春秋左氏伝 / 宣公十五年 華元、子反の床に登る
夏,五月,楚師將去宋,申犀稽首於王之馬前,曰:「毋畏知死,而不敢廢王命,王棄言焉。」王不能荅。申叔時僕曰:「築室反耕者,宋必聽命。」從之,宋人懼,使華元夜入楚師,登子反之床,起之曰:「寡君使元以病告,曰:『敝邑易子而食,析骸以爨,雖然,城下之盟,有以國斃,不能從也。去我三十里,唯命是聽。』」子反懼,與之盟,而告王,退三十里。宋及楚平,華元為質,盟曰:「我無爾詐,爾無我虞。」潞子嬰兒之夫人,晉景公之姊也,酆舒為政而殺之,又傷潞子之目。
新字:夏,五月,楚師将去宋,申犀稽首於王之馬前,曰:「毋畏知死,而不敢廃王命,王棄言焉。」王不能荅。申叔時僕曰:「築室反耕者,宋必聴命。」従之,宋人懼,使華元夜入楚師,登子反之床,起之曰:「寡君使元以病告,曰:『敝邑易子而食,析骸以爨,雖然,城下之盟,有以国斃,不能従也。去我三十里,唯命是聴。』」子反懼,与之盟,而告王,退三十里。宋及楚平,華元為質,盟曰:「我無爾詐,爾無我虞。」潞子嬰児之夫人,晋景公之姊也,酆舒為政而殺之,又傷潞子之目。
書き下し
夏、五月、楚の師將に宋を去らんとす。申犀王の馬前に稽首して、曰く、「毋畏は死を知れども、敢へて王命を廢せず。王言を棄てたり」と。王荅ふること能はず。申叔時僕たり、曰く、「室を築き耕す者を反さば、宋必ず命を聽かん」と。之に從ふ。宋人懼れ、華元をして夜楚の師に入らしむ。子反の床に登り、之を起して曰く、「寡君元をして病を以て告げしめて、曰く、『敝邑子を易へて食ひ、骸を析きて以て爨く。然りと雖も、城下の盟は、國を以て斃るる有るも、從ふこと能はざるなり。我を去ること三十里ならば、唯だ命を是れ聽かん』と」と。子反懼れ、之と盟ひて、王に告ぐ。退くこと三十里。宋楚と平らぐ。華元質と為る。盟ひて曰く、「我爾を詐ること無く、爾我を虞ること無かれ」と。潞子嬰兒の夫人は、晉の景公の姊なり。酆舒政を為して之を殺し、又潞子の目を傷つく。
現代語訳
夏五月、楚軍は宋の包囲を解いて去ろうとした。申犀(申舟の子)が王の馬の前で額を地につけて言った。「わが父毋畏(申舟)は死ぬと分かっていながら、あえて王の命令に背きませんでした。それなのに王はご自分の言葉をお捨てになるのですか」。王は答えることができなかった。申叔時が王の御者を務めていて言った。「宋の地に家を建て、田を耕す兵を帰らせる(長期の包囲の構えを見せる)なら、宋は必ず命令に従いましょう」。王はこれに従った。宋人は恐れ、華元に夜ひそかに楚の陣へ忍び込ませた。華元は子反(公子側、楚の司馬)の寝床に上り、揺り起こして言った。「わが君は私に、窮状をありのままお伝えせよと命じて、こう言われました。『わが国では子を取り替えて食べ、死者の骨を割いて薪にしている。しかしそれでも、城下で屈服の盟いを結ぶことだけは、国が滅びようともできない。わが国から三十里退いてくれるなら、どんな命令にも従おう』と」。子反は恐れて、華元と盟いを結び、王に告げた。楚軍は三十里退いた。宋は楚と和睦し、華元が人質となった。盟いの言葉は「われはなんじを欺かず、なんじはわれを疑うな」であった。潞子嬰児(赤狄の国、潞の君)の夫人は、晋の景公の姉であった。酆舒(潞の執政)が政治を握って夫人を殺し、さらに潞子の目を傷つけた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』成公十二年 宋西門の盟十二年春、王の使、周公の難を以って來り告ぐ。書して曰く「周公出でて晉に奔る」と。凡そ周よりは出づること無し。周公自ら出づるが故なり。宋の華元克く晉・楚の成を合す。夏、五月、晉の士燮、楚の公子罷・許偃に會す。癸亥、宋の西門の外に盟ふ。曰く、「凡そ晉・楚は相戎を加ふること無く、好惡之を同じくし、同じく菑危を恤へ、凶患を備救せん。若し楚を害する有らば、則ち晉之を伐ち、晉に在りても、楚も亦た之の如くせん。贄を交へて往來し、道路壅がること無く、其の協はざるを謀りて、不庭を討たん。此の盟を渝ふる有らば、明神之を殛し、其の師を隊さしめ、國を胙つに克つこと無からしめん」と。鄭伯晉に如きて成を聽き、瑣澤に會す。成の故なり。狄人宋の盟に間して以って晉を侵し、而して備へを設けず。
