春秋左氏伝 / 成公五年 華氏を攻むるを習ふ
秋。八月。鄭伯及晉趙同盟于垂棘。宋公子圍龜為質于楚而歸。華元享之。請鼓譟以出。鼓譟以復入。曰。習攻華氏。宋公殺之。冬。同盟于蟲牢。鄭服也。諸侯謀復會。宋公使向為人辭以子靈之難。十一月。己酉。定王崩。
新字:秋。八月。鄭伯及晋趙同盟于垂棘。宋公子囲亀為質于楚而帰。華元享之。請鼓譟以出。鼓譟以復入。曰。習攻華氏。宋公殺之。冬。同盟于虫牢。鄭服也。諸侯謀復会。宋公使向為人辞以子霊之難。十一月。己酉。定王崩。
書き下し
秋八月、鄭伯晉の趙同と垂棘に盟ふ。宋の公子圍龜楚に質と為りて歸る。華元之を享す。鼓譟して以て出で、鼓譟して以て復た入らんと請ふ。曰く、「華氏を攻むるを習ふ」と。宋公之を殺す。冬、蟲牢に同盟す。鄭服すればなり。諸侯復た會せんことを謀る。宋公向為人をして辭するに子靈の難を以てせしむ。十一月己酉、定王崩ず。
現代語訳
秋八月、鄭伯は晋の趙同と垂棘で盟を結んだ。宋の公子囲亀(いき、字は子霊)は楚で人質となっていたが、帰国した。華元が彼を饗応すると、囲亀は、太鼓を打ち鳴らし喚声をあげて華元の屋敷の門を出て、また太鼓を打ち喚声をあげて入ることを許してほしいと願い出て、「華氏を攻める練習だ」と言った。宋公(共公)は囲亀を殺した。冬、諸侯は蟲牢で同盟した。鄭が服従したからである。諸侯が再び会合しようと相談したが、宋公は向為人(しょういじん)を遣わし、子霊(囲亀)の騒動を理由に辞退させた。十一月己酉の日、周の定王が崩じた。
解説
短い記事の中に、宋の公子囲亀の奇怪な事件が挟まれている。囲亀は楚に人質として送られていたが、その人選に執政の華元が関わっていたためか、恨みは華元に向けられた。帰国して華元に招かれた席で、太鼓を鳴らし喚声をあげて出入りし、「華氏を攻むるを習ふ」と言い放った。人質に出された恨みをあからさまに示したのである。宋公はこれを見過ごせず囲亀を殺した。国のための人質という役目を負わされた者の不満は、処遇を誤ると内乱の火種になる。その後、宋はこの騒動を理由に諸侯の会合を辞退し、それが翌年、晋を中心とする諸侯から宋が攻められる口実となる。一つの私怨が外交の不参加につながり、さらに軍事行動を招くという連鎖を、左伝はわずかな字数で記している。損な役回りを引き受けた人の不満をどう受け止めるかは、組織の安定を左右する問題である。
この章句が説くこと
私怨人質処遇内乱連鎖
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