春秋左氏伝 / 成公十五年 華元、晋に奔る
秋。八月。葬宋共公。於是華元為右師。魚石為左師。蕩澤為司馬。華喜為司徒。公孫師為司城。向為人為大司寇。鱗朱為少司寇。向帶為大宰。魚府為少宰。蕩澤弱公室。殺公子肥。華元曰。我為右師。君臣之訓。師所司也。今公室卑而不能正。吾罪大矣。不能治官。敢賴寵乎。乃出奔晉。二華。戴族也。司城。莊族也。六官者。皆桓族也。魚石將止華元。魚府曰。右師反必討。是無桓氏也。魚石曰。右師苟獲反。雖許之討。必不敢。且多大功。國人與之。不反。懼桓氏之無祀於宋也。右師討。猶有戌在。桓氏雖亡。必偏。魚石自止華元于河上。請討。許之。乃反。使華喜。公孫師。帥國人攻蕩氏。殺子山。書曰。宋殺大夫山。言背其族也。魚石。向為人。鱗朱。向帶。魚府。出舍於雎上。華元使止之。不可。
新字:秋。八月。葬宋共公。於是華元為右師。魚石為左師。蕩沢為司馬。華喜為司徒。公孫師為司城。向為人為大司寇。鱗朱為少司寇。向帯為大宰。魚府為少宰。蕩沢弱公室。殺公子肥。華元曰。我為右師。君臣之訓。師所司也。今公室卑而不能正。吾罪大矣。不能治官。敢頼寵乎。乃出奔晋。二華。戴族也。司城。荘族也。六官者。皆桓族也。魚石将止華元。魚府曰。右師反必討。是無桓氏也。魚石曰。右師苟獲反。雖許之討。必不敢。且多大功。国人与之。不反。懼桓氏之無祀於宋也。右師討。猶有戌在。桓氏雖亡。必偏。魚石自止華元于河上。請討。許之。乃反。使華喜。公孫師。帥国人攻蕩氏。殺子山。書曰。宋殺大夫山。言背其族也。魚石。向為人。鱗朱。向帯。魚府。出舎於雎上。華元使止之。不可。
書き下し
秋、八月、宋の共公を葬る。是に於いて華元右師為り、魚石左師為り、蕩澤司馬為り、華喜司徒為り、公孫師司城為り、向為人大司寇為り、鱗朱少司寇為り、向帶大宰為り、魚府少宰為り。蕩澤公室を弱めんとし、公子肥を殺す。華元曰く、「我右師為り。君臣の訓は、師の司る所なり。今公室卑くして正す能はず、吾が罪大なり。官を治むる能はずして、敢へて寵に賴らんや」と。乃ち出でて晉に奔る。二華は戴族なり。司城は莊族なり。六官の者は、皆桓族なり。魚石將に華元を止めんとす。魚府曰く、「右師反らば必ず討たん。是れ桓氏無からん」と。魚石曰く、「右師苟も反るを獲ば、之に討を許すと雖も、必ず敢へてせじ。且つ大功多く、國人之に與す。反らずんば、桓氏の宋に祀無きを懼る。右師討つとも、猶ほ戌の在る有り。桓氏亡ぶと雖も、必ず偏ならん」と。魚石自ら華元を河上に止む。討たんことを請ふ。之を許す。乃ち反る。華喜・公孫師をして國人を帥ゐて蕩氏を攻めしめ、子山を殺す。書して曰く「宋其の大夫山を殺す」と。其の族に背くを言ふなり。魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府、出でて雎上に舍る。華元之を止めしむ。可かず。
現代語訳
秋八月、宋の共公を葬った。このとき宋の官職は、華元が右師、魚石が左師、蕩沢が司馬、華喜が司徒、公孫師が司城、向為人が大司寇、鱗朱が少司寇、向帯が大宰、魚府が少宰であった。蕩沢は公室の力を弱めようとして、公子肥(共公の太子)を殺した。華元は言った。「私は右師である。君臣の間の秩序を教え正すのは、師の務めである。いま公室が衰えているのにそれを正すことができない。私の罪は大きい。官職を治めることもできないで、どうして君の寵遇に頼っていられようか」。そこで国を出て晋へ向かった。華元・華喜の二華は戴公から出た一族、司城の公孫師は荘公から出た一族で、残る六つの官職の者はみな桓公から出た一族であった。魚石は華元を引き止めようとした。魚府が言った。「右師が戻れば、必ず蕩沢を討つでしょう。そうなれば同じ桓公の一族である我々はいなくなってしまいます」。魚石は言った。「右師がもし戻ってこられるなら、たとえ討伐を許しても、我々桓族まで討つことは決してしないだろう。しかも右師は大きな功績が多く、国人も彼に味方している。もし戻らなければ(晋の力を借りて攻めてきて)、桓氏が宋で祭祀を絶やされることになりかねない。右師が討つとしても、まだ(右師と親しい桓族の)向戌がいる。桓氏が滅びるとしても、一部で済むはずだ」。魚石は自ら黄河のほとりで華元を引き止めた。華元は蕩沢を討つことを求め、魚石はこれを許した。そこで華元は戻り、華喜と公孫師に国人を率いさせて蕩氏を攻め、子山(蕩沢)を殺した。『春秋』が「宋がその大夫の山を殺した」と書き、一族の名の「蕩」を記さなかったのは、蕩沢が公族の出でありながら自らの一族(公室)に背いたことを示すためである。魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府の五人は、都を出て雎水のほとりに留まった。華元は人をやって彼らを引き止めさせたが、聞き入れなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 張耳陳余列伝貫高独り怒り罵りて曰く、「誰か公をして之を為さしめし。今王実に謀無くして、并せて王を捕ふ。公等皆死せば、誰か王の反せざるを白さん」と。乃ち轞車に膠致せられ、王と長安に詣る。張敖の罪を治む。上乃ち趙の群臣賓客に詔すらく、敢て王に従ふ有らば皆族せんと。貫高と客孟舒等十余人と、皆自ら髡鉗し、王の家奴と為りて従ひ来たる。貫高至り、獄に対へて曰く、「独り吾が属之を為す。王実に知らず」と。吏治めて榜笞すること数千、刺剟して、身に撃つべき者無きも、終に復た言はず。呂后数々言ふ、張王は魯元公主の故を以て、宜しく此れ有るべからずと。上怒りて曰く、「張敖をして天下に拠らしめば、豈に而が女を少しとせんや」と。聴かず。廷尉貫高の事の辞を以て聞す。上曰く、「壮士なり。誰か知る者ぞ。私を以て之に問へ」と。中大夫泄公曰く、「臣の邑子にして、素より之を知る。此れ固より趙国の名義を立てて侵されず、然諾を為す者なり」と。上泄公をして節を持して之に箯輿の前に問はしむ。仰ぎ視て曰く、「泄公か」と。泄公労苦すること生平の驩の如く、与に語り、張王果して計謀有りや不やを問ふ。高曰く、「人情寧ぞ各々其の父母妻子を愛せざらんや。今吾が三族皆以て死に論ぜらる。豈に王を以て吾が親に易へんや。顧ふに王実に反せず、独り吾等之を為せり」と。具に本指の為す所以と王の知らざる状とを道ふ。是に於て泄公入り、具に以て報ず。上乃ち趙王を赦す。上貫高の人と為り能く然諾を立つるを賢とし、泄公をして具に之に告げしめて曰く、「張王已に出でたり」と。因りて貫高を赦す。貫高喜びて曰く、「吾が王審らかに出でたるか」と。泄公曰く、「然り」と。泄公曰く、「上足下を多とす。故に足下を赦す」と。貫高曰く、「死せずして一身に余無き所以の者は、張王の反せざるを白さんとすればなり。今王已に出づ。吾が責已に塞がる。死すとも恨みず。且つ人臣として篡殺の名有り、何の面目ありて復た上に事へんや。縦ひ上我を殺さずとも、我心に愧ぢざらんや」と。乃ち仰ぎて骯を絶ち、
-
論語・衛霊公篇子曰わく、君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む。
-
論語・季氏篇孔子曰く、禄の公室を去ること、五世なり。政の大夫に逮ぶこと、四世なり。故に夫の三桓の子孫、微なり。
-
論語・憲問篇子曰く、「我を知ること莫きかな。」子貢曰く、「何為れぞ其れ子を知ること莫からんや。」子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は、其れ天か。」
-
論語・里仁篇子曰わく、父母在すれば、遠く遊ばず。遊ぶに必ず方有り。
-
史記 李将軍列伝広大将軍に謝せずして起ちて行き、意甚だ慍怒して部に就き、兵を引きて右将軍食其と軍を合はせて東道より出づ。軍に導亡く、或いは道を失ひ、大将軍に後る。大将軍単于と接戦し、単于遁走し、得る能はずして還る。南のかた幕を絶りて、前将軍・右将軍に遇ふ。広已に大将軍に見え、還りて軍に入る。大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺らしめ、因りて広・食其の道を失ひし状を問ふ。青書を上りて天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。広未だ対へず。大将軍長史をして急に広を責めて幕府に之きて簿に対へしむ。広曰く、「諸校尉は罪無し。乃ち我自ら道を失へり。吾今自ら簿に上らん」と。莫府に至り、広其の麾下に謂ひて曰く、「広結髪より匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひて出でて単于の兵に接す。而るに大将軍又広の部を徙して行くこと回遠にし、而して又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず」と。遂に刀を引きて自剄す。広の軍の士大夫一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く皆為に涕を垂る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る