春秋左氏伝 / 襄公二十五年 言之無文、行而不遠
啟敝邑之心。陳知其罪。授手于我。用敢獻功。晉人曰。何故侵小。對曰。先王之命。唯罪所在。各致其辟。且昔天子之地一圻。列國一同。自是以衰。今大國多數圻矣。若無侵小。何以至焉。晉人曰。何故戎服。對曰。我先君武莊為平桓卿士。城濮之役。文公布命曰。各復舊職。命我文公。戎服輔王。以授楚捷。不敢廢王命故也。士莊伯不能詰。復於趙文子。文子曰。其辭順。犯順不祥。乃受之。冬。十月。子展相鄭伯如晉。拜陳之功。子西復伐陳。陳及鄭平。仲尼曰。志有之。言以足志。文以足言。不言誰知其志。言之無文。行而不遠。晉為伯鄭入陳。非文辭不為功。慎辭也。
新字:啓敝邑之心。陳知其罪。授手于我。用敢献功。晋人曰。何故侵小。対曰。先王之命。唯罪所在。各致其辟。且昔天子之地一圻。列国一同。自是以衰。今大国多数圻矣。若無侵小。何以至焉。晋人曰。何故戎服。対曰。我先君武荘為平桓卿士。城濮之役。文公布命曰。各復旧職。命我文公。戎服輔王。以授楚捷。不敢廃王命故也。士荘伯不能詰。復於趙文子。文子曰。其辞順。犯順不祥。乃受之。冬。十月。子展相鄭伯如晋。拝陳之功。子西復伐陳。陳及鄭平。仲尼曰。志有之。言以足志。文以足言。不言誰知其志。言之無文。行而不遠。晋為伯鄭入陳。非文辞不為功。慎辞也。
書き下し
敝邑の心を啟く。陳其の罪を知り、手を我に授く。用て敢へて功を獻ず」と。晉人曰く、「何の故に小を侵す」と。對へて曰く、「先王の命に、唯だ罪の在る所、各〻其の辟を致す、と。且つ昔、天子の地は一圻、列國は一同。是れより以て衰ふ。今大國は多く數圻なり。若し小を侵すこと無くんば、何を以て焉に至らん」と。晉人曰く、「何の故に戎服する」と。對へて曰く、「我が先君武・莊は平・桓の卿士為り。城濮の役に、文公命を布きて曰く、『各〻舊職に復せよ』と。我が文公に命じて、戎服して王を輔け、以て楚の捷を授けしむ。敢へて王命を廢せざるが故なり」と。士莊伯詰る能はず、趙文子に復す。文子曰く、「其の辭順なり。順を犯すは不祥なり」と。乃ち之を受く。冬、十月、子展鄭伯に相として晉に如き、陳の功を拜す。子西復た陳を伐つ。陳鄭と平らぐ。仲尼曰く、「志に之有り、『言以て志を足し、文以て言を足す』と。言はずんば誰か其の志を知らん。言の文無きは、行はれて遠からず。晉伯と為り、鄭陳に入る。文辭に非ずんば功を為さず。辭を慎めばなり」と。
現代語訳
わが国の心を開いてくださいました。陳は自分の罪を悟り、わが国に降伏しました。そこで、あえてその戦果を献上する次第です」。晋の人が言った。「なぜ小国を侵したのか」。子産は答えた。「先王の定めでは、罪のあるところには、それぞれその罰を加えるとされています。それに昔、天子の領地は一圻(千里四方)、諸侯の国は一同(百里四方)でした。それ以来、制度は衰え、今では大国の多くが数圻の広さをもっています。もし小国を侵したことがないのなら、どうしてそこまで大きくなれたでしょうか」。晋の人が言った。「なぜ軍服を着ているのか」。子産は答えた。「わが先君の武公・荘公は、周の平王・桓王の卿士(執政)でした。城濮の戦いのとき、晋の文公は命令を発して『それぞれ元の職務に戻れ』と言われ、わが文公に、軍服を着て周王を補佐し、楚から得た戦利品を王に献上する役を命じられました。王の命令をおろそかにできないので、こうして軍服を着ているのです」。士荘伯(晋の役人)は言い返すことができず、趙文子(趙武)に報告した。文子は「その言葉は筋が通っている。筋の通った者に逆らうのは不吉だ」と言い、戦果の献上を受け入れた。冬十月、子展が鄭伯(簡公)の補佐として晋に行き、陳を討った功を認めてもらった礼を述べた。子西がふたたび陳を攻め、陳は鄭と和睦した。仲尼(孔子)は言った。「古い書物に『言葉によって思いを十分に表し、文(あや)によって言葉を十分に整える』とある。言わなければ、誰がその思いを知ろうか。言葉に文がなければ、遠くまでは届かない。晋が覇者であるときに鄭が陳に攻め入ったのだから、言葉の力がなければ功とは認められなかった。言葉を慎んで選んだからこそである」。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
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説苑・奉使齊魯を攻む。子貢哀公に見え、吳に救いを求めんことを請う。公曰く、「奚ぞ先君の寶を用いんや。」子貢曰く、「吳をして寶を責めて我に師を與えしむれば、是れ恃むべからざるなり。」是に於て楊幹麻筋の弓六を以て往く。子貢吳王に謂いて曰く、「齊無道を爲し、周公の後をして血食せざらしめんと欲す。且つ魯の賦五百、邾の賦三百なり。識らず此を以て齊を益せば、吳の利ならんか、非ならんか。」吳王懼れ、乃ち師を興して魯を救う。諸侯曰く、「齊周公の後を伐つに、吳之を救う。」遂に吳に朝す。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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