春秋左氏伝 / 襄公二十五年 鄭、陳に入る
初。陳侯會楚子伐鄭。當陳隧者。井堙木刊。鄭人怨之。六月。鄭子展。子產。帥車七百乘伐陳。宵突陳城。遂入之。陳侯扶其大子偃師奔墓。遇司馬桓子曰。載余。曰將巡城。遇賈獲載其母妻。下之而授公車。公曰。舍而母。辭曰。不祥。與其妻扶其母以奔墓。亦免。子展命師無入公宮。與子產親御諸門。陳侯使司馬桓子賂以宗器。陳侯免。擁社。使其眾男女別而纍。以待於朝。子展執縶而見。再拜稽首。承飲而進獻。子美入。數俘而出。祝祓社。司徒致民。司馬致節。司空致地。乃還。
新字:初。陳侯会楚子伐鄭。当陳隧者。井堙木刊。鄭人怨之。六月。鄭子展。子産。帥車七百乗伐陳。宵突陳城。遂入之。陳侯扶其大子偃師奔墓。遇司馬桓子曰。載余。曰将巡城。遇賈獲載其母妻。下之而授公車。公曰。舎而母。辞曰。不祥。与其妻扶其母以奔墓。亦免。子展命師無入公宮。与子産親御諸門。陳侯使司馬桓子賂以宗器。陳侯免。擁社。使其衆男女別而纍。以待於朝。子展執縶而見。再拝稽首。承飲而進献。子美入。数俘而出。祝祓社。司徒致民。司馬致節。司空致地。乃還。
書き下し
初め、陳侯楚子に會して鄭を伐つ。陳の隧に當たる者、井堙がれ木刊らる。鄭人之を怨む。六月、鄭の子展・子產、車七百乘を帥ゐて陳を伐つ。宵に陳の城を突き、遂に之に入る。陳侯其の大子偃師を扶けて墓に奔る。司馬桓子に遇ひて曰く、「余を載せよ」と。曰く、「將に城を巡らんとす」と。賈獲の其の母・妻を載するに遇ふ。之を下ろして公に車を授く。公曰く、「而の母を舍け」と。辭して曰く、「不祥なり」と。其の妻と其の母を扶けて以て墓に奔り、亦た免る。子展、師に命じて公宮に入ること無からしめ、子產と親ら諸を門に御す。陳侯、司馬桓子をして賂ふに宗器を以てせしむ。陳侯免して社を擁し、其の眾の男女をして別れて纍がしめ、以て朝に待つ。子展縶を執りて見え、再拜稽首し、飲を承けて進獻す。子美入り、俘を數へて出づ。祝、社を祓ひ、司徒民を致し、司馬節を致し、司空地を致す。乃ち還る。
現代語訳
これより先、陳侯は楚子(楚の康王)と会して鄭を攻めた。陳の軍が通った道筋では、鄭の井戸は埋められ、木は切り倒された。鄭の人々はこれを恨んでいた。六月、鄭の子展(公孫舎之、鄭の上卿)と子産(公孫僑)が兵車七百乗を率いて陳を攻めた。夜のうちに陳の城を突き、そのまま城内に攻め入った。陳侯(哀公)は太子偃師を助けながら墓地へ逃げた。途中で司馬桓子に出会い、「私を車に乗せてくれ」と言った。桓子は「これから城を見回るところです」と言って断った。次に賈獲が母と妻を車に乗せているのに出会った。賈獲は母と妻を車から降ろし、車を陳侯に差し出した。陳侯は「おまえの母はそのまま乗せておけ」と言った。賈獲は辞退して「(女性が君主と同乗するのは)不吉です」と言い、妻とともに母を助けて墓地へ逃げ、彼らもまた難を免れた。子展は軍に命じて公宮に入らせず、子産とともに自ら宮門を守った。陳侯は司馬桓子に命じて、宗廟の祭器を贈って和を請わせた。陳侯は喪の冠をつけて社の神主を抱き、民の男女を分けて縄でつながせ、朝廷で待った。子展は縄を手に取って陳侯に会い、再拝稽首して、杯を捧げて進め献じた(臣下が君主に対する礼をとった)。子美(子産)が入って捕虜の数を数えて出た。祝官は社をはらい清め、司徒は民の戸籍を、司馬は兵権のしるしを、司空は土地の帳簿を、それぞれ陳に返し渡した。こうして鄭軍は引き揚げた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』僖公三十年 周公閲、備物の饗を辞す初め、鄭の公子蘭出でて晉に奔り、晉侯に從ひて鄭を伐つ。鄭を圍むに與ること無からんことを請ふ。之を許し、命を東に待たしむ。鄭の石甲父・侯宣多逆へて以って大子と為し、以って成を晉に求む。晉人之を許す。冬、王周公閱をして來聘せしむ。饗に昌歜(しゃうさん)・白・黑・形鹽有り。辭して曰く、「國君は、文は以って昭らかにするに足り、武は畏る可きなり。則ち備物の饗有りて、以って其の德に象る。五味を薦め、嘉穀を羞(すす)め、鹽は虎の形にして、以って其の功を獻ず。吾何を以ってか之に堪へん」と。東門襄仲將に周に聘せんとし、遂に初めて晉に聘す。
-
