春秋左氏伝 / 襄公二十五年 挙棋不定
衛獻公自夷儀使與甯喜言。甯喜許之。大叔文子聞之曰。烏呼。詩所謂我躬不說。皇恤我後者。甯子可謂不恤其後矣。將可乎哉。殆必不可。君子之行。思其終也。思其復也。書曰。慎始而敬終。終以不困。詩曰。夙夜匪解。以事一人。今甯子視君。不如弈棋。其何以免乎。弈者舉棋不定。不勝其耦。而況置君。而弗定乎。必不免矣。九世之卿族。一舉而滅之。可哀也哉。傳會于夷儀之歲。齊人城郟。其五月。秦晉為成。晉韓起如秦蒞盟。秦伯車如晉蒞盟。成而不結。
新字:衛献公自夷儀使与甯喜言。甯喜許之。大叔文子聞之曰。烏呼。詩所謂我躬不説。皇恤我後者。甯子可謂不恤其後矣。将可乎哉。殆必不可。君子之行。思其終也。思其復也。書曰。慎始而敬終。終以不困。詩曰。夙夜匪解。以事一人。今甯子視君。不如弈棋。其何以免乎。弈者舉棋不定。不勝其耦。而況置君。而弗定乎。必不免矣。九世之卿族。一舉而滅之。可哀也哉。伝会于夷儀之歳。斉人城郟。其五月。秦晋為成。晋韓起如秦莅盟。秦伯車如晋莅盟。成而不結。
書き下し
衛の獻公夷儀より甯喜と言はしむ。甯喜之を許す。大叔文子之を聞きて曰く、「烏呼、詩に所謂『我が躬すら說ばれず、皇あらんや我が後を恤ふるに』といふ者、甯子は其の後を恤へずと謂ふべし。將た可ならんや。殆ど必ず不可なり。君子の行ひは、其の終はりを思ひ、其の復びするを思ふ。書に曰く、『始めを慎みて終はりを敬めば、終に以て困しまず』と。詩に曰く、『夙夜解らず、以て一人に事ふ』と。今甯子君を視ること、弈棋に如かず。其れ何を以てか免れんや。弈者棋を舉げて定めざれば、其の耦に勝たず。而るを況んや君を置きて定めざるをや。必ず免れざらん。九世の卿族、一舉にして之を滅ぼす。哀しむべきかな」と。傳に、夷儀に會するの歲、齊人郟に城く。其の五月、秦・晉成を為す。晉の韓起秦に如きて盟に蒞み、秦の伯車晉に如きて盟に蒞む。成りて結ばず。
現代語訳
衛の献公(国を追われて夷儀にいた)は、夷儀から使いを出して甯喜(悼子、衛の卿)に帰国の話をもちかけさせた。甯喜はこれを承知した。大叔文子(大叔儀、衛の大夫)はそれを聞いて言った。「ああ、『詩経』にいう『わが身さえ受け入れられないのに、どうして後のことまで気づかう暇があろうか』とは、まさに甯子のことだ。甯子は自分の後のことを考えていないと言うべきだ。これでうまくいくだろうか。ほとんど必ず、うまくいかないだろう。君子の行いは、その結末を考え、それを繰り返せるかどうかを考えるものだ。『書経』に『始めを慎み、終わりを敬えば、最後まで困ることはない』とある。『詩経』に『朝早くから夜遅くまで怠らず、ひとりの君に仕える』とある。ところが今、甯子は君主を扱うことが、碁を打つよりもいい加減だ。どうして災いを免れようか。碁を打つ者でも、石を持ったまま打つ場所を決められなければ、相手に勝てない。まして君主を立てるのに、心を定めずにいてよいはずがない。必ず災いを免れないだろう。九代続いた卿の家を、一挙に滅ぼすことになる。なんと哀れなことか」。(伝)夷儀で諸侯が会合した年(襄公二十四年)、斉の人々は郟に城を築いた。その年の五月、秦と晋が和睦を図った。晋の韓起(韓宣子)が秦に行って盟約に臨み、秦の伯車(秦伯の弟)が晋に来て盟約に臨んだ。しかし和睦は形だけ成って、固い結びつきにはならなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 政は甯氏、祭は寡人衛の獻公、子鮮をして復を為さしめんとす。辭す。敬姒強ひて之に命ず。對へて曰く、「君信無し。臣免れざるを懼る」と。敬姒曰く、「然りと雖も、吾が故を以てせよ」と。許諾す。初め、獻公甯喜と言はしむ。甯喜曰く、「必ず子鮮在れ。然らずんば必ず敗れん」と。