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春秋左氏伝 / 成公二年 蜀の匱盟

冬。楚師侵衛。遂侵我師于蜀。使臧孫往。辭曰。楚遠而久。固將退矣。無功而受名。臣不敢。楚侵及陽橋。孟孫請往賂之。以執斲執鍼織紝。皆百人。公衡為質。以請盟。楚人許平。十一月。公及楚公子嬰齊。蔡侯。許男。秦右大夫說。宋華元。陳公孫寧。衛孫良夫。鄭公子去疾。及齊國之大夫。盟于蜀。卿不書匱盟也。於是乎畏晉而竊與楚盟。故曰匱盟。蔡侯許男不書。乘楚車也。謂之失位。君子曰。位其不可不慎也乎。蔡許之君。一失其位。不得列於諸侯。

新字:冬。楚師侵衛。遂侵我師于蜀。使臧孫往。辞曰。楚遠而久。固将退矣。無功而受名。臣不敢。楚侵及陽橋。孟孫請往賂之。以執斲執鍼織紝。皆百人。公衡為質。以請盟。楚人許平。十一月。公及楚公子嬰斉。蔡侯。許男。秦右大夫説。宋華元。陳公孫寧。衛孫良夫。鄭公子去疾。及斉国之大夫。盟于蜀。卿不書匱盟也。於是乎畏晋而窃与楚盟。故曰匱盟。蔡侯許男不書。乗楚車也。謂之失位。君子曰。位其不可不慎也乎。蔡許之君。一失其位。不得列於諸侯。

書き下し

冬、楚の師衛を侵し、遂に我が師を蜀に侵す。臧孫をして往かしむ。辭して曰く、「楚遠くして久し、固より將に退かんとす。功無くして名を受くるは、臣敢へてせず」と。楚侵して陽橋に及ぶ。孟孫往きて之に賂はんと請ふ。執斲・執鍼・織紝を以てす、皆百人。公衡質と為りて、以て盟を請ふ。楚人平を許す。十一月、公楚の公子嬰齊・蔡侯・許男・秦の右大夫說・宋の華元・陳の公孫寧・衛の孫良夫・鄭の公子去疾、及び齊國の大夫と、蜀に盟ふ。卿書せざるは、盟を匱(いつは)ればなり。是に於てか晉を畏れて竊かに楚と盟ふ。故に匱盟と曰ふ。蔡侯・許男書せざるは、楚の車に乘ればなり。之を位を失ふと謂ふ。君子曰く、「位は其れ慎まざるべからざるかな。蔡・許の君、一たび其の位を失ひて、諸侯に列するを得ず。

現代語訳

冬、楚の軍は衛を侵し、さらに蜀にいたわが(魯の)軍を侵した。魯は臧孫(臧宣叔)を楚の陣へ講和に行かせようとしたが、臧孫は辞退して言った。「楚は遠くから来て長く陣を張っています。放っておいても退くはずです。功もないのに名を受けることは、私にはできません」。楚は侵攻して陽橋にまで至った。孟孫(孟献子)が出向いて賄賂を贈りたいと願い出た。大工・縫い子・織り子をそれぞれ百人ずつ贈り、公衡(成公の子)を人質とし、盟約を求めた。楚の人々は講和を承知した。十一月、成公は楚の公子嬰斉(子重)、蔡侯、許男、秦の右大夫説、宋の華元、陳の公孫寧、衛の孫良夫、鄭の公子去疾、および斉の大夫と、蜀で盟を結んだ。『春秋』がこの盟に参加した卿たちの名を記さないのは、誠意のない盟だったからである。このとき諸国は晋を恐れながら、ひそかに楚と盟を結んだ。だから「匱盟(いつわりの盟)」というのである。蔡侯と許男の名を記さないのは、彼らが楚王の車に(左右の随員として)乗っていたからである。これを「位を失う」という。君子は言った。「位というものは、慎まないわけにはいかないものだ。蔡と許の君は、ひとたびその位を失って、諸侯の列に数えられなくなった。

解説

陽橋の役の結末である。大軍で迫る楚に対し、臧宣叔は「楚遠くして久し、固より將に退かんとす」と読み、功なくして名を受けることを避けて講和の使者を断った。結局、魯は工人三百人と公子を差し出して盟を買う。続く蜀の盟には十余国が参加したが、『春秋』は各国の卿の名を記さない。左伝はそれを、晋を恐れながら陰で楚と結んだ「匱盟」、つまり中身のない盟だったからだと説く。記録から名を外すこと自体が評価になっているのである。さらに蔡侯・許男の名が落ちているのは、楚王の車に左右として乗り、君主でありながら臣下の位置に身を置いたからだという。君子の評は次の句にまたがり、「位は慎まざるべからず」と続く。肩書きは与えられた時点で終わるものではなく、どの場所に立ち、誰の車に乗るかという振る舞いの一つ一つで保たれたり失われたりするものである。

この章句が説くこと

名分位書法盟約面従

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