春秋左氏伝 / 成公二年 子重、民を恤む
對曰。庚所命也。克之制也。燮何力之有焉。欒伯見。公亦如之。對曰。燮之詔也。士用命也。書何力之有焉。宣公使求好于楚。莊王卒。宣公薨。不克作好。公即位。受盟于晉。會晉伐齊。衛人不行使于楚。而亦受盟于晉。從於伐齊。故楚令尹子重為陽橋之役以救齊。將起師。子重曰。君弱。群臣不如先大夫。師眾而後可。詩曰。濟濟多士。文王以寧。夫文王猶用眾。況吾儕乎。且先君莊王屬之曰。無德以及遠方。莫如惠恤其民而善用之。乃大戶。已責。逮鰥。救乏。赦罪。悉師。王卒盡行。彭名御戎。蔡景公為左。許靈公為右。二君弱。皆強冠之。
新字:対曰。庚所命也。克之制也。燮何力之有焉。欒伯見。公亦如之。対曰。燮之詔也。士用命也。書何力之有焉。宣公使求好于楚。荘王卒。宣公薨。不克作好。公即位。受盟于晋。会晋伐斉。衛人不行使于楚。而亦受盟于晋。従於伐斉。故楚令尹子重為陽橋之役以救斉。将起師。子重曰。君弱。群臣不如先大夫。師衆而後可。詩曰。済済多士。文王以寧。夫文王猶用衆。況吾儕乎。且先君荘王属之曰。無徳以及遠方。莫如恵恤其民而善用之。乃大戸。已責。逮鰥。救乏。赦罪。悉師。王卒尽行。彭名御戎。蔡景公為左。許霊公為右。二君弱。皆強冠之。
書き下し
對へて曰く、「庚の命ずる所なり、克の制するなり。燮何の力か之れ有らん」と。欒伯見ゆ。公も亦た之の如くす。對へて曰く、「燮の詔ぐるなり、士の命を用ゐるなり。書何の力か之れ有らん」と。宣公好を楚に求めしむ。莊王卒し、宣公薨じ、好を作す克はず。公即位し、盟を晉に受け、晉に會して齊を伐つ。衛人使を楚に行らず、而して亦た盟を晉に受け、齊を伐つに從ふ。故に楚の令尹子重陽橋の役を為して以て齊を救ふ。將に師を起こさんとす。子重曰く、「君弱く、群臣は先大夫に如かず。師眾くして而る後に可なり。詩に曰く、『濟濟たる多士、文王以て寧んず』と。夫れ文王すら猶ほ眾を用ゐる、況んや吾が儕をや。且つ先君莊王之に屬して曰く、『德の以て遠方に及ぶ無くんば、其の民を惠恤して善く之を用ゐるに如くは莫し』」と。乃ち戶を大(あきら)かにし、責を已め、鰥に逮ぼし、乏しきを救ひ、罪を赦す。師を悉くし、王卒盡く行く。彭名戎に御し、蔡の景公左と為り、許の靈公右と為る。二君弱し、皆強ひて之に冠せしむ。
現代語訳
范文子は答えた。「荀庚(じゅんこう、上軍の将)の命じたところであり、郤克の統制によるものです。私(燮)に何の力がありましょう」。欒伯(欒書)が拝謁すると、公はやはり同じようにねぎらった。欒書は答えた。「士燮の指示と、兵士たちが命に従ったおかげです。私(書)に何の力がありましょう」。(魯の)宣公は楚と友好を結ぼうとして使者を遣わしたが、楚の荘王が亡くなり、宣公も薨じたので、友好を結ぶことができなかった。成公は即位すると晋と盟約を結び、晋と会同して斉を伐った。衛の人々も楚に使者を送らず、やはり晋と盟約を結んで斉討伐に加わった。そこで楚の令尹子重(しちょう、公子嬰斉)は、陽橋の役を起こして斉を救おうとした。出兵にあたって子重は言った。「君は幼く、群臣は先代の大夫たちに及ばない。軍勢を多くしてはじめて事を成せる。詩に『立派な人材が多くいて、文王はそれで国を安んじた』とある。あの文王でさえ多くの人を用いたのだ。まして我らはなおさらである。そのうえ先君荘王は、我らに後事を託して『徳が遠方にまで及ばないのなら、民をいつくしみ救って、よく用いるに越したことはない』と言い残された」。そこで戸籍を明らかにし、負債を免除し、身寄りのない者にまで恵みを及ぼし、困窮した者を救い、罪人を赦した。軍を総動員し、王の親衛隊もすべて出陣した。彭名が王の戎車の御者となり、蔡の景公が左に、許の霊公が右に乗った。二人の君はまだ幼かったが、みな無理に冠をかぶらせて(成人の扱いにして)乗せた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公二十四年 降階を問う楚子荒浦に師す。沈尹壽と師祁犁とをして之を讓めしむ。舒鳩子敬みて二子を逆へ、而して之無きを告げ、且つ盟を受けんことを請ふ。二子復命す。王之を伐たんと欲す。薳子曰く、「不可なり。彼叛かずと告げ、且つ盟を受けんことを請ふ。而るに又之を伐たば、無罪を伐つなり。姑く歸りて民を息め、以って其の卒を待たん。卒へて貳せずんば、吾又何をか求めん。若し猶ほ我に叛かば、辭無くして庸有らん」と。乃ち還る。陳人復た慶氏の黨を討ず。鍼宜咎出でて楚に奔る。齊人郟に城く。穆叔周に如きて聘し、且つ城を賀す。王其の禮有るを嘉し、之に大路を賜ふ。晉侯程鄭を嬖し、下軍に佐たらしむ。鄭の行人公孫揮晉に如きて聘す。程鄭焉に問ひて曰く、「敢へて問ふ、階を降るは何に由るか」と。子羽對ふること能はず。歸りて以って然明に語る。然明曰く、「是れ將に死せんとす。然らずんば將に亡びんとす。貴くして懼るるを知り、懼れて降るを思へば、乃ち其の階を得。人に下るのみ。又何をか問はん。且つ夫れ既に登りて降階を求むる者は、知人なり。程鄭に在らず。其れ亡釁有るか。然らずんば、其れ惑疾有りて、將に死せんとして憂ふるなり」と。
