春秋左氏伝 / 襄公七年 臣と為りて君たり
衛孫文子來聘。且拜武子之言。而尋孫桓子之盟。公登亦登。叔孫穆子相。趨進曰。諸侯之會。寡君未嘗後衛君。今吾子不後寡君。寡君未知所過。吾子其少安。孫子無辭。亦無悛容。穆叔曰。孫子必亡。為臣而君。過而不悛。亡之本也。詩曰。退食自公。委蛇委蛇。謂從者也。衡而委蛇必折。楚子囊圍陳。會于鄬以救之。鄭僖公之為大子也。於成之十六年。與子罕適晉。不禮焉。又與子豐適楚。亦不禮焉。及其元年。朝于晉。子豐欲愬諸晉而廢之。子罕止之。及將會于鄬。子駟相。又不禮焉。侍者諫。不聽。又諫。殺之。及鄵。子駟使賊夜弒僖公。而以瘧疾赴于諸侯。簡公生五年。奉而立之。陳人患楚。慶虎。慶寅。謂楚人曰。吾使公子黃往而執之。楚人從之。二慶使告陳侯于會曰。楚人執公子黃矣。君若不來。群臣不忍社稷宗廟。懼有二圖。陳侯逃歸。
新字:衛孫文子来聘。且拝武子之言。而尋孫桓子之盟。公登亦登。叔孫穆子相。趨進曰。諸侯之会。寡君未嘗後衛君。今吾子不後寡君。寡君未知所過。吾子其少安。孫子無辞。亦無悛容。穆叔曰。孫子必亡。為臣而君。過而不悛。亡之本也。詩曰。退食自公。委蛇委蛇。謂従者也。衡而委蛇必折。楚子嚢囲陳。会于鄬以救之。鄭僖公之為大子也。於成之十六年。与子罕適晋。不礼焉。又与子豊適楚。亦不礼焉。及其元年。朝于晋。子豊欲愬諸晋而廃之。子罕止之。及将会于鄬。子駟相。又不礼焉。侍者諫。不聴。又諫。殺之。及鄵。子駟使賊夜弒僖公。而以瘧疾赴于諸侯。簡公生五年。奉而立之。陳人患楚。慶虎。慶寅。謂楚人曰。吾使公子黄往而執之。楚人従之。二慶使告陳侯于会曰。楚人執公子黄矣。君若不来。群臣不忍社稷宗廟。懼有二図。陳侯逃帰。
書き下し
衛の孫文子來聘す。且つ武子の言を拜して、孫桓子の盟を尋(あたた)む。公登れば亦た登る。叔孫穆子相たり。趨り進みて曰く、「諸侯の會に、寡君未だ嘗て衛君に後れず。今、吾子寡君に後れず。寡君未だ過つ所を知らず。吾子其れ少しく安んぜよ」と。孫子辭無く、亦た悛(あらた)むる容無し。穆叔曰く、「孫子必ず亡びん。臣と爲りて君たり、過ちて悛めず、亡の本なり。詩に曰く、『退食して公よりす、委蛇(いい)たり委蛇たり』と。從ふ者を謂ふなり。衡にして委蛇たらば必ず折れん」と。楚の子囊、陳を圍む。鄬(い)に會して以て之を救ふ。鄭の僖公の大子たるや、成の十六年に於て、子罕と晉に適き、焉を禮せず。又子豐と楚に適き、亦た焉を禮せず。其の元年に及び、晉に朝す。子豐、諸を晉に愬へて之を廢せんと欲す。子罕之を止む。將に鄬に會せんとするに及び、子駟相たり。又焉を禮せず。侍者諫む。聽かず。又諫む。之を殺す。鄵(そう)に及び、子駟、賊をして夜に僖公を弒せしめて、瘧疾を以て諸侯に赴す。簡公生まれて五年なり。奉じて之を立つ。陳人、楚を患ふ。慶虎・慶寅、楚人に謂ひて曰く、「吾、公子黃をして往かしめん。而(なんぢ)之を執へよ」と。楚人之に從ふ。二慶、使をして陳侯に會に告げしめて曰く、「楚人、公子黃を執へたり。君若し來らずんば、群臣社稷宗廟に忍びず、二圖有らんことを懼る」と。陳侯逃れ歸る。
現代語訳
