春秋左氏伝 / 襄公十四年 遷延の役
荀偃令曰。雞鳴而駕。塞井夷灶。唯余馬首是瞻。欒黶曰。晉國之命。未是有也。余馬首欲東。乃歸。下軍從之。左史謂魏莊子曰。不待中行伯乎。莊子曰。夫子命從帥。欒伯吾帥也。吾將從之。從帥所以待夫子也。伯游曰。吾今實過。悔之何及。多遺秦禽。乃命大還。晉人謂之遷延之役。欒鍼曰。此役也。報櫟之敗也。役又無功。晉之恥也。吾有二位於戎路。敢不恥乎。與士鞅馳秦師死焉。士鞅反。欒黶謂士匄曰。余弟不欲往而子召之。余弟死而子來。是而子殺余之弟也。弗逐。余亦將殺之。士鞅奔秦。於是齊崔杼。宋華閱。仲江。會伐秦。不書。惰也。向之會。亦如之。衛北宮括不書於向。書於伐秦。攝也。
新字:荀偃令曰。鶏鳴而駕。塞井夷灶。唯余馬首是瞻。欒黶曰。晋国之命。未是有也。余馬首欲東。乃帰。下軍従之。左史謂魏荘子曰。不待中行伯乎。荘子曰。夫子命従帥。欒伯吾帥也。吾将従之。従帥所以待夫子也。伯游曰。吾今実過。悔之何及。多遺秦禽。乃命大還。晋人謂之遷延之役。欒鍼曰。此役也。報櫟之敗也。役又無功。晋之恥也。吾有二位於戎路。敢不恥乎。与士鞅馳秦師死焉。士鞅反。欒黶謂士匄曰。余弟不欲往而子召之。余弟死而子来。是而子殺余之弟也。弗逐。余亦将殺之。士鞅奔秦。於是斉崔杼。宋華閲。仲江。会伐秦。不書。惰也。向之会。亦如之。衛北宮括不書於向。書於伐秦。摂也。
書き下し
荀偃令して曰く、「雞鳴にして駕せよ。井を塞ぎ灶を夷げよ。唯だ余が馬首をのみ是れ瞻よ」と。欒黶曰く、「晉國の命、未だ是れ有らざるなり。余が馬首は東せんと欲す」と。乃ち歸る。下軍之に從ふ。左史魏莊子に謂ひて曰く、「中行伯を待たざるか」と。莊子曰く、「夫子は帥に從へと命ず。欒伯は吾が帥なり。吾將に之に從はんとす。帥に從ふは、夫子を待つ所以なり」と。伯游曰く、「吾今實に過てり。之を悔ゆとも何ぞ及ばん。多く秦に禽を遺さん」と。乃ち大いに還るを命ず。晉人之を遷延の役と謂ふ。欒鍼曰く、「此の役や、櫟の敗に報ゆるなり。役又功無きは、晉の恥なり。吾戎路に二位有り、敢へて恥ぢざらんや」と。士鞅と秦師に馳せて焉に死す。士鞅反る。欒黶士匄に謂ひて曰く、「余が弟は往くを欲せざるに、而の子之を召せり。余が弟死して而の子來る。是れ而の子余の弟を殺せるなり。逐はずんば、余も亦た將に之を殺さんとす」と。士鞅秦に奔る。是に於いて齊の崔杼、宋の華閱・仲江、會して秦を伐つ。書せざるは、惰ればなり。向の會も、亦た之の如し。衛の北宮括、向に書せずして、秦を伐つに書するは、攝ればなり。
現代語訳
荀偃(じゅんえん、中行献子。字は伯游、晋の中軍の将で諸侯連合軍の総指揮官)が命令した。「鶏が鳴いたら車に馬をつけよ。井戸をふさぎ、かまどを平らにせよ(陣を払って進撃せよ)。ただ私の馬の頭の向くほうだけを見て従え」。すると欒黶(らんえん、晋の下軍の将)が言った。「晋国でこのような命令はいまだかつてなかった。私の馬の頭は東(国へ帰る方角)へ向かいたがっている」。そしてそのまま引き返し、下軍もこれに従った。左史(記録官)が魏荘子(ぎそうし、魏絳、下軍の副将)に言った。「中行伯(荀偃)の指示を待たないのですか」。荘子は言った。「あの方(荀偃)は『将帥に従え』と命じられた。欒伯(欒黶)は私の直属の将帥である。