『春秋左氏伝』昭公二十五年 礼は天地の経緯昏媾・姻亞を為りて、以って天明に象る。政事・庸力・行務を為りて、以って四時に從ふ。刑罰・威獄を為りて、民をして畏忌せしめ、以って其の震曜殺戮に類す。溫・慈・惠・和を為りて、以って天の生殖長育に效ふ。民に好惡喜怒哀樂有り、六气より生ず。是の故に審らかに宜しく類して、以って六志を制す。哀に哭泣有り、樂に謌舞有り、喜に施舍有り、怒に戰鬥有り。喜は好より生じ、怒は惡より生ず。是の故に行ひを審らかにし令を信にし、禍福賞罰、以って死生を制す。生は好む物なり。死は惡む物なり。好む物は樂なり、惡む物は哀なり。哀樂失はざれば、乃ち能く天地の性に協ふ。是を以って長久なり」と。簡子曰く、「甚だしいかな禮の大なるや」と。對へて曰く、「禮は上下の紀、天地の經緯なり、民の生くる所以なり。是を以って先王之を尚ぶ。故に人の能く自ら曲直して以って禮に赴く者、之を成人と謂ふ。大なること亦た宜ならずや」と。簡子曰く、「鞅や、請ふ身を終ふるまで此の言を守らん」と。
-
『春秋左氏伝』僖公九年 葵丘の会九年春、宋の桓公卒す。未だ葬らずして、襄公諸侯に會す、故に「子」と曰ふ。凡そ喪に在るとき、王は「小童」と曰ひ、公侯は「子」と曰ふ。夏、葵丘に會す、盟を尋ね、且つ好を脩む、禮なり。王宰孔をして齊侯に胙を賜はしめて曰く、「天子文武に事有り、孔をして伯舅に胙を賜はしむ」と。齊侯將に下拜せんとす。孔曰く、「且つ後命有り。天子孔をして曰はしむ、『伯舅耋老なるを以て、勞を加へ一級を賜ふ、下拜すること無かれ』と」。對へて曰く、「天威顏を違ること咫尺ならず。小白、余敢へて天子の命を貪りて下拜すること無からんや。下に隕越して、以て天子の羞を遺さんことを恐る、敢へて下拜せざらんや」と。下拜して登りて受く。秋、齊侯諸侯と葵丘に盟ひて曰く、「凡そ我が同盟の人、既に盟ふの後は、言に好に歸せん」と。宰孔先に歸り、晉侯に遇ひて曰く、「會すること無かるべし。齊侯德を務めずして遠略を勤む、故に北のかた山戎を伐ち、南のかた楚を伐ち、西のかた此の會を為す。東略は之れ知らず、西は則ち否ず。其れ亂在らんか。君は亂を靖んずるを務めよ、行くを勤むること無かれ」と。晉侯乃ち還る。九月、晉の獻公卒す。里克・丕鄭文公を納れんと欲す、故に三公子の徒を以て亂を作す。
-
荀子・修身篇扁く善なるの度、以て気を治め生を養なわば、則ち彭祖に後れ、以て身を脩め名を自らにせば、則ち堯・禹に配す。時に宜しくして通じ、利ありて以て窮に処る、礼信是れなり。凡そ血気・志意・知慮を用うるに、礼に由れば則ち治通し、礼に由らざれば則ち勃乱提僈す。食飲・衣服・居処・動静、礼に由れば則ち和節し、礼に由らざれば則ち触陥して疾を生ず。容貌・態度・進退・趨行、礼に由れば則ち雅なり、礼に由らざれば則ち夷固・僻違、庸衆にして野なり。故に人は礼無ければ則ち生きず、事は礼無ければ則ち成らず、国家は礼無ければ則ち寧からず。詩に曰く、「礼儀卒に度あり、笑語卒に獲たり」とは、此れを之れ謂うなり。
-
『春秋左氏伝』成公十六年 再び国君を辱めず郤至三たび楚子の卒に遇ふ。楚子を見れば必ず下り、冑を免ぎて趨ること風のごとし。楚子工尹襄をして之に問ふに弓を以ってせしめて曰く、「事の殷なるに方りて、韎韋の跗注有る者は、君子なり。不穀を識見して趨る、乃ち傷つくこと無からんや」と。郤至客に見え、冑を免ぎて命を承けて曰く、「君の外臣至、寡君の戎事に從ひ、君の靈を以って、間ま甲冑を蒙る。敢へて命を拜せず。敢へて寧からざるを告ぐ、君命の辱きに。事の為の故に、敢へて使者に肅す」と。三たび使者に肅して退く。晉の韓厥鄭伯に從ふ。其の御杜溷羅曰く、「速かに之に從へ。其の御屢しば顧みて、馬に在らず。及ぶ可きなり」と。韓厥曰く、「以って再び國君を辱しむ可からず」と。乃ち止む。郤至鄭伯に從ふ。其の右茀翰胡曰く、「諜して之を輅へん。余之に從ひて乘り、俘にして以って下らん」と。郤至曰く、「國君を傷つくれば刑有り」と。亦た止む。石首曰く、「衞の懿公唯だ其の旗を去らず、是を以って熒に敗る」と。乃ち旌を弢中に內る。唐苟石首に謂ひて曰く、「子は君の側に在り。敗者は壹に大なり。我子に如かず。子は君を以って免れよ。我請ふ止まらん」と。乃ち死す。
-
論語・先進篇顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く、「子慟せり。」曰く、「慟すること有るか。夫の人の為に慟するに非ずして誰が為にせん。」
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る