春秋左氏伝 / 成公十七年 殺老牛莫之敢尸
一朝而尸三卿。余不忍益也。對曰。人將忍君。臣聞亂在外為姦。在內為軌。御姦以德。御軌以刑。不施而殺。不可謂德。臣偪而不討。不可謂刑。德刑不立。姦軌並至。臣請行。遂出奔狄。公使辭於二子曰。寡人有討於郤氏。郤氏既伏其辜矣。大夫無辱。其復職位。皆再拜稽首曰。君討有罪而免臣於死。君之惠也。二臣雖死。敢忘君德。乃皆歸。公使胥童為卿。公遊于匠麗氏。欒書。中行偃。遂執公焉。召士匄。士匄辭。召韓厥。韓厥辭。曰。昔吾畜於趙氏。孟姬之讒。吾能違兵。古人有言曰。殺老牛莫之敢尸。而況君乎。二三子不能事君。焉用厥也。舒庸人以楚師之敗也。道吳人圍巢。伐駕。圍釐虺。遂恃吳而不設備。楚公子橐師襲舒庸。滅之。閏月。乙卯。晦。欒書中行偃殺胥童。民不與郤氏。胥童道君為亂。故皆書曰。晉殺其大夫。
新字:一朝而尸三卿。余不忍益也。対曰。人将忍君。臣聞乱在外為姦。在内為軌。御姦以徳。御軌以刑。不施而殺。不可謂徳。臣偪而不討。不可謂刑。徳刑不立。姦軌並至。臣請行。遂出奔狄。公使辞於二子曰。寡人有討於郤氏。郤氏既伏其辜矣。大夫無辱。其復職位。皆再拝稽首曰。君討有罪而免臣於死。君之恵也。二臣雖死。敢忘君徳。乃皆帰。公使胥童為卿。公遊于匠麗氏。欒書。中行偃。遂執公焉。召士匄。士匄辞。召韓厥。韓厥辞。曰。昔吾畜於趙氏。孟姫之讒。吾能違兵。古人有言曰。殺老牛莫之敢尸。而況君乎。二三子不能事君。焉用厥也。舒庸人以楚師之敗也。道呉人囲巣。伐駕。囲釐虺。遂恃呉而不設備。楚公子橐師襲舒庸。滅之。閏月。乙卯。晦。欒書中行偃殺胥童。民不与郤氏。胥童道君為乱。故皆書曰。晋殺其大夫。
書き下し
「一朝にして三卿を尸す。余、益すに忍びざるなり」と。對へて曰く、「人將に君に忍びんとす。臣聞く、亂の外に在るを姦と為し、内に在るを軌と為す。姦を御するには德を以てし、軌を御するには刑を以てす。施さずして殺すは、德と謂ふべからず。臣偪りて討たざるは、刑と謂ふべからず。德・刑立たずんば、姦・軌並び至らん。臣請ふ、行かん」と。遂に出でて狄に奔る。公、辭を二子に使はして曰く、「寡人、郤氏に討つこと有り。郤氏既に其の辜(つみ)に伏せり。大夫辱(はづかし)むること無かれ。其れ職位に復せよ」と。皆再拜稽首して曰く、「君、罪有るを討ちて臣を死より免る、君の惠なり。二臣死すと雖も、敢へて君の德を忘れんや」と。乃ち皆歸る。公、胥童をして卿と為らしむ。公、匠麗氏に遊ぶ。欒書・中行偃、遂に公を執ふ。士匄を召す。士匄辭す。韓厥を召す。韓厥辭して曰く、「昔、吾趙氏に畜はる。孟姬の讒に、吾能く兵を違(さ)けたり。古人言へる有り、曰く、『老牛を殺すすら之を敢へて尸(つかさど)る莫し』と。而るを況んや君をや。二三子、君に事ふること能はず、焉んぞ厥を用ゐん」と。舒庸の人、楚師の敗るるを以て、吳人を道(みちび)きて巢を圍み、駕を伐ち、釐虺(りき)を圍み、遂に吳を恃みて備へを設けず。楚の公子橐師(たくし)、舒庸を襲ひて之を滅ぼす。閏月、乙卯、晦、欒書・中行偃、胥童を殺す。民、郤氏に與せず、胥童、君を道きて亂を為す。故に皆書して曰く、「晉、其の大夫を殺す」と。
現代語訳
「一朝のうちに三人の卿を殺してさらした。これ以上増やすのは忍びない」。長魚矯は答えた。「しかし向こうは君に対して忍ぶことはないでしょう。私はこう聞いています。乱が外から起こるのを姦といい、内から起こるのを軌という。姦を防ぐには徳をもってし、軌を防ぐには刑をもってする、と。恩恵を施さずに殺すのは徳とは言えず、臣下が君に迫っているのに討たないのは刑とは言えません。徳も刑も立たなければ、外の乱も内の乱も一度に押し寄せます。私はお暇をいただきます」。こうして長魚矯は国を出て狄に亡命した。厲公は欒書と中行偃のもとに使者をやって詫び、こう伝えた。「わしは郤氏を討つことがあった。郤氏はすでにその罪に服した。大夫がたは恥じることはない。どうか元の職位に戻られよ」。二人はともに再拝稽首して言った。「君は罪ある者を討たれ、我々を死から免れさせてくださいました。これは君の恩恵です。我ら二人は死んでも、どうして君の徳を忘れましょうか」。そして二人とも帰った。厲公は胥童を卿に任じた。厲公が匠麗氏の家に遊びに出かけると、欒書と中行偃はそこで厲公を捕らえた。二人は士匄(しかい、范宣子)を呼んだが、士匄は断った。韓厥(かんけつ)を呼ぶと、韓厥も断って言った。「かつて私は趙氏に養われていました。孟姫(趙荘姫)の讒言で趙氏が討たれたときも、私は兵を出すことを避けることができました。昔の人の言葉に『年老いた牛を殺すことでさえ、誰も進んでその役を引き受けない』とあります。まして君主ならなおさらです。あなたがたが君に仕えることができないからといって、どうして私を使おうとするのですか」。一方、舒庸(じょよう、楚に服属する小国)の人々は、楚軍が鄢陵で敗れたのをよいことに、呉の軍を導いて巣を包囲し、駕を攻め、釐虺を包囲した。そして呉を頼みにして守りを固めなかった。楚の公子橐師(たくし)が舒庸を急襲して滅ぼした。閏月の乙卯、月末の日に、欒書と中行偃は胥童を殺した。民は郤氏に味方せず、胥童は君を導いて乱を起こした。だから『春秋』はどちらの死も、罪ある者を国が誅したという意味で「晋がその大夫を殺した」と書いたのである。
解説
この章句が説くこと
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