衛の孫文子(孫林父)が魯に聘問に来た。あわせて季武子の先の言葉(答礼の遅れを詫びた挨拶)に拝謝し、父の孫桓子が結んだ盟約を改めて確認した。襄公が堂の階段を上ると、孫文子も並んで上った(臣下は君主より一段遅れて上るのが礼である)。叔孫穆子(叔孫豹)が襄公の介添えをしていたが、小走りに進み出て言った。「諸侯の会合では、我が君は衛君に一度も遅れをとったことがありません。ところが今、あなたは我が君に一歩も遅れずに上られた。我が君は自分にどんな落ち度があったのか分からずにおります。どうか少しお控えください」。孫文子は弁解もせず、改める様子もなかった。穆叔は言った。「孫子は必ず滅びるだろう。臣下の身でありながら君主のように振る舞い、過ちを犯しても改めない。これは滅亡のもとである。『詩経』に『朝廷から退いて食事に帰る、ゆったりと従順に』とあるのは、君に従う者のことを言っている。横柄な者がゆったり構えていれば、必ず折れる」。楚の子囊が陳を包囲した。諸侯は鄬(い)で会して陳を救おうとした。鄭の僖公がまだ太子であったとき、成公十六年に子罕と晋に行ったが、子罕に礼を尽くさなかった。また子豊(しほう)と楚に行ったときも、やはり子豊に礼を尽くさなかった。僖公が即位した元年、晋に朝見したとき、子豊は晋に訴えて僖公を廃そうとしたが、子罕がこれを止めた。鄬の会に行こうとしたとき、子駟が介添え役であったが、僖公はまた子駟にも礼を尽くさなかった。侍者が諫めたが、僖公は聞かなかった。侍者がまた諫めると、僖公はその者を殺した。鄵(そう)まで来たとき、子駟は刺客に夜中に僖公を殺させ、瘧(おこり)の病で亡くなったと諸侯に報告した。簡公はこのとき五歳であったが、子駟らはこれを奉じて君に立てた。陳の人々は楚を恐れていた。慶虎(けいこ)と慶寅(けいいん)は楚に言った。「我々が公子黄(陳侯の弟)をそちらに行かせるから、捕らえてしまいなさい」。楚はそのとおりにした。二人の慶氏は使者をやって、会にいた陳侯にこう告げさせた。「楚が公子黄を捕らえました。君がもしお戻りにならないなら、群臣は社稷と宗廟が滅ぶのを見ていられず、別の君を立てることを考えるかもしれません」。陳侯は会から逃げ帰った。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』難一第三十六今襄子驕侮の臣を誅せずして、功無きの赫を賞す、安くにか襄子の善く賞するに在らん。故に曰く、仲尼は善く賞することを知らず、と。晋の平公羣臣と飲む、飲酣にして、乃ち喟然として歎じて曰く、「人君為るより楽しきは莫し、惟だ其の言ひて之に違ふ莫し」と。師曠前に侍坐す、琴を援きて之に撞く。公衽を披きて避く、琴壁に壊る。公曰く、「太師誰にか撞く」と。師曠曰く、「今者小人の側に言ふ者有り、故に之に撞く」と。公曰く、「寡人なり」と。師曠曰く、「啞。是れ君人たる者の言に非ざるなり」と。左右之を除かんことを請ふ、公曰く、「之を釈せ、以て寡人の戒と為さん」と。或ひと曰く、平公は君道を失ひ、師曠は臣礼を失ふ。夫れ其の行を非として其の身を誅するは、君の臣に於けるなり。其の行を非とすれば則ち其の言を陳べ、善く諫めて聴かれざれば則ち其の身を遠ざくるは、臣の君に於けるなり。今師曠平公の行を非とし、人臣の諫を陳べずして、人主の誅を行ふ、琴を挙げて其の体に親しむ、是れ上下の位に逆らひて、人臣の礼を失ふなり。夫れ人臣為る者は、君過有れば則ち諫め、諫めて聴かれざれば則ち爵禄を軽んじて以て之を待つ、此れ人臣の礼なり。今師曠平公の過を非とし、琴を挙げて其の体に親しむ、厳父と雖も子に加へず、而るに師曠之を君に行ふ、此れ大逆の術なり。
