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春秋左氏伝 / 宣公八年 襄仲卒して繹す

春,白狄及晉平。夏,會晉伐秦。晉人獲秦諜,殺諸絳市,六日而蘇。有事于大廟,襄仲卒而繹,非禮也。楚為眾舒叛故,伐舒蓼,滅之。楚子疆之,及滑汭,盟吳越而還。晉胥克有蠱疾,郤缺為政。秋,廢胥克,使趙朔佐下軍。冬,葬敬嬴,旱無麻,始用葛茀,雨不克葬,禮也。禮,卜葬先遠日,辟不懷也。城平陽,書時也。陳及晉平,楚師伐陳,取成而還。

新字:春,白狄及晋平。夏,会晋伐秦。晋人獲秦諜,殺諸絳市,六日而蘇。有事于大廟,襄仲卒而繹,非礼也。楚為衆舒叛故,伐舒蓼,滅之。楚子疆之,及滑汭,盟呉越而還。晋胥克有蠱疾,郤欠為政。秋,廃胥克,使趙朔佐下軍。冬,葬敬嬴,旱無麻,始用葛茀,雨不克葬,礼也。礼,卜葬先遠日,辟不懐也。城平陽,書時也。陳及晋平,楚師伐陳,取成而還。

書き下し

春、白狄晉と平らぐ。夏、晉に會して秦を伐つ。晉人秦の諜を獲、諸を絳の市に殺す。六日にして蘇る。大廟に事有り、襄仲卒して繹す、禮に非ざるなり。楚眾舒の叛くが為の故に、舒蓼を伐ちて、之を滅ぼす。楚子之に疆し、滑汭に及び、吳・越と盟ひて還る。晉の胥克蠱疾有り。郤缺政を為す。秋、胥克を廢し、趙朔をして下軍に佐たらしむ。冬、敬嬴を葬る。旱して麻無く、始めて葛茀(かつふつ)を用ゐる。雨ふりて葬を克くせざるは、禮なり。禮に、葬を卜するには遠日を先にす、懷(おも)はざるを辟くるなり。平陽に城く、時を書すなり。陳晉と平らぐ。楚師陳を伐ち、成を取りて還る。

現代語訳

宣公八年春、白狄が晋と和睦した。夏、魯は晋と会して秦を討った。晋は秦の間者を捕らえ、都の絳の市場で処刑したが、六日後に生き返った。大廟で祭りがあり、その最中に襄仲(公子遂)が亡くなったのに、翌日の繹祭(本祭の翌日に行う祭り)をそのまま行った。これは礼にかなわない(卿が亡くなれば祭りをやめるべきである)。楚は舒の諸国が背いたので舒蓼を討って滅ぼした。楚子(荘王)はその地に境界を定め、滑水の曲がり角まで進んで、呉・越と盟約を結んで引き返した。晋の胥克が心を惑わす病(蠱疾)にかかり、郤缺が政治を執った。秋、胥克を下軍の佐から退け、趙朔を代わりに下軍の佐とした。冬、宣公の母敬嬴を葬った。日照りで麻が取れず、初めて葛で編んだ棺の引き綱を用いた。雨が降って予定の日に葬ることができなかったのは、礼にかなっている。礼では、葬儀の日を占うときは遠い日から先に占う。急いで葬って、死者を思わないかのように見えるのを避けるためである。平陽に城を築いた。『春秋』がこれを記すのは、農閑期という適切な時期であったことを示すためである。陳が晋と和睦した。楚軍が陳を討ち、和睦を取りつけて引き返した。

解説

宣公八年の雑多な記事だが、礼についての判断がいくつも含まれている。襄仲は宣公を立てた最大の功臣であり、その死の翌日に繹祭を続けたことを左伝は「禮に非ず」とする。卿が亡くなれば祭りを取りやめて哀悼を示すのが礼であり、行事の継続より人の死を重んじるべきだという基準である。一方、敬嬴の葬儀が雨で延びたことは「禮なり」とされ、葬日は遠い日から占うという規定まで説明される。急いで葬れば死者を思っていないように見えるからだという。どちらも、形式を守ることより、その形式が示す心のほうが問われている。晋では病の胥克に代えて趙朔を登用する人事が記され、次の時代の布陣が整いつつある。予定通りに事を進めることと、人の死や不測の事態に合わせて止めることの判断は、今日の組織でもしばしば問われる。

この章句が説くこと

礼葬礼哀悼人事書法

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