春秋左氏伝 / 襄公二十四年 降階を問う
楚子師于荒浦。使沈尹壽與師祁犁讓之。舒鳩子敬逆二子。而告無之。且請受盟。二子復命。王欲伐之。薳子曰。不可。彼告不叛。且請受盟。而又伐之。伐無罪也。姑歸息民。以待其卒。卒而不貳。吾又何求。若猶叛我。無辭。有庸。乃還。陳人復討慶氏之黨。鍼宜咎出奔楚。齊人城郟。穆叔如周聘。且賀城。王嘉其有禮也。賜之大路。晉侯嬖程鄭。使佐下軍。鄭行人公孫揮如晉聘。程鄭問焉。曰。敢問降階何由。子羽不能對。歸以語然明。然明曰。是將死矣。不然將亡。貴而知懼。懼而思降。乃得其階。下人而已。又何問焉。且夫既登而求降階者。知人也。不在程鄭。其有亡釁乎。不然。其有惑疾。將死而憂也。
新字:楚子師于荒浦。使沈尹寿与師祁犁譲之。舒鳩子敬逆二子。而告無之。且請受盟。二子復命。王欲伐之。薳子曰。不可。彼告不叛。且請受盟。而又伐之。伐無罪也。姑帰息民。以待其卒。卒而不貳。吾又何求。若猶叛我。無辞。有庸。乃還。陳人復討慶氏之党。鍼宜咎出奔楚。斉人城郟。穆叔如周聘。且賀城。王嘉其有礼也。賜之大路。晋侯嬖程鄭。使佐下軍。鄭行人公孫揮如晋聘。程鄭問焉。曰。敢問降階何由。子羽不能対。帰以語然明。然明曰。是将死矣。不然将亡。貴而知懼。懼而思降。乃得其階。下人而已。又何問焉。且夫既登而求降階者。知人也。不在程鄭。其有亡釁乎。不然。其有惑疾。将死而憂也。
書き下し
楚子荒浦に師す。沈尹壽と師祁犁とをして之を讓めしむ。舒鳩子敬みて二子を逆へ、而して之無きを告げ、且つ盟を受けんことを請ふ。二子復命す。王之を伐たんと欲す。薳子曰く、「不可なり。彼叛かずと告げ、且つ盟を受けんことを請ふ。而るに又之を伐たば、無罪を伐つなり。姑く歸りて民を息め、以って其の卒を待たん。卒へて貳せずんば、吾又何をか求めん。若し猶ほ我に叛かば、辭無くして庸有らん」と。乃ち還る。陳人復た慶氏の黨を討ず。鍼宜咎出でて楚に奔る。齊人郟に城く。穆叔周に如きて聘し、且つ城を賀す。王其の禮有るを嘉し、之に大路を賜ふ。晉侯程鄭を嬖し、下軍に佐たらしむ。鄭の行人公孫揮晉に如きて聘す。程鄭焉に問ひて曰く、「敢へて問ふ、階を降るは何に由るか」と。子羽對ふること能はず。歸りて以って然明に語る。然明曰く、「是れ將に死せんとす。然らずんば將に亡びんとす。貴くして懼るるを知り、懼れて降るを思へば、乃ち其の階を得。人に下るのみ。又何をか問はん。且つ夫れ既に登りて降階を求むる者は、知人なり。程鄭に在らず。其れ亡釁有るか。然らずんば、其れ惑疾有りて、將に死せんとして憂ふるなり」と。
現代語訳
楚子は荒浦に軍を進め、沈尹寿と師祁犁に舒鳩を責めさせた。舒鳩の君は二人を恭しく迎え、背いてなどいないと告げ、さらに盟約を結びたいと願い出た。二人は王に復命した。王はそれでも舒鳩を討とうとした。薳子(令尹薳子馮)は言った。「なりません。向こうは背いていないと告げ、盟約を結びたいと願っています。それなのに攻めれば、罪のない者を討つことになります。ひとまず帰って民を休ませ、成り行きを最後まで見届けましょう。最後まで二心がなければ、我々はそれ以上何を求めましょう。もしまだ背くなら、向こうには弁解の言葉がなく、こちらには討つ功が立ちます」。そこで楚軍は引き返した。陳ではまた慶氏の一党を討った。鍼宜咎は国を出て楚に亡命した。斉の人々が周の郟に城を築いた。穆叔(叔孫豹)は周に聘問し、あわせて築城を祝賀した。周王は彼に礼があることを喜び、大路(儀礼用の車)を賜った。晋侯(平公)は程鄭を寵愛し、下軍の副将にした。鄭の外交官公孫揮(字は子羽)が晋に聘問した。程鄭は彼に尋ねた。「あえてお尋ねします。地位から降りる階段は、どうすれば見つかるのでしょう」。子羽は答えられなかった。帰国して然明に話した。然明は言った。「その男は死ぬだろう。そうでなければ亡命することになる。高い身分にあって恐れることを知り、恐れて降りることを考えれば、降りる階段は見つかるものだ。人にへりくだればよいだけのこと。何を尋ねる必要があろう。それに、高く登ってから降りる階段を求めるのは、知恵のある人のすることで、程鄭の柄ではない。滅ぶ兆しがあるのだろうか。そうでなければ、心を惑わす病があって、死期が近いのを憂えているのだろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』成公二年 子重、民を恤む對へて曰く、「庚の命ずる所なり、克の制するなり。燮何の力か之れ有らん」と。欒伯見ゆ。公も亦た之の如くす。對へて曰く、「燮の詔ぐるなり、士の命を用ゐるなり。書何の力か之れ有らん」と。宣公好を楚に求めしむ。莊王卒し、宣公薨じ、好を作す克はず。