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『春秋左氏伝』隠公五年 公、魚を棠に観る五年春、公將に棠に如きて魚する者を觀んとす。臧僖伯諫めて曰く、「凡そ物の以って大事を講ずるに足らず、其の材の以って器用に備ふるに足らざれば、則ち君舉げず。君は、將に民を軌・物に納れんとする者なり。故に事を講じて以って軌量を度る、之を『軌』と謂ふ。材を取りて以って物采を章らかにする、之を『物』と謂ふ。軌ならず物ならざる、之を亂政と謂ふ。亂政亟々行はるるは、敗るる所以なり。故に春蒐・夏苗・秋獮・冬狩、皆農隙に於いて以って事を講ずるなり。三年にして兵を治め、入りて旅を振ひ、歸りて飲至し、以って軍實を數ふ。文章を昭らかにし、貴賤を明らかにし、等列を辨じ、少長を順にし、威儀を習ふなり。鳥獸の肉俎に登らず、皮革齒牙・骨角毛羽器に登らざれば、則ち公射ず、古の制なり。夫の山林川澤の實、器用の資、皁隸の事、官司の守の若きは、君の及ぶ所に非ざるなり」と。公曰く、「吾將に地を略せんとす」と。遂に往き、魚を陳ねて之を觀る。僖伯疾と稱して從はず。書して「公魚を棠に矢ぬ」と曰ふは、禮に非ざればなり、且つ地の遠きを言ふなり。曲沃の莊伯鄭人・邢人を以って翼を伐つ。王尹氏・武氏をして之を助けしむ。翼侯隨に奔る。夏、衛の桓公を葬る。衛亂る、是を以って緩し。
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『春秋左氏伝』哀公二十四年 妾を以て夫人と為す二十四年夏四月、晉侯、將に齊を伐たんとし、來りて師を乞はしめて曰く、「昔、臧文仲、楚師を以て齊を伐ちて穀を取り、宣叔、晉師を以て齊を伐ちて汶陽を取る。寡君、福を周公に徼めんと欲し、靈を臧氏に乞はんと願ふ」と。臧石、師を帥ゐて之に會し、廩丘を取る。軍吏、繕はしめて將に進まんとす。萊章曰く、「君卑しく政暴なり。往歲、敵に克ち、今又都に勝つ。天の奉ずること多し。又焉んぞ能く進まん。是れ躗言なり。役將に班らんとす」と。晉師乃ち還る。臧石に牛を餼る。大史、之を謝して曰く、「寡君の行に在るを以て、牢禮度あらず。敢へて之を展謝す」と。邾子又無道なり。越人、之を執へて以て歸り、公子何を立つ。何も亦た無道なり。公子荊の母嬖せらる。將に以て夫人と為さんとし、宗人釁夏をして其の禮を獻ぜしむ。對へて曰く、「之無し」と。公怒りて曰く、「女は宗司為り。夫人を立つるは、國の大禮なり。何の故に之無き」と。對へて曰く、「周公及び武公は薛に娶り、孝・惠は商に娶り、桓より以下は齊に娶る。此の禮は則ち有り。若し妾を以て夫人と為すは、則ち固より其の禮無きなり」と。公卒に之を立てて、荊を以て大子と為す。國人始めて之を惡む。閏月、公、越に如く。大子適郢と得て、將に公に妻し、而して多く之に地を與へんとす。公孫有山、季孫に告げしむ。季孫懼れ、大宰嚭に因りて賂を納れしむ。乃ち止む。
