春秋左氏伝 / 成公二年 曲県繁纓を請う
二年春。齊侯伐我北鄙。圍龍。頃公之嬖人盧蒲就魁。門焉。龍人囚之。齊侯曰。勿殺。吾與而盟。無入而封。弗聽。殺而膊諸城上。齊侯親鼓。士陵城。三日。取龍。遂南侵。及巢丘。衛侯使孫良夫。石稷。甯相。向禽。將侵齊。與齊師遇。石子欲還。孫子曰。不可。以師伐人。遇其師而還。將謂君何。若知不能。則如無出。今既遇矣。不如戰也。夏。有……石成子曰。師敗矣。子不少須。眾懼盡。子喪師徒。何以復命。皆不對。又曰。子國卿也。隕子。辱矣。子以眾退。我此乃止。且告車來甚眾。齊師乃止。次于鞫居。新築人仲叔于奚救孫桓子。桓子是以免。既。衛人賞之以邑。辭。請曲縣繁纓以朝。許之。
新字:二年春。斉侯伐我北鄙。囲竜。頃公之嬖人盧蒲就魁。門焉。竜人囚之。斉侯曰。勿殺。吾与而盟。無入而封。弗聴。殺而膊諸城上。斉侯親鼓。士陵城。三日。取竜。遂南侵。及巣丘。衛侯使孫良夫。石稷。甯相。向禽。将侵斉。与斉師遇。石子欲還。孫子曰。不可。以師伐人。遇其師而還。将謂君何。若知不能。則如無出。今既遇矣。不如戦也。夏。有……石成子曰。師敗矣。子不少須。衆懼尽。子喪師徒。何以復命。皆不対。又曰。子国卿也。隕子。辱矣。子以衆退。我此乃止。且告車来甚衆。斉師乃止。次于鞫居。新築人仲叔于奚救孫桓子。桓子是以免。既。衛人賞之以邑。辞。請曲県繁纓以朝。許之。
書き下し
二年春、齊侯我が北鄙を伐ち、龍を圍む。頃公の嬖人盧蒲就魁、焉に門す。龍人之を囚ふ。齊侯曰く、「殺すこと勿かれ。吾而と盟ひ、而の封に入ること無からん」と。聽かず。殺して諸を城上に膊す。齊侯親ら鼓し、士城に陵る。三日にして、龍を取る。遂に南に侵し、巢丘に及ぶ。衛侯孫良夫・石稷・甯相・向禽をして、將に齊を侵さんとせしむ。齊の師と遇ふ。石子還らんと欲す。孫子曰く、「不可なり。師を以て人を伐ち、其の師に遇ひて還らば、將に君を何とか謂はん。若し能はざるを知らば、則ち出づること無きに如かず。今既に遇へり、戰ふに如かざるなり」と。夏、有(此の下、底本に闕文有り)。石成子曰く、「師敗れたり。子少しく須たずんば、眾盡きんことを懼る。子師徒を喪はば、何を以てか復命せん」と。皆對へず。又曰く、「子は國の卿なり。子を隕さば、辱なり。子眾を以て退け、我此に乃ち止まらん」と。且つ車の來ること甚だ眾しと告ぐ。齊の師乃ち止まり、鞫居に次す。新築の人仲叔于奚孫桓子を救ふ、桓子是を以て免る。既にして、衛人之を賞するに邑を以てす。辭して、曲縣・繁纓を請ひて以て朝す。之を許す。
現代語訳
成公二年の春、斉侯(頃公)がわが魯の北の辺境を攻め、龍の邑を包囲した。頃公の寵臣の盧蒲就魁が城門を攻めたが、龍の人々はこれを捕らえた。斉侯は言った。「殺すな。そうすればおまえたちと盟いを結び、おまえたちの領内には入らないでおこう」。龍の人々は聞き入れず、盧蒲就魁を殺してその屍を城壁の上にさらした。斉侯は自ら太鼓を打って兵を励まし、兵士たちは城壁をよじ登った。三日で龍を攻め取った。そのまま南へ侵攻し、巣丘にまで至った。衛侯(穆公)は孫良夫・石稷・甯相・向禽に斉を攻めさせようとした。一行は斉軍に出くわした。石子(石稷)は引き返そうとした。孫子(孫良夫)は言った。「なりません。軍を率いて他国を攻めに出ながら、その軍に出会って引き返したら、君に何と申し開きをするのですか。もし勝てないと分かっていたなら、はじめから出なければよかったのです。いまこうして出会ってしまった以上、戦うほかありません」。夏、(ここから先は底本に文字の欠けた箇所があり、新築での戦いで衛軍が敗れた経過が記されていたと考えられる)。石成子(石稷)は言った。「わが軍は敗れた。あなたがここで少しでも踏みとどまらなければ、兵が全滅してしまうのではと恐れる。あなたが兵を失ったら、どうやって君に復命するのか」。誰も答えなかった。石成子はまた言った。「あなたは国の卿である。あなたを失えば国の恥となる。あなたは兵を率いて退却されよ。私はここに踏みとどまろう」。さらに、援軍の戦車が大勢やって来ると触れ回らせた。斉軍はそこで追撃をやめ、鞫居に陣を置いた。新築の人の仲叔于奚が孫桓子(孫良夫)を救い、桓子はそのおかげで難を逃れた。戦いが終わると、衛人は仲叔于奚に邑を与えて賞しようとした。于奚はこれを辞退し、その代わりに、諸侯に許される三方に楽器をかける「曲県」と、馬を飾る「繁纓」を用いて朝廷に出ることを願った。衛はこれを許した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・奉使晉楚の君相與に好會を宛丘の上に爲す。宋人をして往かしむ。晉楚の大夫曰く、「趣かに天子の禮を以て吾が君に見えよ、我子の爲に見えん。」使者曰く、「冠弊ると雖も、宜しく其の上に加うべし。履新たなりと雖も、宜しく其の下に居るべし。周室微なりと雖も、諸侯未だ之を易うる能わざるなり。師宋城に升るとも、猶お臣の服を更めざるなり。」揖して之を去る。諸大夫瞿然とし、遂に諸侯の禮を以て之に見ゆ。
