春秋左氏伝 / 襄公十四年 甘棠の愛
秦伯問於士鞅曰。晉大夫其誰先亡。對曰。其欒氏乎。秦伯曰。以其汰乎。對曰。然。欒黶汰虐已甚。猶可以免。其在盈乎。秦伯曰。何故。對曰。武子之德在民。如周人之思召公焉。愛其甘棠。況其子乎。欒黶死。盈之善未能及人。武子所施沒矣。而黶之怨實章。將於是乎在。秦伯以為知言。為之請於晉而復之。
新字:秦伯問於士鞅曰。晋大夫其誰先亡。対曰。其欒氏乎。秦伯曰。以其汰乎。対曰。然。欒黶汰虐已甚。猶可以免。其在盈乎。秦伯曰。何故。対曰。武子之徳在民。如周人之思召公焉。愛其甘棠。況其子乎。欒黶死。盈之善未能及人。武子所施没矣。而黶之怨実章。将於是乎在。秦伯以為知言。為之請於晋而復之。
書き下し
秦伯士鞅に問ひて曰く、「晉の大夫、其れ誰か先づ亡びん」と。對へて曰く、「其れ欒氏か」と。秦伯曰く、「其の汰れるを以ってか」と。對へて曰く、「然り。欒黶は汰虐已に甚だし。猶ほ以って免るべし。其れ盈に在らんか」と。秦伯曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「武子の德は民に在り。周人の召公を思ふが如し。其の甘棠を愛す、況んや其の子をや。欒黶死して、盈の善未だ人に及ぶ能はず、武子の施す所沒せん。而して黶の怨は實に章かなり。將に是に於いて在らんとす」と。秦伯以って知言と為し、之が為に晉に請ひて之を復せしむ。
現代語訳
秦伯(秦の景公)が士鞅に尋ねた。「晋の大夫のうち、どの家が真っ先に滅びるだろうか」。士鞅は答えた。「欒氏でしょう」。秦伯は言った。「その驕りのためか」。答えた。「そうです。欒黶は驕りと横暴がすでにひどい。それでも本人は災いを免れることができるでしょう。災いが及ぶのは子の欒盈(らんえい)の代でしょう」。秦伯は言った。「どういうわけか」。答えた。「欒黶の父の武子(欒書)の徳は民の心に残っています。周の人々が召公を慕い、召公が休んだ甘棠(やまなし)の木さえ大切にしたようなものです。木でさえ愛したのですから、ましてその子はなおさら大事にされます。しかし欒黶が死ねば、欒盈の善行はまだ人々に行き渡っておらず、武子が施した恩恵は忘れ去られてしまいます。そして欒黶が買った怨みははっきりと残っています。災いはそこに降りかかるでしょう」。秦伯はこれを道理をわきまえた言葉だと考え、士鞅のために晋に願い出て、彼を帰国させた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』運命顔・冉の凶は、性命の本なり。〔議に曰く、秦伯、士鞅に問いて曰く「晋の大夫、其れ誰か先に亡びん」と。対えて曰く「其れ欒氏か」と。秦伯曰く「其の汰れるを以てか」と。対えて曰く「然り。欒黶は汰虐已に甚だしきも、猶お以て免るべし。其れ盈に在らんか」と。秦伯曰く「何の故ぞ」と。対えて曰く「武子の徳は人に在り、周人の召公を思うが如し。其の甘棠を愛す、況んや其の子をや。欒黶死して、盈の善未だ人に及ぶこと能わず、武子の施す所没し、而して黶の怨み実に彰る。将に是に於てせんとするか」と。後九年に在りて、晋、欒氏を滅ぼす。是に由りて黶は汰虐なりと雖も、其の父武子の徳を以て、身其の福を受く。盈は賢智なりと雖も、其の黶父の汰虐を以て、遂に禍に遇う。然らば則ち禍と福とは、我の賢虐に在らず。
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史記 燕召公世家召公奭(せき)は周と同姓にして、姓は姫氏なり。周の武王の紂を滅ぼすや、召公を北燕に封ず。其の成王の時に在りて、召王三公と為る。陜(せん)より以西は召公之を主り、陜より以東は周公之を主る。成王既に幼く、周公摂政し、国に当たりて祚を践む。召公之を疑ひ、君奭を作る。君奭、周公を説(よろこ)ばず。周公乃ち称す、「湯の時に伊尹有り、皇天に仮(いた)る。太戊に在る時は、則ち伊陟・臣扈の若き有り、上帝に仮る。巫咸王家を治む。祖乙に在る時は、則ち巫賢の若き有り。武丁に在る時は、則ち甘般の若き有り。率ゐて維れ茲に陳ぶる有りて、有殷を保乂(ほがい)す」と。是に於て召公乃ち説ぶ。召公の西方を治むるや、甚だ兆民の和を得たり。召公郷邑を巡行するに、棠樹有り、獄を決し政事を其の下にす。侯伯より庶人に至るまで各々其の所を得て、職を失ふ者無し。召公卒して、民人召公の政を思ひ、棠樹を懐ひて敢て伐らず、之を哥詠して、甘棠の詩を作る。召公より已下九世にして恵侯に至る。燕の恵侯は周の厲王の彘(てい)に奔る、共和の時に当たる。恵侯卒し、子の釐侯立つ。是の歳、周の宣王初めて即位す。釐侯の二十一年、鄭の桓公初めて鄭に封ぜらる。三十六年、釐侯卒し、子の頃侯立つ。頃侯の二十年、周の幽王淫乱にして、犬戎の弑する所と為る。秦始めて列して諸侯と為る。二十四年、頃侯卒し、子の哀侯立つ。哀侯二年にして卒し、子の鄭侯立つ。鄭侯三十六年にして卒し、子の繆侯立つ。繆侯の七年は、魯の隠公の元年なり。十八年にして卒し、子の宣侯立つ。宣侯十三年にして卒し、子の桓侯立つ。桓侯七年にして卒し、子の荘公立つ。荘公の十二年、斉の桓公始めて覇たり。十六年、宋・衛と共に周の恵王を伐つ。恵王出でて温に奔り、恵王の弟穨(たい)を立てて周王と為す。