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『春秋左氏伝』昭公二十年 人質を殺して攻む宋の華・向の亂に、公子城・公孫忌・樂舍・司馬彊・向宜・向鄭・楚建・郳甲、出でて鄭に奔る。其の徒華氏と鬼閻に戰ひ、子城を敗る。子城晉に適く。華亥其の妻と、必ず盥ひて質とする所の公子に食はしめて、而る後に食ふ。公と夫人と、每日必ず華氏に適き、公子に食はしめて而る後に歸る。華亥之を患へ、公子を歸さんと欲す。向寧曰く、「唯だ信ならず、故に其の子を質とす。若し又之を歸さば、死すること日無からん」と。公華費遂に請ひて、將に華氏を攻めんとす。對へて曰く、「臣敢へて死を愛しまず。乃ち憂ひを去らんことを求めて滋々長ずること無からんや。臣是を以て懼る。敢へて命を聽かざらんや」と。公曰く、「子の死亡は命有り。余其の訽(はぢ)に忍びず」と。冬、十月、公華・向の質を殺して之を攻む。戊辰、華・向陳に奔り、華登吳に奔る。向寧大子を殺さんと欲す。華亥曰く、「君を干して出で、又其の子を殺さば、其れ誰か我を納れん。且つ之を歸すは庸(いさを)有り」と。少司寇牼をして以て歸らしめて、曰く、「子の齒長ぜり。人に事ふる能はず。三公子を以て質と為さば、必ず免れん」と。公子既に入る。華牼將に門より行かんとす。公遽かに之を見、其の手を執りて曰く、「余而(なんぢ)の罪無きを知る。入りて而の所に復れ」と。
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史記 宋微子世家宋人共に君御を殺して成公の少子杵臼を立つ。是を昭公と為す。昭公の四年、宋長翟の縁斯を長丘に敗る。七年、楚の荘王即位す。九年、昭公無道にして、国人附かず。昭公の弟鮑革賢にして士に下る。先に、襄公の夫人公子鮑に通ぜんと欲するも、可かず。乃ち之を助けて国に施さしめ、大夫華元に因りて右師と為す。昭公出でて猟す。夫人王姫衛伯をして昭公杵臼を攻め殺さしむ。弟の鮑革立つ。是を文公と為す。文公の元年、晋諸侯を率ゐて宋を伐ち、責むるに君を弑するを以てす。文公の定まりて立つを聞き、乃ち去る。二年、昭公の子文公の母弟須と武・繆・戴・荘・桓の族とに因りて乱を為す。文公尽く之を誅し、武・繆の族を出す。四年春、楚鄭に命じて宋を伐たしむ。宋華元をして将たらしむ。鄭宋を敗り、華元を囚ふ。華元の将に戦はんとするや、羊を殺して以て士に食はしむ。其の御に羊羹及ばず。故に怨み、馳せて鄭の軍に入る。故に宋の師敗れ、華元を囚ふるを得たり。宋兵車百乗・文馬四百匹を以て華元を贖ふ。未だ尽くは入らざるに、華元亡げて宋に帰る。十四年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯楚に降る。楚復た之を釈す。十六年、楚の使ひ宋を過ぐ。宋前の仇有り、楚の使ひを執ふ。九月、楚の荘王宋を囲む。十七年、楚宋を囲むこと五月なるを以て解けず。宋の城中急にして、食無し。華元乃ち夜私かに楚の将子反に見ゆ。子反荘王に告ぐ。王問ふ、「城中何如」と。曰く、「骨を析きて炊ぎ、子を易へて食らふ」と。荘王曰く、「誠なるかな言。我が軍も亦た二日の糧有るのみ」と。信を以ての故に、遂に兵を罷めて去る。二十二年、文公卒し、子の共公瑕立つ。始めて厚葬す。君子華元の臣ならざるを譏る。共公の十年、華元楚の将子重に善く、又晋の将欒書に善く、両つながら晋・楚に盟ふ。十三年、共公卒す。華元右師と為り、魚石左師と為る。