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史記 高祖本紀高祖長く雒陽に都せんと欲す、斉人劉敬説き、乃ち留侯上に勧めて関中に入り都せしむ、高祖是の日駕して、入りて関中に都す。六月、天下に大赦す。十月、燕王臧荼反し、代の地を攻め下す。高祖自ら将として之を撃ち、燕王臧荼を得たり。即ち太尉盧綰を立てて燕王と為す。丞相噲をして兵を将ゐて代を攻めしむ。其の秋、利幾反す、高祖自ら兵を将ゐて之を撃つ、利幾走る。利幾は、項氏の将なり。項氏敗れ、利幾陳公為り、項羽に随はず、亡げて高祖に降る、高祖之を潁川に侯とす。高祖雒陽に至り、通侯の籍を挙げて之を召す、而して利幾恐る、故に反す。六年、高祖五日に一たび太公に朝す、家人の父子の礼の如くす。太公の家令太公に説きて曰く、「天に二日無く、土に二王無し。今高祖子なりと雖も、人主なり。太公父なりと雖も、人臣なり。柰何ぞ人主をして人臣を拝せしめん。此くの如くならば、則ち威重行はれず。」と。後に高祖朝す、太公篲(ほうき)を擁し、門に迎へて卻行す。高祖大いに驚き、下りて太公を扶く。太公曰く、「帝は、人主なり、柰何ぞ我を以て天下の法を乱さん。」と。是に於て高祖乃ち太公を尊びて太上皇と為す。心に家令の言を善しとし、金五百斤を賜ふ。十二月、人変事を上りて楚王信の謀反を告ぐる有り、上左右に問ふ、左右争ひて之を撃たんと欲す。陳平の計を用ゐ、乃ち偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会す、楚王信迎ふ、即ち因りて之を執ふ。是の日、天下に大赦す。田肯賀し、因りて高祖に説きて曰く、「陛下韓信を得、又秦中を治む。秦は、形勝の国なり、河山の険を帯び、県隔すること千里、戟を持つもの百万、秦百に二を得たり。地勢便利にして、其の以て兵を諸侯に下すこと、譬へば猶ほ高屋の上に居りて瓴水を建(くつがへ)すがごときなり。夫れ斉は、東に瑯邪・即墨の饒有り、南に泰山の固有り、西に濁河の限有り、北に勃海の利有り。
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尚書・盤庚上網の綱に在るが若く、条有りて紊れず。
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人物志・流業是を主道得られて臣道序すと謂い、官方を易えずして、太平用て成る。
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論語・八佾篇子曰く、『夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず。』
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『春秋左氏伝』昭公七年 普天の下、王土に非ざる莫し七年春、王の正月、齊と平らぐ。齊之を求むるなり。癸巳、齊侯虢に次る。燕人成を行ひて曰く、「敝邑罪を知る、敢へて命を聽かざらんや。先君の敝器もて、請ふ以て罪を謝せん」と。公孫皙曰く、「服を受けて退き、釁を俟ちて動くは、可なり」と。二月、戊午、濡上に盟ふ。燕人燕姬を歸(とつ)がしめ、賂ふに瑤罋・玉櫝・斝耳を以てす。克たずして還る。楚子の令尹為るや、王の旌を為りて以て田す。芋尹無宇之を斷ちて曰く、「一國に兩君あらば、其れ誰か之に堪へん」と。即位するに及び、章華の宮を為り、亡人を納れて以て之を實たす。無宇の閽焉に入る。無宇之を執ふ。有司與へずして曰く、「人を王宮に執ふ、其の罪大なり」と。執へて諸を王に謁す。王將に酒を飲まんとす。無宇辭して曰く、「天子は經略し、諸侯は封を正す、古の制なり。封略の内、何か君の土に非ざる。土の毛を食む、誰か君の臣に非ざる。故に詩に曰く、『普天の下、王土に非ざる莫く、率土の濱、王臣に非ざる莫し』と。
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