私はその人に従おう。将帥に従うことこそ、あの方の命令を守ることなのだ」。伯游(荀偃)は言った。「私はいま本当に誤った。悔やんでももう間に合わない。このまま留まれば、秦に多くの捕虜を与えてしまうだろう」。そこで全軍に撤退を命じた。晋の人々はこの戦役を「遷延の役(ぐずぐずと引き延ばしただけの戦い)」と呼んだ。欒鍼(らんけん、欒黶の弟)は言った。「この戦役は、櫟での敗北に報復するためのものだった。それなのに戦役が何の功もなく終わるのは晋の恥である。私の家は兵車に二つの席(兄は将、自分は戎右)を占めている。どうして恥じずにいられようか」。そして士鞅(しおう、士匄の子)とともに秦軍に突撃し、そこで戦死した。士鞅は生還した。欒黶は士匄(しかい、范宣子)に言った。「私の弟は行きたがらなかったのに、あなたの息子が誘い出した。私の弟は死に、あなたの息子は帰ってきた。これはあなたの息子が私の弟を殺したのだ。追放しないなら、私もあの男を殺すつもりだ」。士鞅は秦に亡命した。この秦攻めには、斉の崔杼(さいちょ)、宋の華閲(かえつ)と仲江(ちゅうこう)も会合して参加していたが、『春秋』が彼らの名を記さなかったのは、その働きが怠慢だったからである。向での会合のときも同じ理由で名を記さなかった。衛の北宮括(ほくきゅうかつ)が、向の会合では名を記されず、秦攻めでは名を記されているのは、このときには態度を改めて整えたからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公十三年 晋の将帥、互ひに譲る十三年春、公晉より至る。孟獻子、勞を廟に書す。禮なり。夏、邿(し)亂れ、分れて三と為る。師、邿を救ひ、遂に之を取る。凡そ「取」と書するは、易きを言ふなり。大師を用ゐるを「滅」と曰ひ、地とせざるを「入」と曰ふ。荀罃・士魴卒す。晉侯、綿上に蒐して以て兵を治む。士匄をして中軍に將たらしめんとす。辭して曰く、「伯游長ぜり。昔、臣、知伯に習ふ。是を以て之を佐けたり。能く賢なるに非ざるなり。請ふ伯游に從はん」と。荀偃、中軍に將たり、士匄之に佐たり。韓起をして上軍に將たらしめんとす。辭するに趙武を以てす。又欒黶をしてせしめんとす。辭して曰く、「臣は韓起に如かず。韓起、趙武を上(たふと)ばんことを願ふ。君其れ之を聽け」と。趙武をして上軍に將たらしめ、韓起之に佐たり。欒黶、下軍に將たり、魏絳之に佐たり。新軍に帥無し。晉侯、其の人を難しとし、其の什吏をして、其の卒乘・官屬を率ゐて、以て下軍に從はしむ。禮なり。晉國の民、是を以て大いに和し、諸侯遂に睦まじ。
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『春秋左氏伝』襄公十年 知伯、机を投ず堞(ちふ)に及びて之を絕つ。隊(お)つれば則ち又之を縣く。蘇(よみがへ)りて復た上る者三たび。主人辭す。乃ち退き、其の斷を帶びて以て軍に徇ふること三日。諸侯の師、偪陽に久し。荀偃・士匄、荀罃に請ひて曰く、「水潦將に降らんとす。歸る能はざるを懼る。請ふ師を班(かへ)さん」と。知伯怒り、之に投ずるに机を以てす。其の間より出でて曰く、「女(なんぢ)二事を成して而る後に余に告ぐ。