春秋左氏伝 / 成公八年 勇夫すら閉を重ぬ
夏。宋公使公孫壽來納幣。禮也。晉趙莊姬為趙嬰之亡故。譖之于晉侯。曰。原屏將為亂。欒郤為徵。六月。晉討趙同。趙括。武從姬氏畜于公宮。以其田與祁奚。韓厥言於晉侯曰。成季之勳。宣孟之忠。而無後。為善者其懼矣。三代之令王。皆數百年保天之祿。夫豈無辟王。賴前哲以免也。周書曰。不敢侮鰥寡。所以明德也。乃立武而反其田焉。秋。召桓公來賜公命。晉侯使申公巫臣如吳。假道于莒。與渠丘公立於池上。曰。城已惡。莒子曰。辟陋在夷。其孰以我為虞。對曰。夫狡焉思啟封疆。以利社稷者。何國蔑有。唯然。故多大國矣。唯或思或縱也。勇夫重閉。況國乎。
新字:夏。宋公使公孫寿来納幣。礼也。晋趙荘姫為趙嬰之亡故。譖之于晋侯。曰。原屏将為乱。欒郤為徴。六月。晋討趙同。趙括。武従姫氏畜于公宮。以其田与祁奚。韓厥言於晋侯曰。成季之勲。宣孟之忠。而無後。為善者其懼矣。三代之令王。皆数百年保天之禄。夫豈無辟王。頼前哲以免也。周書曰。不敢侮鰥寡。所以明徳也。乃立武而反其田焉。秋。召桓公来賜公命。晋侯使申公巫臣如呉。仮道于莒。与渠丘公立於池上。曰。城已悪。莒子曰。辟陋在夷。其孰以我為虞。対曰。夫狡焉思啓封疆。以利社稷者。何国蔑有。唯然。故多大国矣。唯或思或縦也。勇夫重閉。況国乎。
書き下し
夏、宋公公孫壽をして來りて幣を納れしむ。禮なり。晉の趙莊姬趙嬰の亡の故を為して、之を晉侯に譖して曰く、「原・屏將に亂を為さんとす。欒・郤徵を為す」と。六月、晉趙同・趙括を討つ。武姬氏に從ひて公宮に畜はる。其の田を以て祁奚に與ふ。韓厥晉侯に言ひて曰く、「成季の勳、宣孟の忠にして、後無くんば、善を為す者其れ懼れん。三代の令王、皆數百年天の祿を保つ。夫れ豈に辟王無からんや。前哲に賴りて以て免るるなり。周書に曰く、『敢へて鰥寡を侮らず』と。德を明らかにする所以なり」と。乃ち武を立てて其の田を反す。秋、召の桓公來りて公に命を賜ふ。晉侯申公巫臣をして吳に如かしむ。道を莒に假る。渠丘公と池上に立ちて曰く、「城已だ惡し」と。莒子曰く、「辟陋にして夷に在り、其れ孰か我を以て虞と為さん」と。對へて曰く、「夫れ狡焉として封疆を啟きて、以て社稷を利せんと思ふ者は、何れの國か蔑からん。唯だ然り、故に大國多し。唯だ或いは思ひ或いは縱にするのみ。勇夫すら閉を重ぬ、況んや國をや」と。
現代語訳
夏、宋公(共公)は公孫寿を遣わして結納の品を納めさせた。これは礼にかなっていた。晋の趙荘姫は、愛人の趙嬰が追放されたことを恨んで、晋侯(景公)に讒言して言った。「原(趙同)と屏(趙括)が乱を起こそうとしています。欒氏と郤氏がその証人です」。六月、晋は趙同と趙括を討った。趙武(荘姫の子)は母の姫氏に従って公宮で養われていた。晋侯は趙氏の田地を祁奚に与えた。韓厥が晋侯に言った。「成季(趙衰)の勲功、宣孟(趙盾)の忠節がありながら、その家に跡継ぎがなくなれば、善を行う者はみな恐れるでしょう。夏・殷・周三代の立派な王は、みな数百年にわたって天の禄を保ちました。その間に悪い王がいなかったわけではありません。先代の賢人の功業に頼って滅亡を免れたのです。周書に『やもめや身寄りのない者をあなどらない』とあります。それこそが徳を明らかにするということです」。そこで趙武を跡継ぎに立て、その田地を返した。秋、召の桓公が周王の使いとして来て、成公に命を賜った。晋侯は申公巫臣を呉に遣わした。巫臣は莒に道を借りた。莒の渠丘公と池のほとりに立って、巫臣は言った。「城壁がひどく傷んでいますね」。莒子は言った。「辺鄙な土地で夷のあいだにあります。誰が我が国を狙いなどしましょう」。巫臣は答えた。「ずる賢く領土を広げて自国の利益を図ろうと考える者のいない国がありましょうか。だからこそ大国が多いのです。ただ、それを考える国と、考えずに放っておく国があるだけです。勇者でさえ戸締まりを重ねるのです。まして国ならなおさらです」。
解説
この章句が説くこと
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