春秋左氏伝 / 成公二年 巫臣、夏姫を諫む
九月。衛穆公卒。晉二子自役弔焉。哭於大門之外。衛人逆之。婦人哭於門內。送亦如之。遂常以葬。楚之討陳夏氏也。莊王欲納夏姬。申公巫臣曰。不可。君召諸侯。以討罪也。今納夏姬。貪其色也。貪色為淫。淫為大罰。周書曰。明德慎罰。文王所以造周也。明德。務崇之之謂也。慎罰。務去之之謂也。若興諸侯。以取大罰。非慎之也。君其圖之。王乃止。子反欲取之。巫臣曰。是不祥人也。是夭子蠻。殺御叔。弒靈侯。戮夏南。出孔儀。喪陳國。何不祥如是。人生實難。其有不獲死乎。天下多美婦人。何必是。子反乃止。王以予連尹襄老。
新字:九月。衛穆公卒。晋二子自役弔焉。哭於大門之外。衛人逆之。婦人哭於門内。送亦如之。遂常以葬。楚之討陳夏氏也。荘王欲納夏姫。申公巫臣曰。不可。君召諸侯。以討罪也。今納夏姫。貪其色也。貪色為淫。淫為大罰。周書曰。明徳慎罰。文王所以造周也。明徳。務崇之之謂也。慎罰。務去之之謂也。若興諸侯。以取大罰。非慎之也。君其図之。王乃止。子反欲取之。巫臣曰。是不祥人也。是夭子蠻。殺御叔。弒霊侯。戮夏南。出孔儀。喪陳国。何不祥如是。人生実難。其有不獲死乎。天下多美婦人。何必是。子反乃止。王以予連尹襄老。
書き下し
九月、衛の穆公卒す。晉の二子役より弔ふ。大門の外に哭す。衛人之を逆ふ。婦人門內に哭す。送るも亦た之の如くす。遂に常として以て葬る。楚の陳の夏氏を討つや、莊王夏姬を納れんと欲す。申公巫臣曰く、「不可なり。君諸侯を召すは、以て罪を討つなり。今夏姬を納るるは、其の色を貪るなり。色を貪るを淫と為し、淫を大罰と為す。周書に曰く、『德を明らかにし罰を慎む』と。文王の周を造りし所以なり。德を明らかにすとは、務めて之を崇ぶの謂なり。罰を慎むとは、務めて之を去るの謂なり。若し諸侯を興して、以て大罰を取らば、之を慎むに非ざるなり。君其れ之を圖れ」と。王乃ち止む。子反之を取らんと欲す。巫臣曰く、「是れ不祥の人なり。是れ子蠻を夭し、御叔を殺し、靈侯を弒し、夏南を戮し、孔・儀を出だし、陳國を喪ぼす。何ぞ不祥なること是くの如き。人生は實に難し、其れ死を獲ざること有らんか。天下に美婦人多し、何ぞ必ずしも是ならん」と。子反乃ち止む。王以て連尹襄老に予ふ。
現代語訳
九月、衛の穆公が亡くなった。晋の二人の将は、(鞍の)戦役の帰途からそのまま弔問に赴き、大門の外で哭礼を行った。衛の人々はこれを出迎え、婦人たちは門の内で哭した。見送るときも同じようにした。こうして衛では、これを常の礼として以後の葬儀に用いるようになった。楚が陳の夏氏を討ったとき(宣公十一年)、荘王は夏姫を後宮に入れようとした。申公巫臣(しんこうふしん、楚の申県の長官、屈巫)が言った。「なりません。君が諸侯を召し集めたのは、罪を討つためです。いま夏姫を入れれば、その色香を貪ったことになります。色を貪ることを淫といい、淫は大きな罰に値します。周書に『徳を明らかにし、罰を慎む』とあります。これこそ文王が周を築いた理由です。徳を明らかにするとは、徳を尊ぶことに努めるという意味です。罰を慎むとは、罰を受けるような行いを除くことに努めるという意味です。もし諸侯を動員しておいて、大罰を招くようなことをすれば、罰を慎んだことにはなりません。君はよくお考えください」。王はそこで思いとどまった。(楚の司馬)子反(しはん、公子側)が夏姫を娶ろうとした。巫臣は言った。「あれは不吉な人です。夫の子蛮を若死にさせ、次の夫の御叔を死なせ、(情を通じた)陳の霊侯が弑される原因となり、子の夏南(夏徴舒)を殺される身にし、孔寧・儀行父を国外に逃げさせ、陳の国を滅ぼしかけました。これほど不吉な人がありましょうか。人が生きるのは実に難しいもの、あの人を娶れば、まともな死に方ができないこともありましょう。天下に美しい婦人は多いのに、どうしてあの人でなければならないのですか」。子反はそこで思いとどまった。王は夏姫を連尹(れんいん、官名)の襄老に与えた。
解説
この章句が説くこと
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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