。子鮮曰く、「我を逐ふ者は出で、我を納るる者は死す。賞罰章無くんば、何を以て沮勸せん。君其の信を失ひて、國に刑無し。亦た難からずや。且つ鱄實に之を使へり」と。遂に出でて晉に奔る。公之を止めしむ。可かず。河に及び、又之を止めしむ。使者を止めて河に盟ふ。木門に託し、衛國に鄉ひて坐せず。木門の大夫之に仕へんことを勸む。可かず。曰く、「仕へて其の事を廢するは、罪なり。之に從はば、吾が出づる所以を昭らかにせん。將に誰にか愬へんとす。吾以て人の朝に立つべからず」と。終身仕へず。公之を喪すること、稅服の如くして身を終ふ。公免餘に邑六十を與ふ。辭して曰く、「唯だ卿は百邑を備ふ。臣は六十なり。下にして上の祿有るは、亂なり。臣敢へて聞かず。
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『春秋左氏伝』僖公二十八年 宛濮の盟六月、晉人衛侯を復す。甯武子衛人と宛濮に盟ひて曰く、「天衛國に禍し、君臣協はず、以って此の憂ひに及ぶなり。今天其の衷を誘(みちび)き、皆心を降して以って相從はしむるなり。居る者有らずんば、誰か社稷を守らん。行く者有らずんば、誰か牧圉(ぼくぎょ)を扞(まも)らん。協はざるの故に、用って昭らかに盟を爾大神に乞ひて以って天の衷を誘く。今日より以往、既に盟ふの後、行く者は其の力を保むこと無く、居る者は其の罪を懼るること無かれ。此の盟を渝ふること有らば、以って相及ぼさん。明神先君、是れ糾し是れ殛せん」と。國人此の盟を聞きて、而る後に貳せず。衛侯期に先だちて入る。甯子先んず。長牂(ちょうそう)門を守り、以って使と為して、之と乘りて入る。公子歂犬(せんけん)・華仲前驅す。叔孫將に沐せんとし、君至ると聞き、喜びて髮を捉りて走り出づ。前驅射て之を殺す。公其の罪無きを知るなり、之を股に枕せしめて之を哭す。歂犬走り出づ。公之を殺さしむ。元咺出でて晉に奔る。城濮の戰ひに、晉の中軍澤に風(はし)り、大旆(たいはい)の左旃(させん)を亡ふ。祁瞞命を奸(をか)す。司馬之を殺し、以って諸侯に徇ふ。茅茷(ぼうはい)をして之に代はらしむ。師還る。壬午、河を濟る。舟之僑先に歸る。士會右を攝す。
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