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『春秋左氏伝』荘公二十三年 曹劌、観社を諫む二十三年夏、公齊に如きて社を觀る、禮に非ざるなり。曹劌諫めて曰く、「不可なり。夫れ禮は、民を整ふる所以なり。故に會して以って上下の則を訓へ、財用の節を制す。朝して以って班爵の義を正し、長幼の序を帥ゐる。征伐して以って其の然らざるを討つ。諸侯に王有り、王に巡守有り、以って大いに之を習はす。是に非ざれば、君舉げず。君の舉は必ず書す。書して法ならずんば、後嗣何をか觀ん」と。晉の桓・莊の族逼る。獻公之を患ふ。士蒍曰く、「富子を去らば、則ち羣公子謀る可きのみ」と。公曰く、「爾其の事を試みよ」と。士蒍羣公子と謀り、富子を譖して之を去る。秋、桓宮の楹を丹る。
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『春秋左氏伝』昭公十二年 克己復礼王出でて復た語る。左史倚相趨りて過ぐ。王曰く、「是れ良史なり。子善く之を視よ。是れ能く三墳・五典・八索・九丘を讀む」と。對へて曰く、「臣嘗て焉に問ふ。昔穆王其の心を肆にせんと欲し、天下を周行して、將に皆必ず車轍馬跡有らしめんとす。祭公謀父祈招の詩を作りて、以って王の心を止む。王是を以って祗宮に沒するを獲たり。臣其の詩を問ひて知らざるなり。若し遠きを問はば、其れ焉んぞ能く之を知らん」と。王曰く、「子能くするか」と。對へて曰く、「能くす。其の詩に曰く、『祈招の愔愔たる、式て德音を昭らかにす。我が王の度を思ふ、式て玉の如く、式て金の如し。民の力を形りて、醉飽の心無し』と」と。王揖して入り、饋れども食はず、寢ぬれども寐ねず、數日自ら克つこと能はず、以って難に及ぶ。仲尼曰く、「古や志有り、『己に克ちて禮に復るは、仁なり』と。信に善きかな。楚の靈王若し能く是くの如くならば、豈に其れ乾谿に辱められんや」と。晉鮮虞を伐つ。肥の役に因るなり。
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『春秋左氏伝』昭公四年 驕りて諫めを拒む王、椒舉をして後に侍して以て過ちを規さしむ。事を卒ふるまで規さず。王其の故を問ふ。對へて曰く、「禮、吾が未だ見ざる者六つ有り。又何を以てか規さん」と。宋の大子佐後れて至る。王武城に田して、久しくして見ず。椒舉辭せんことを請ふ。王往かしめて曰く、「屬(たまたま)宗祧の事武城に有り。寡君將に幣を墮(おく)らんとす。敢へて見ゆるを後らすを謝す」と。徐子は吳の出なり。以て貳と為す。故に諸を申に執ふ。楚子諸侯に侈りを示す。椒舉曰く、「夫れ六王二公の事は、皆諸侯に示す所以にして、禮なり。諸侯の由りて命を用ふる所なり。夏桀仍の會を為して、有緡之に叛く。商紂黎の蒐を為して、東夷之に叛く。周幽大室の盟を為して、戎狄之に叛く。皆諸侯に示す所以にして、汏(おご)りなり。諸侯の由りて命を棄つる所なり。今君汏りを以てす。乃ち濟らざること無からんや」と。王聽かず。子產左師に見えて曰く、「吾楚を患へず。汏りて諫に愎(もと)る、十年に過ぎず」と。左師曰く、「然り。十年ならずんば侈るも、其の惡遠からず。惡遠くして而る後に棄てらる。善も亦た之の如し。德遠くして而る後に興る」と。
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