故に公子鮮を使はす。子鮮命を敬姒に獲ず、公の命を以て甯喜と言ひて曰く、「苟くも反らば、政は甯氏に由り、祭は則ち寡人」と。甯喜蘧伯玉に告ぐ。伯玉曰く、「瑗は君の出づるを聞くを得ず、敢へて其の入るを聞かんや」と。遂に行き、近關より出づ。右宰穀に告ぐ。右宰穀曰く、「不可なり。罪を兩君に獲ば、天下誰か之を畜はん」と。悼子曰く、「吾命を先人に受く。以て貳すべからず」と。穀曰く、「我請ふ使ひして之を觀ん」と。遂に公に夷儀に見ゆ。反りて曰く、「君外に淹恤すること十二年なり。而も憂色無く、亦た寬言無し。猶ほ夫の人なり。若し已めずんば、死するに日無からん」と。悼子曰く、「子鮮在り」と。右宰穀曰く、「子鮮在るも何の益かあらん。多くとも能く亡げんのみ。我に於いて何をか為さん」と。悼子曰く、「然りと雖も、以て已むべからず」と。孫文子戚に在り。孫嘉齊に聘し、孫襄居守す。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 衛献公の復帰二月庚寅、甯喜・右宰穀孫氏を伐つ。克たず。伯國傷つく。甯子出でて郊に舍る。伯國死す。孫氏夜哭す。國人甯子を召す。甯子復た孫氏を攻め、之に克つ。辛卯、子叔及び大子角を殺す。書して「甯喜其の君剽を弒す」と曰ふは、罪の甯氏に在るを言ふなり。孫林父戚を以て晉に如く。書して「戚に入りて以て叛く」と曰ふは、孫氏を罪するなり。臣の祿は、君實に之を有す。義なれば則ち進み、否なれば則ち身を奉じて退く。祿を專らにして以て周旋するは、戮なり。甲午、衛侯入る。書して「國に復歸す」と曰ふは、之を納るればなり。大夫の竟に逆ふる者は、其の手を執りて之と言ふ。道に逆ふる者は、車よりして之に揖す。門に逆ふる者は、之に頷くのみ。公至り、大叔文子を讓めしむ。曰く、「寡人外に淹恤す。二三子皆寡人をして朝夕衛國の言を聞かしむ。吾子獨り寡人に在らず。古人言へること有り、曰く『怨む所に非ずんば怨むこと勿かれ』と。寡人怨めり」と。對へて曰く、「臣罪を知れり。臣不佞にして、羈絏を負ひて以て從ひ、牧圉を扞る能はず。臣の罪一なり。出づる者有り、居る者有り。臣貳して外內の言を通じ以て君に事ふる能はず。臣の罪二なり。二罪有り、敢へて其の死を忘れんや」と。乃ち行き、近關より出づ。公之を止めしむ。衛人戚の東鄙を侵す。孫氏晉に愬ふ。晉茅氏に戍る。殖綽茅氏を伐ち、晉の戍三百人を殺す。孫蒯之を追ふも、敢へて擊たず。文子曰く、「厲にも之れ如かず」と。遂に衛の師に從ひ、之を圉に敗る。雍鉏殖綽を獲たり。復た晉に愬ふ。
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『春秋左氏伝』僖公九年・十年 唯だ則、国を定む齊侯諸侯の師を以て晉を伐ち、高梁に及びて還る、晉の亂を討つなり。令魯に及ばず、故に書せず。晉の郤芮夷吾をして重く秦に賂ひて以て入らんことを求めしめて曰く、「人實に國を有つ、我何ぞ愛まん。入りて能く民あらば、土於て何か有らん」と。之に從ふ。齊の隰朋師を帥ゐて秦の師に會し、晉の惠公を納る。秦伯郤芮に謂ひて曰く、「公子は誰をか恃む」と。對へて曰く、「臣聞く、亡人は黨無し、黨有らば必ず讎有り、と。夷吾は弱くして弄を好まず、能く鬥ひて過ぎず、長じても亦た改めず、其の他を識らず」と。公公孫枝に謂ひて曰く、「夷吾其れ定まらんか」と。對へて曰く、「臣之を聞く、唯だ則のみ國を定む、と。《詩》に曰く、『識らず知らず、帝の則に順ふ』とは、文王の謂なり。又曰く、『僭らず賊はず、則と為らざるは鮮し』とは、好無く惡無く、忌まず克たざるの謂なり。今其の言忌克多し、難いかな」と。公曰く、「忌めば則ち怨多し、又焉んぞ能く克たん。是れ吾が利なり」と。宋の襄公位に即き、公子目夷を以て仁と為し、左師と為して以て政を聽かしむ、是に於いて宋治まる。故に魚氏世々左師と為る。十年春、狄溫を滅ぼす、蘇子信無ければなり。蘇子王に叛きて狄に即き、又狄に能くせず、狄人之を伐つ、王救はず、故に滅ぶ。蘇子衛に奔る。