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『春秋左氏伝』襄公二十一年 欒祁の讒訴齊侯慶佐をして大夫と為さしむ。復た公子牙の黨を討じ、公子買を句瀆の丘に執ふ。公子鉏來奔す。叔孫還燕に奔る。夏、楚の子庚卒す。楚子薳子馮をして令尹と為さしめんとし、申叔豫に訪ふ。叔豫曰く、「國に寵多くして王弱し。國為む可からざるなり」と。遂に疾を以って辭す。方に暑きに、地を闕(ほ)りて冰を下し、而して床す。繭を重ね裘を衣、食を鮮(すく)なくして寢ぬ。楚子醫をして之を視しむ。復して曰く、「瘠(や)すること則ち甚だし。而れども血氣未だ動かず」と。乃ち子南をして令尹と為さしむ。欒桓子范宣子に娶りて、懷子を生む。范鞅其の亡げしを以って、欒氏を怨む。故に欒盈と公族大夫と為りて、相能くせず。桓子卒す。欒祁其の老州賓と通じ、幾ど室を亡ぼさんとす。懷子之を患ふ。祁其の討を懼れ、諸を宣子に愬へて曰く、「盈將に亂を為さんとす。范氏を以って桓主を死なしめて政を專らにすと為せり。曰く、『吾が父鞅を逐ふや、怒らずして寵を以って之に報ゆ。又吾と官を同じくして之を專らにす。吾が父死して益々富む。吾が父を死なしめて國に專らなり。死有るのみ、吾之に從ふこと蔑(な)からん』と。其の謀是くの如し。主を害せんことを懼る。吾敢へて言はずんばあらず」と。范鞅之が徵を為す。懷子施しを好み、士多く之に歸す。宣子其の士の多きを畏れ、之を信ず。懷子下卿為り。宣子著に城かしめて遂に之を逐ふ。
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『春秋左氏伝』襄公十四年 戎子駒支、責めを受く十四年春、吳、敗を晉に告ぐ。向に會す。吳の為に楚を謀るが故なり。范宣子、吳の不德を數め、以て吳人を退く。莒の公子務婁を執ふ。其の楚の使を通ずるを以てなり。將に戎子駒支を執へんとす。范宣子、親ら諸を朝に數めて曰く、「來れ、姜戎氏。昔、秦人乃(なんぢ)の祖吾離を瓜州に迫逐す。乃の祖吾離、苫蓋を被り、荊棘を蒙りて、以て來りて我が先君に歸す。我が先君惠公、不腆の田有り、女と剖分して之を食む。今、諸侯の我が寡君に事ふる、昔者に如かず。蓋し言語漏洩すればなり。則ち職として女に之れ由る。詰朝の事、爾與る無かれ。與らば將に女を執へんとす」と。對へて曰く、「昔、秦人其の眾を負恃し、土地を貪り、我が諸戎を逐ふ。惠公、其の大德を蠲(あき)らかにし、我が諸戎を謂ひて、『是れ四嶽の裔冑なり。是れ翦棄すること毋かれ』とし、我に南鄙の田を賜ふ。狐狸の居る所、豺狼の嗥ゆる所なり。我が諸戎、其の荊棘を除翦し、其の狐狸豺狼を驅りて、
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『春秋左氏伝』襄公十四年 遷延の役荀偃令して曰く、「雞鳴にして駕せよ。井を塞ぎ灶を夷げよ。唯だ余が馬首をのみ是れ瞻よ」と。欒黶曰く、「晉國の命、未だ是れ有らざるなり。余が馬首は東せんと欲す」と。乃ち歸る。下軍之に從ふ。左史魏莊子に謂ひて曰く、「中行伯を待たざるか」と。莊子曰く、「夫子は帥に從へと命ず。欒伯は吾が帥なり。吾將に之に從はんとす。帥に從ふは、夫子を待つ所以なり」と。伯游曰く、「吾今實に過てり。之を悔ゆとも何ぞ及ばん。多く秦に禽を遺さん」と。乃ち大いに還るを命ず。晉人之を遷延の役と謂ふ。欒鍼曰く、「此の役や、櫟の敗に報ゆるなり。役又功無きは、晉の恥なり。吾戎路に二位有り、敢へて恥ぢざらんや」と。士鞅と秦師に馳せて焉に死す。士鞅反る。欒黶士匄に謂ひて曰く、「余が弟は往くを欲せざるに、而の子之を召せり。余が弟死して而の子來る。是れ而の子余の弟を殺せるなり。逐はずんば、余も亦た將に之を殺さんとす」と。士鞅秦に奔る。是に於いて齊の崔杼、宋の華閱・仲江、會して秦を伐つ。書せざるは、惰ればなり。向の會も、亦た之の如し。衛の北宮括、向に書せずして、秦を伐つに書するは、攝ればなり。
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史記 燕召公世家太史公曰く、「召公奭は仁と謂ふ可し。甘棠すら且つ之を思ふ、況んや其の人をや。燕は外は蛮貉に迫られ、内は齊・晉に措かれ、彊国の閒に崎嶇として、最も弱小為り、幾ど滅ぶこと数なり。然れども社稷の血食する者八九百歳、姬姓に於て独り後に亡ぶ、豈に召公の烈に非ざらんや」と。
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