春秋左氏伝 / 成公十八年 大国は厭くこと無し
夏。六月。鄭伯侵宋。及曹門外。遂會楚子伐宋。取朝郟。楚子辛。鄭皇辰。侵城郜。取幽丘。同伐彭城。納宋魚石。向為人。鱗朱。向帶。魚府焉。以三百乘戍之而還。書曰復入。凡去其國。國逆而立之曰入。復其位曰復歸。諸侯納之曰歸。以惡曰復入。宋人患之。西鉏吾曰。何也。若楚人與吾同惡。以德於我。吾固事之也。不敢貳矣。大國無厭。鄙我猶憾。不然。而收吾憎。使贊其政。以間吾釁。亦吾患也。今將崇諸侯之姦。而披其地。以塞夷庚。逞姦而攜服。毒諸侯而懼吳晉。吾庸多矣。非吾憂也。且事晉何為。晉必恤之。公至自晉。晉范宣子來聘。且拜朝也。君子謂晉於是乎有禮。秋。杞桓公來朝。勞公。且問晉故。公以晉君語之。杞伯於是驟朝于晉。而請為昏。七月。宋老佐。華喜。圍彭城。老佐卒焉。八月。邾宣公來朝。即位而來見也。築鹿囿。書不時也。己丑。公薨于路寢。言道也。
新字:夏。六月。鄭伯侵宋。及曹門外。遂会楚子伐宋。取朝郟。楚子辛。鄭皇辰。侵城郜。取幽丘。同伐彭城。納宋魚石。向為人。鱗朱。向帯。魚府焉。以三百乗戍之而還。書曰復入。凡去其国。国逆而立之曰入。復其位曰復帰。諸侯納之曰帰。以悪曰復入。宋人患之。西鉏吾曰。何也。若楚人与吾同悪。以徳於我。吾固事之也。不敢貳矣。大国無厭。鄙我猶憾。不然。而収吾憎。使賛其政。以間吾釁。亦吾患也。今将崇諸侯之姦。而披其地。以塞夷庚。逞姦而攜服。毒諸侯而懼呉晋。吾庸多矣。非吾憂也。且事晋何為。晋必恤之。公至自晋。晋范宣子来聘。且拝朝也。君子謂晋於是乎有礼。秋。杞桓公来朝。労公。且問晋故。公以晋君語之。杞伯於是驟朝于晋。而請為昏。七月。宋老佐。華喜。囲彭城。老佐卒焉。八月。邾宣公来朝。即位而来見也。築鹿囿。書不時也。己丑。公薨于路寝。言道也。
書き下し
夏、六月、鄭伯、宋を侵し、曹門の外に及ぶ。遂に楚子に會して宋を伐ち、朝郟を取る。楚の子辛・鄭の皇辰、城郜を侵し、幽丘を取る。同じく彭城を伐ち、宋の魚石・向爲人・鱗朱・向帶・魚府を納(い)る。三百乘を以て之を戍りて還る。書して「復入」と曰ふ。凡そ其の國を去り、國逆へて之を立つるを「入」と曰ひ、其の位に復するを「復歸」と曰ひ、諸侯之を納るるを「歸」と曰ひ、惡を以てするを「復入」と曰ふ。宋人之を患ふ。西鉏吾曰く、「何ぞや。若し楚人吾と惡を同じうし、以て我に德あらば、吾固より之に事へん、敢へて貳せず。大國は厭くこと無し。我を鄙とすら猶ほ憾みとせん。然らずして、吾が憎むものを收め、其の政を贊けしめ、以て吾が釁(すき)を間(うかが)はば、亦た吾が患ひなり。今將に諸侯の姦を崇び、其の地を披(さ)きて、以て夷庚を塞がんとす。姦を逞しくして服を攜(はな)れしめ、諸侯を毒して吳・晉を懼れしむ。吾が庸(こう)多し。吾が憂ひに非ざるなり。且つ晉に事ふるは何爲れぞ。晉必ず之を恤(うれ)へん」と。公、晉より至る。晉の范宣子來聘す。且つ朝を拜するなり。君子謂ふ、晉是に於てか禮有り、と。秋、杞の桓公來朝す。公を勞ひ、且つ晉の故を問ふ。公、晉君を以て之に語る。杞伯是に於て驟(しばしば)晉に朝し、昏を爲さんことを請ふ。七月、宋の老佐・華喜、彭城を圍む。老佐焉に卒す。八月、邾の宣公來朝す。位に即きて來り見ゆるなり。鹿囿を築く。時ならざるを書すなり。己丑、公、路寢に薨ず。道を言ふなり。
現代語訳
夏六月、鄭伯(成公)は宋を侵し、宋都の曹門の外にまで迫った。そのまま楚王(共王)と合流して宋を討ち、朝郟(ちょうこう)を取った。楚の子辛(しじん、公子壬夫)と鄭の皇辰(こうしん)は城郜(じょうこう)を侵し、幽丘を取った。ともに彭城を攻め、宋から亡命していた魚石(ぎょせき)・向為人(しょういじん)・鱗朱(りんしゅ)・向帯(しょうたい)・魚府(ぎょふ)をそこに送り込み、三百乗の兵車で守備させて引き揚げた。『春秋』は「復入」と書いた。およそ国を去った者について、国が迎えて位に立てた場合は「入」と書き、元の位に戻った場合は「復帰」と書き、諸侯の力で送り込まれた場合は「帰」と書き、悪事によって戻った場合は「復入」と書くのである。宋の人々はこれを心配した。西鉏吾(せいしょご)は言った。「何を心配するのか。もし楚が我々と同じく彼らを憎み、我々に恩を施してくれたのなら、我々はもとより楚に仕え、二心を抱くことはできなかっただろう。大国というものは満足することがない。我が国を自分の辺境の属地にしたとしても、なお不足に思うだろう。そうではなく、楚が我々の憎む者たちを抱え込み、彼らに宋の政治を助けさせて、我々の隙をうかがうというなら、それもまた我々の心配の種である。ところが今、楚は諸侯の中の悪人を尊び、その土地を割き取って、晋と呉を結ぶ大道をふさごうとしている。悪人をのさばらせて服従している国々の心を離れさせ、諸侯を害して呉と晋を恐れさせる。我々にとって得るものが多い。心配することではない。それに、我々が晋に仕えているのは何のためか。晋は必ず我々のために心配して動いてくれるだろう」。成公は晋から帰国した。晋の范宣子(はんせんし、士匄)が魯に聘問に来た。成公の朝見に対する答礼である。君子は、晋はこの点で礼にかなっていたと評した。秋、杞の桓公が魯に朝見に来た。成公の労をねぎらい、あわせて晋の様子を尋ねた。成公は晋の新君(悼公)のことを語って聞かせた。杞伯はそこで何度も晋に朝見し、婚姻を結ぶことを願い出た。七月、宋の老佐(ろうさ)と華喜(かき)が彭城を包囲した。老佐はそこで死んだ。八月、邾の宣公が魯に朝見に来た。即位して挨拶に来たのである。魯は鹿の囿(その)を築いた。農時にふさわしくない時期であったので、書き記したのである。己丑の日、成公は路寝(正殿)で薨じた。正しい場所で亡くなったことを言っている。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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