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『春秋左氏伝』僖公二十五年 勤王の計二十五年春、衛人邢を伐つ。二禮國子に從ひて城を巡り、掖へて以て外に赴き、之を殺す。正月、丙午。衛侯燬邢を滅ぼす。同姓なり、故に名いふ。禮至銘を為りて曰く、「余國子を掖へて殺す、余を敢へて止むる莫し」と。秦伯河上に師し、將に王を納れんとす。狐偃晉侯に言ひて曰く、「諸侯を求むるは王に勤むるに如くは莫し。諸侯之を信じ、且つ大義なり。文の業を繼ぎて、信諸侯に宣ぶるは、今可と為す」と。卜偃をして之を卜せしむ、曰く、「吉なり。黃帝阪泉に戰ふの兆に遇ふ」と。公曰く、「吾堪へざるなり」と。對へて曰く、「周禮未だ改まらず、今の王は、古の帝なり」と。公曰く、「之を筮せよ」と。之を筮して、大有の睽に之くに遇ふ、曰く、「吉なり。公用て天子に享せらるるの卦に遇ふなり。戰ひて克ちて王饗す、吉孰れか大ならん。且つ是の卦や、天澤と為りて以て日に當たる、天子心を降して以て公を逆ふ、亦た可ならずや。大有睽を去りて復る、亦た其の所なり」と。晉侯秦の師を辭して下る。三月、甲辰。陽樊に次る。右師溫を圍み、左師王を逆ふ。夏、四月、丁巳。王王城に入り、大叔を溫に取り、之を隰城に殺す。
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 子鮮、終身仕えず夏、免餘復た甯氏を攻め、甯喜及び右宰穀を殺し、諸を朝に尸す。石惡將に宋の盟に會せんとし、命を受けて出づ。其の尸に衣せ、之を股に枕して之を哭す。斂めて以て亡げんと欲するも、免れざるを懼れ、且つ曰く、「命を受けたり」と。乃ち行く。子鮮曰く、「我を逐ふ者は出で、我を納るる者は死す。賞罰章無くんば、何を以て沮勸せん。君其の信を失ひて、國に刑無し。亦た難からずや。且つ鱄實に之を使へり」と。遂に出でて晉に奔る。公之を止めしむ。可かず。河に及び、又之を止めしむ。使者を止めて河に盟ふ。木門に託し、衛國に鄉ひて坐せず。木門の大夫之に仕へんことを勸む。可かず。曰く、「仕へて其の事を廢するは、罪なり。之に從はば、吾が出づる所以を昭らかにせん。將に誰にか愬へんとす。吾以て人の朝に立つべからず」と。終身仕へず。公之を喪すること、稅服の如くして身を終ふ。公免餘に邑六十を與ふ。辭して曰く、「唯だ卿は百邑を備ふ。臣は六十なり。下にして上の祿有るは、亂なり。臣敢へて聞かず。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 衛侯、晋に囚わる六月、公晉の趙武・宋の向戌・鄭の良霄・曹人と澶淵に會し、以て衛を討ち、戚の田を疆し、衛の西鄙懿氏六十を取りて、以て孫氏に與ふ。趙武書せざるは、公を尊ぶなり。向戌書せざるは、後るればなり。鄭宋に先んずるは、所を失はざればなり。是に於いて衛侯之に會す。晉人寧喜・北宮遺を執へ、女齊をして以て先づ歸らしむ。衛侯晉に如く。晉人執へて之を士弱氏に囚ふ。秋、七月、齊侯・鄭伯、衛侯の故の為に晉に如く。晉侯兼ねて之を享す。晉侯嘉樂を賦す。國景子齊侯に相として蓼蕭を賦す。子展鄭伯に相として緇衣を賦す。叔向晉侯に命じて二君を拜せしめて曰く、「寡君敢へて齊君の我が先君の宗祧を安んずるを拜す。敢へて鄭君の貳せざるを拜す」と。國子晏平仲をして叔向に私せしむ。
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