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説苑・說叢賢を欲する者は人に下るに如くは莫く、財を貪る者は身を全うするに如くは莫し。財は義の高きに如かず、勢は德の尊きに如かず。父は無益の子を愛する能わず、君は不軌の民を愛する能わず。君は無功の臣を賞する能わず、臣は無德の君に死する能わず。善く御する者を問わば馬に如くは莫く、善く治むる者を問わば民に如くは莫し。卑を以て尊と為し、屈を以て伸と為すは、聖人の因る所、上は天に法る。
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人物志・釋爭卑讓降下は、茂進の遂ぐる路なり。矜奮侵陵は、毀塞の険しき途なり。
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説苑・貴德斉の桓公北のかた山戎氏を伐つ、其の道燕を過ぐ、燕君逆へて境を出づ、桓公管仲に問ひて曰く、「諸侯相逆ふるは固より境を出づるか」と。管仲曰く、「天子に非ざれば境を出でず」と。桓公曰く、「然らば則ち燕君畏れて礼を失へるなり、寡人不道にして燕君をして礼を失はしむ」と、乃ち燕君の至れる所の地を割きて以て燕君に与ふ。諸侯之を聞き、皆斉に朝す。詩に云く、「爾の位を靖恭し、是の正直を好めば、神之を聴き、爾に景福を介けん」と。此を之れ謂ふなり。
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説苑・尊賢魏の文侯、中山より安邑に奔命す。田子方之に従う。夫子撃(太子撃)之に過ぐるに、車を下りて趨る。子方坐乗すること故の如し。太子に告げて曰く、「我が為に君に請え、我が朝歌するを待て」と。太子説ばず、因りて子方の為に曰く、「貧窮なる者の人に驕るを識らざるか、富貴なる者の人に驕るをや」と。子方曰く、「貧窮なる者は人に驕る、富貴なる者は安んぞ敢えて人に驕らんや。人主人に驕りて其の国を亡ぼす、吾未だ国を以て亡ぶるを待つ者を見ざるなり。大夫人に驕りて其の家を亡ぼす、吾未だ家を以て亡ぶるを待つ者を見ざるなり。貧窮なる者若し意を得ずんば、履を納れて去る、安くに往くとして貧窮を得ざらんや。貧窮なる者は人に驕る、富貴なる者は安んぞ敢えて人に驕らんや」と。太子及び文侯、田子方の語を道う。文侯歎じて曰く、「吾が子の故に非ずんば、吾安んぞ賢人の言を聞くを得んや。吾子方に下るに行を以てし、得て之を友とせり。吾子方を友としてより、君臣益々親しみ、百姓益々附す、吾是を以て士を友とするの功を得たり。我中山を伐たんと欲するに、吾武を以て楽羊に下る、三年にして中山我に献ぜらる、我是を以て武を有つの功を得たり。吾此に少しく進む所以の者は、吾未だ智を以て我に驕る者を見ざればなり。若し智を以て我に驕る者を得ば、豈古の人に及ばざらんや」と。
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説苑・尊賢孔子閒居して、喟然として歎じて曰く、「銅鞮伯華にして死する無くんば、天下其れ定まる有らん」と。子路曰く、「願わくは其の人と為りの何如なるかを聞かん」と。孔子曰く、「其の幼きや敏にして学を好み、其の壮んなるや勇有りて屈せず、其の老いたるや道有りて能く以て人に下る」と。子路曰く、「其の幼きや敏にして学を好むは則ち可なり、其の壮んなるや勇有りて屈せざるは則ち可なり。夫れ道有らば又誰にか下らんや」と。孔子曰く、「由よ、知らざるなり。吾之を聞く、衆を以て寡を攻めて消えざる無く、貴を以て賤に下りて得ざる無しと。昔周公旦天下の政を制するに在りて士七十人に下る、豈道無からんや。士を得んと欲するの故なり。夫れ道有りて能く天下の士に下る、君子なるかな」と。
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