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『春秋左氏伝』成公十一年 會は信の始め秋、宣伯齊に聘し、以て前好を脩む。晉の郤至周と鄇田を爭ふ。王劉の康公・單の襄公に命じて諸を晉に訟へしむ。郤至曰く、「溫は吾が故なり。故に敢へて失はず」と。劉子・單子曰く、「昔周商に克ち、諸侯をして封を撫せしむ。蘇忿生溫を以て司寇と為り、檀伯達と河に封ぜらる。蘇氏狄に即き、又狄に能はずして、衛に奔る。襄王文公を勞ひて、之に溫を賜ふ。狐氏・陽氏、先づ之に處りて、而る後に子に及ぶ。若し其の故を治めば、則ち王官の邑なり。子安んぞ之を得ん」と。晉侯郤至をして敢へて爭ふ勿からしむ。宋の華元令尹子重に善く、又欒武子に善し。楚人既に晉の糴茷に成を許して、歸りて命を復せしむと聞く。冬、華元楚に如き、遂に晉に如きて、晉楚の成を合はす。秦晉成を為す。將に令狐に會せんとす。晉侯先づ至る。秦伯河を涉るを肯ぜず、王城に次る。史顆をして晉侯と河東に盟はしむ。晉の郤犨秦伯と河西に盟ふ。范文子曰く、「是の盟や、何の益かあらん。齊盟は、信を質す所以なり。會は信の始めなり。始めに之れ從はずんば、其れ何をか質さん」と。秦伯歸りて晉の成に背く。
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呂氏春秋・行論⑤楚の莊王、文無畏をして齊に使いせしむ。宋を過ぐるに、先づ道を假らず。還反らんとするや、華元、宋の昭公に言いて曰く、「往きて道を假らず、來たりて道を假らざるは、是れ宋を以て野鄙と為すなり。楚の會田するや、故らに君の僕を孟諸に鞭うてり。請う之を誅せん。」乃ち文無畏を揚梁の隄に殺す。莊王方に袂を削し、之を聞きて曰く、「嘻。」袂を投じて起ち、履は諸を庭に及び、劍は諸を門に及び、車は之を蒲疏の市に及び、遂に郊に舎し、師を興して宋を圍むこと九月。宋人、子を易えて之を食らい、骨を析きて之を爨ぐ。宋公、肉袒して犧を執り、委服して病しめるを告ぐ、曰く、「大國若し之を宥圖せば、唯だ命を是れ聽かん。」莊王曰く、「情なるかな、宋公の言や。」乃ち為に卻くこと四十里にして、盧門の闔に舎す。成ぎを為して歸る所以なり。凡そ事の本は人主に在り、人主の患いは、事を先にして人を簡るに在り。人を簡れば則ち事窮す。今人臣死して當たらずとし、親ら士民を帥いて以て其の故を討ちしは、人を簡らずと謂う可し。宋公服して病しみを以て告げ、而して師を還ししは、窮せずと謂う可し。夫れ諸侯を漢陽に合して飲至せし者は、其れ義を以て進退すればなるか。彊以て此を成すに足らざるなり。
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『春秋左氏伝』宣公十五年 鞭長くとも馬腹に及ばず十五年春、公孫歸父楚子に宋に會す。宋人樂嬰齊をして急を晉に告げしむ。晉侯之を救はんと欲す。伯宗曰く、「不可なり。古人言へる有りて曰く、『鞭の長しと雖も、馬の腹に及ばず』と。天方に楚に授く、未だ與に爭ふべからず。晉の彊きと雖も、能く天に違はんや。諺に曰く、『高下は心に在り。川澤は汙を納れ、山藪は疾を藏し、瑾瑜は瑕を匿す。國君垢を含むは、天の道なり』と。君其れ之を待て」と。乃ち止む。解揚をして宋に如かしめ、楚に降ること無からしめて、曰く、「晉の師悉く起ち、將に至らんとす」と。鄭人囚へて諸を楚に獻ず。楚子厚く之に賂ひ、其の言を反さしめんとす、許さず。三たびにして之を許す。諸を樓車に登らせ、宋に呼ばはりて之に告げしむ。遂に其の君命を致す。楚子將に之を殺さんとし、之に言はしめて曰く、「爾既に不穀に許して、之に反くは、何の故ぞ。我に信無きに非ず、女則ち之を棄てたり、速かに爾の刑に即け」と。對へて曰く、「臣之を聞く、君能く命を制するを義と為し、臣能く命を承くるを信と為す。信義を載せて之を行ふを利と為す。謀りて利を失はず、以て社稷を衛るは、民の主なり。義に二信無く、信に二命無し。君の臣に賂ふは、命を知らざるなり。命を受けて以て出づ、死有りて霣すこと無し、又賂ふべけんや。臣の君に許せしは、以て命を成さんとなり。死して命を成すは、臣の祿なり。寡君に信臣有り、下臣考を獲たり、死して又何をか求めん」と。楚子之を舍して以て歸す。
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