余、命を亂らんことを恐れ、以て女に違はず。女既に君を勤めしめて諸侯を興し、老夫を牽帥して、以て此に至る。既に武守無くして、又余に罪を易へんと欲し、『是れ實に師を班せり。然らずんば克てり』と曰はん。余は羸老なり、重任すべけんや。七日にして克たずんば、必ず爾(なんぢ)を取らん」と。五月庚寅、荀偃・士匄、卒を帥ゐて偪陽を攻め、親ら矢石を受く。甲午、之を滅す。書して「遂に偪陽を滅す」と曰ふは、會よりするを言ふなり。以て向戌に與ふ。向戌辭して曰く、「君若し猶ほ辱くも宋國を鎮撫し、而して偪陽を以て寡君を光啟せば、
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『春秋左氏伝』文公十二年 河曲の戦い冬、秦伯晉を伐ち、羈馬を取る。晉人之を禦ぐ。趙盾中軍に將たり、荀林父之に佐たり。郤缺上軍に將たり、臾駢之に佐たり。欒盾下軍に將たり、胥甲之に佐たり。范無恤戎に御し、以って秦の師に河曲に從ふ。臾駢曰く、「秦久しくする能はず、請ふ壘を深くし軍を固くして以って之を待たん」と。之に從ふ。秦人戰はんと欲す。秦伯士會に謂ひて曰く、「若何にして戰はん」と。對へて曰く、「趙氏新たに其の屬を出だす、臾駢と曰ふ。必ず實に此の謀を為す、將に以って我が師を老らせんとするなり。趙に側室有り穿と曰ふ、晉君の婿なり。寵有りて弱く、軍事に在らず。勇を好みて狂なり、且つ臾駢の上軍に佐たるを惡む。若し輕き者をして肆(おか)さしめば、其れ可ならん」と。秦伯璧を以って戰を河に祈る。十二月、戊午、秦の軍晉の上軍を掩ふ。趙穿之を追ひて及ばず。反りて、怒りて曰く、「糧を裹み甲を坐し、固より敵を是れ求む。敵至りて擊たずんば、將た何をか俟たん」と。軍吏曰く、「將に待つ有らんとす」と。穿曰く、「我謀を知らず、將に獨り出でんとす」と。乃ち其の屬を以って出づ。宣子曰く、「秦穿を獲ば、一卿を獲るなり。秦勝ちを以って歸らば、我何を以ってか報いん」と。乃ち皆出でて戰ひ、交々綏(しりぞ)く。秦の行人夜晉の師に戒めて曰く、「兩君の士、皆未だ憖(か)けず。明日請ふ相見えん」と。臾駢曰く、「使者目動きて言肆なり、我を懼るるなり、將に遁れんとす。諸を河に薄らば、必ず之を敗らん」と。胥甲・趙穿、軍門に當たりて呼びて曰く、「死傷未だ收めずして之を棄つるは、不惠なり。期を待たずして人を險に薄るは、無勇なり」と。乃ち止む。秦の師夜遁る。復た晉を侵し、瑕に入る。諸及び鄆に城く、時を書するなり。
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『春秋左氏伝』襄公二十三年 徳なくして功あらば秋、齊侯衛を伐つ。先驅は、穀榮王孫揮に御し、召揚右為り。申驅は、成秩莒恆に御し、申鮮虞の傅摯右為り。曹開戎に御し、晏父戎右為り。貳廣は、上之登邢公に御し、盧蒲癸右為り。啟は、牢成襄罷師に御し、狼蘧疏右為り。胠は、商子車侯朝に御し、桓跳右為り。大殿は、商子游夏之御寇に御し、崔如右為り。燭庸之越駟乘す。衛よりして將に遂に晉を伐たんとす。晏平仲曰く、「君勇力を恃みて以って盟主を伐つ。若し濟らずんば、國の福なり。德あらずして功有らば、憂ひ必ず君に及ばん」と。崔杼諫めて曰く、「不可なり。