公即位し、盟を晉に受け、晉に會して齊を伐つ。衛人使を楚に行らず、而して亦た盟を晉に受け、齊を伐つに從ふ。故に楚の令尹子重陽橋の役を為して以て齊を救ふ。將に師を起こさんとす。子重曰く、「君弱く、群臣は先大夫に如かず。師眾くして而る後に可なり。詩に曰く、『濟濟たる多士、文王以て寧んず』と。夫れ文王すら猶ほ眾を用ゐる、況んや吾が儕をや。且つ先君莊王之に屬して曰く、『德の以て遠方に及ぶ無くんば、其の民を惠恤して善く之を用ゐるに如くは莫し』」と。乃ち戶を大(あきら)かにし、責を已め、鰥に逮ぼし、乏しきを救ひ、罪を赦す。師を悉くし、王卒盡く行く。彭名戎に御し、蔡の景公左と為り、許の靈公右と為る。二君弱し、皆強ひて之に冠せしむ。
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説苑・說叢賢を欲する者は人に下るに如くは莫く、財を貪る者は身を全うするに如くは莫し。財は義の高きに如かず、勢は德の尊きに如かず。父は無益の子を愛する能わず、君は不軌の民を愛する能わず。君は無功の臣を賞する能わず、臣は無德の君に死する能わず。善く御する者を問わば馬に如くは莫く、善く治むる者を問わば民に如くは莫し。卑を以て尊と為し、屈を以て伸と為すは、聖人の因る所、上は天に法る。
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人物志・釋爭卑讓降下は、茂進の遂ぐる路なり。矜奮侵陵は、毀塞の険しき途なり。
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説苑・貴德斉の桓公北のかた山戎氏を伐つ、其の道燕を過ぐ、燕君逆へて境を出づ、桓公管仲に問ひて曰く、「諸侯相逆ふるは固より境を出づるか」と。管仲曰く、「天子に非ざれば境を出でず」と。桓公曰く、「然らば則ち燕君畏れて礼を失へるなり、寡人不道にして燕君をして礼を失はしむ」と、乃ち燕君の至れる所の地を割きて以て燕君に与ふ。諸侯之を聞き、皆斉に朝す。詩に云く、「爾の位を靖恭し、是の正直を好めば、神之を聴き、爾に景福を介けん」と。此を之れ謂ふなり。
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説苑・尊賢魏の文侯、中山より安邑に奔命す。田子方之に従う。夫子撃(太子撃)之に過ぐるに、車を下りて趨る。子方坐乗すること故の如し。太子に告げて曰く、「我が為に君に請え、我が朝歌するを待て」と。太子説ばず、因りて子方の為に曰く、「貧窮なる者の人に驕るを識らざるか、富貴なる者の人に驕るをや」と。子方曰く、「貧窮なる者は人に驕る、富貴なる者は安んぞ敢えて人に驕らんや。人主人に驕りて其の国を亡ぼす、吾未だ国を以て亡ぶるを待つ者を見ざるなり。大夫人に驕りて其の家を亡ぼす、吾未だ家を以て亡ぶるを待つ者を見ざるなり。貧窮なる者若し意を得ずんば、履を納れて去る、安くに往くとして貧窮を得ざらんや。貧窮なる者は人に驕る、富貴なる者は安んぞ敢えて人に驕らんや」と。太子及び文侯、田子方の語を道う。文侯歎じて曰く、「吾が子の故に非ずんば、吾安んぞ賢人の言を聞くを得んや。吾子方に下るに行を以てし、得て之を友とせり。吾子方を友としてより、君臣益々親しみ、百姓益々附す、吾是を以て士を友とするの功を得たり。我中山を伐たんと欲するに、吾武を以て楽羊に下る、三年にして中山我に献ぜらる、我是を以て武を有つの功を得たり。吾此に少しく進む所以の者は、吾未だ智を以て我に驕る者を見ざればなり。若し智を以て我に驕る者を得ば、豈古の人に及ばざらんや」と。
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説苑・尊賢孔子閒居して、喟然として歎じて曰く、「銅鞮伯華にして死する無くんば、天下其れ定まる有らん」と。子路曰く、「願わくは其の人と為りの何如なるかを聞かん」と。孔子曰く、「其の幼きや敏にして学を好み、其の壮んなるや勇有りて屈せず、其の老いたるや道有りて能く以て人に下る」と。子路曰く、「其の幼きや敏にして学を好むは則ち可なり、其の壮んなるや勇有りて屈せざるは則ち可なり。夫れ道有らば又誰にか下らんや」と。孔子曰く、「由よ、知らざるなり。吾之を聞く、衆を以て寡を攻めて消えざる無く、貴を以て賤に下りて得ざる無しと。昔周公旦天下の政を制するに在りて士七十人に下る、豈道無からんや。士を得んと欲するの故なり。夫れ道有りて能く天下の士に下る、君子なるかな」と。
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