導師導古典を学びたいすべての人に

春秋左氏伝 / 襄公十九年 子孔、専にして誅せらる

鄭子孔之為政也專。國人患之。乃討西宮之難。與純門之師。子孔當罪。以其甲及子革。子良氏之甲守。甲辰。子展。子西。率國人伐之。殺子孔而分其室。書曰。鄭殺其大夫。專也。子然。子孔。宋子之子也。士子孔。圭媯之子也。圭媯之班。亞宋子而相親也。士子孔。亦相親也。僖之四年。子然卒。簡之元年。士子孔卒。司徒孔實相子革。子良。之室。三室如一。故及於難。子革。子良。出奔楚。子革。為右尹。鄭人使子展當國。子西聽政。立子產為卿。

新字:鄭子孔之為政也専。国人患之。乃討西宮之難。与純門之師。子孔当罪。以其甲及子革。子良氏之甲守。甲辰。子展。子西。率国人伐之。殺子孔而分其室。書曰。鄭殺其大夫。専也。子然。子孔。宋子之子也。士子孔。圭媯之子也。圭媯之班。亜宋子而相親也。士子孔。亦相親也。僖之四年。子然卒。簡之元年。士子孔卒。司徒孔実相子革。子良。之室。三室如一。故及於難。子革。子良。出奔楚。子革。為右尹。鄭人使子展当国。子西聴政。立子産為卿。

書き下し

鄭の子孔の政を為すや專らなり。國人之を患ふ。乃ち西宮の難と、純門の師とを討つ。子孔罪に當たる。其の甲及び子革・子良氏の甲を以って守る。甲辰、子展・子西、國人を率ゐて之を伐ち、子孔を殺して其の室を分つ。書して「鄭其の大夫を殺す」と曰ふは、專らなればなり。子然・子孔は、宋子の子なり。士子孔は、圭媯の子なり。圭媯の班は、宋子に亞ぎて相親しむなり。士子孔も、亦た相親しむなり。僖の四年、子然卒し、簡の元年、士子孔卒す。司徒孔實に子革・子良の室を相く。三室一の如し。故に難に及ぶ。子革・子良、出でて楚に奔る。子革右尹と為る。鄭人子展をして國に當たらしめ、子西政を聽き、子產を立てて卿と為す。

現代語訳

鄭の子孔(しこう、公子嘉)は政治を独断で行ったので、国の人々はこれを憂えた。そこで西宮の難(襄公十年の内乱)と、純門の戦い(前年に楚軍を招いた事件)の責任を追及したところ、子孔がその罪に当たることになった。子孔は自分の甲士と、子革(しかく)・子良(しりょう)両家の甲士をもって守りを固めた。甲辰の日、子展と子西が国の人々を率いてこれを攻め、子孔を殺してその家財を分け取った。『春秋』が「鄭、其の大夫を殺す」と記しているのは、子孔が専横だったからである。子然(しぜん)と子孔は、(鄭の穆公の側室)宋子の子である。士子孔(ししこう)は圭媯(けいき)の子である。圭媯の位は宋子に次ぎ、二人は互いに親しかった。士子孔もまた(子然・子孔と)親しかった。鄭の僖公の四年に子然が亡くなり、簡公の元年に士子孔が亡くなった。司徒の孔(子孔)は、子然の子の子革と、士子孔の子の子良の家を後見していた。三つの家は一つの家のようであった。そのため(子革と子良も)災難に巻き込まれたのである。子革と子良は国を出て楚に亡命した。子革は楚で右尹となった。鄭の人々は子展に国政の首座を担わせ、子西に政務を執らせ、子産(しさん)を卿に立てた。

解説

前年、政敵を除こうとして楚軍を呼び込んだ鄭の子孔が、ついに討たれる場面である。子孔の専横を憂えた国人は、過去の内乱と楚軍の件の責任を問い、子展と子西が国人を率いて子孔を攻め殺した。『春秋』が「鄭、其の大夫を殺す」と国の名で記したのは、子孔の専横に対する国全体の処断と見たからである。子孔が後見していた子革と子良の二家も「三室一の如し」、一つの家のように結びついていたために難に巻き込まれ、楚へ亡命した。親密な結びつきが、平時には力となり、有事には連座の原因となる。そして記事の最後に、子産が卿に立てられたことが記される。のちに鄭の名宰相として知られる子産の政治の舞台への登場は、先任者の失脚の直後であった。独断による権力の集中が、周囲の人々をどこまで巻き込むかを考えさせる。

この章句が説くこと

専横権力集中連座人事刷新書法

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る