臣之を聞く、小國大國の敗に間して焉を毀てば、必ず其の咎を受くと。君其れ之を圖れ」と。聽かず。陳文子崔武子に見えて曰く、「將に君を如何せんとする」と。武子曰く、「吾君に言へども、君聽かざるなり。以って盟主と為して、其の難を利とす。群臣若し急ならば、君に於いて何か有らん。子姑く之を止めよ」と。文子退きて、其の人に告げて曰く、「崔子將に死せんとするか。君を甚だしと謂ひて、又之に過ぐ。其の死を得ざらん。君に過ぐるに義を以ってするも、猶ほ自ら抑ふ。況んや惡を以ってするをや」と。齊侯遂に晉を伐ち、朝歌を取り、二隊と為りて、孟門に入り、大行に登り、武軍を熒庭に張り、郫邵に戍し、少水に封じて、以って平陰の役に報い、乃ち還る。趙勝東陽の師を帥ゐて以って之を追ひ、晏氂を獲たり。
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『春秋左氏伝』襄公二十三年 乱に克つは権に在り四月、欒盈曲沃の甲を帥ゐ、魏獻子に因りて以って晝に絳に入る。初め、欒盈魏莊子を下軍に佐く。獻子焉に私す。故に之に因る。趙氏原・屏の難を以って欒氏を怨む。韓・趙方に睦まじ。中行氏伐秦の役を以って欒氏を怨み、而して固より范氏と和親す。知悼子少くして中行氏に聽く。程鄭公に嬖せらる。唯だ魏氏及び七輿大夫のみ之に與す。樂王鮒范宣子に侍坐す。或ひと告げて曰く、「欒氏至れり」と。宣子懼る。桓子曰く、「君を奉じて以って固宮に走らば、必ず害無からん。且つ欒氏は怨み多し。子は政を為す。欒氏は外よりし、子は位に在り、其の利多し。既に利權有り、又民の柄を執る、將た何をか懼れん。欒氏の得る所は、其れ唯だ魏氏のみか。而して強ひて取る可し。夫れ亂に克つは權に在り。子懈ること無かれ」と。公に姻喪有り。王鮒宣子をして墨縗冒絰し、二婦人輦して以って公に如かしめ、公を奉じて以って固宮に如く。范鞅魏舒を逆ふ。則ち列を成して既に乘り、將に欒氏を逆へんとす。趨り進みて曰く、「欒氏賊を帥ゐて以って入る。
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『春秋左氏伝』成公十六年 鄢陵への出陣十六年春、楚子武城より公子成をして、汝陰の田を以って、成を鄭に求めしむ。鄭晉に叛く。子駟楚子に從ひて武城に盟ふ。夏、四月、滕の文公卒す。鄭の子罕宋を伐つ。宋の將鉏・樂懼、諸を汋陂に敗る。退きて夫渠に舍り、儆めず。鄭人之を覆し、諸を汋陵に敗り、將鉏・樂懼を獲たり。宋勝を恃めばなり。衞侯鄭を伐ち、鳴鴈に至る。晉の為の故なり。晉侯將に鄭を伐たんとす。范文子曰く、「若し吾が願ひを逞しくせば、諸侯皆叛かん。晉以って逞しくす可し。若し唯だ鄭のみ叛かば、晉國の憂ひ、立ちどころに俟つ可きなり」と。欒武子曰く、「以って吾が世に當りて諸侯を失ふ可からず。必ず鄭を伐たん」と。乃ち師を興す。欒書中軍に將たり、士燮之に佐たり。郤錡上軍に將たり、荀偃之に佐たり。韓厥下軍に將たり。郤至新軍に佐たり。荀罃居守す。郤犨衞に如き、遂に齊に如き、皆師を乞ふ。欒黶來りて師を乞ふ。孟獻子曰く、「勝つこと有らん」と。戊寅、晉の師起つ。
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