史記 / 燕召公世家
十七年,鄭執燕仲父而内惠王于周。二十七年,山戎來侵我,齊桓公救燕,遂北伐山戎而還。燕君送齊桓公出境,桓公因割燕所至地予燕,使燕共貢天子,如成周時職;使燕復修召公之法。三十三年卒,子襄公立。襄公二十六年,晉文公爲踐土之會,稱伯。三十一年,秦師敗于殽。三十七年,秦穆公卒。四十年,襄公卒,桓公立。桓公十六年卒,宣公立。宣公十五年卒,昭公立。昭公十三年卒,武公立。是歳晉滅三郤大夫。武公十九年卒,文公立。文公六年卒,懿公立。懿公元年,齊崔杼弒其君莊公。四年卒,子惠公立。惠公元年,齊髙止來奔。六年,惠公多寵姬,公欲去諸大夫而立寵姬宋,大夫共誅姬宋,惠公懼,奔齊。四年,齊髙偃如晉,請共伐燕,入其君。晉平公許,與齊伐燕,入惠公。惠公至燕而死。燕立悼公。悼公七年卒,共公立。共公五年卒,平公立。晉公室卑,六卿始彊大。平公十八年,呉王闔閭破楚入郢。十九年卒,簡公立。簡公十二年卒,獻公立。晉趙鞅圍范、中行於朝歌。獻公十二年,齊田常弒其君簡公。十四年,孔子卒。二十八年,獻公卒,孝公立。孝公十二年,韓、魏、趙滅知伯,分其地,三晉彊。十五年,孝公卒,成公立。成公十六年卒,湣公立。
新字:十七年,鄭執燕仲父而内恵王于周。二十七年,山戎来侵我,斉桓公救燕,遂北伐山戎而還。燕君送斉桓公出境,桓公因割燕所至地予燕,使燕共貢天子,如成周時職;使燕復修召公之法。三十三年卒,子襄公立。襄公二十六年,晋文公為践土之会,称伯。三十一年,秦師敗于殽。三十七年,秦穆公卒。四十年,襄公卒,桓公立。桓公十六年卒,宣公立。宣公十五年卒,昭公立。昭公十三年卒,武公立。是歳晋滅三郤大夫。武公十九年卒,文公立。文公六年卒,懿公立。懿公元年,斉崔杼弒其君荘公。四年卒,子恵公立。恵公元年,斉高止来奔。六年,恵公多寵姫,公欲去諸大夫而立寵姫宋,大夫共誅姫宋,恵公懼,奔斉。四年,斉高偃如晋,請共伐燕,入其君。晋平公許,与斉伐燕,入恵公。恵公至燕而死。燕立悼公。悼公七年卒,共公立。共公五年卒,平公立。晋公室卑,六卿始彊大。平公十八年,呉王闔閭破楚入郢。十九年卒,簡公立。簡公十二年卒,献公立。晋趙鞅囲范、中行於朝歌。献公十二年,斉田常弒其君簡公。十四年,孔子卒。二十八年,献公卒,孝公立。孝公十二年,韓、魏、趙滅知伯,分其地,三晋彊。十五年,孝公卒,成公立。成公十六年卒,湣公立。
書き下し
十七年、鄭、燕の仲父を執へて恵王を周に内(い)る。二十七年、山戎来たりて我を侵す。斉の桓公燕を救ひ、遂に北のかた山戎を伐ちて還る。燕君斉の桓公を送りて境を出づ。桓公因りて燕の至る所の地を割きて燕に予へ、燕をして共に天子に貢がしむること、成周の時の職の如くし、燕をして復た召公の法を修めしむ。三十三年卒し、子の襄公立つ。襄公の二十六年、晋の文公践土の会を為し、伯と称す。三十一年、秦の師殽に敗る。三十七年、秦の穆公卒す。四十年、襄公卒し、桓公立つ。桓公十六年にして卒し、宣公立つ。宣公十五年にして卒し、昭公立つ。昭公十三年にして卒し、武公立つ。是の歳、晋三郤大夫を滅ぼす。武公十九年にして卒し、文公立つ。文公六年にして卒し、懿公立つ。懿公の元年、斉の崔杼其の君荘公を弑す。四年にして卒し、子の恵公立つ。恵公の元年、斉の高止来奔す。六年、恵公寵姫多く、公諸大夫を去りて寵姫宋を立てんと欲す。大夫共に姫宋を誅す。恵公懼れて斉に奔る。四年、斉の高偃晋に如き、共に燕を伐ちて其の君を入れんことを請ふ。晋の平公許し、斉と燕を伐ちて恵公を入る。恵公燕に至りて死す。燕、悼公を立つ。悼公七年にして卒し、共公立つ。共公五年にして卒し、平公立つ。晋の公室卑く、六卿始めて彊大なり。平公の十八年、呉王闔閭楚を破りて郢に入る。十九年卒し、簡公立つ。簡公十二年にして卒し、献公立つ。晋の趙鞅范・中行を朝歌に囲む。献公の十二年、斉の田常其の君簡公を弑す。十四年、孔子卒す。二十八年、献公卒し、孝公立つ。孝公の十二年、韓・魏・趙知伯を滅ぼし、其の地を分かち、三晋彊し。十五年、孝公卒し、成公立つ。成公十六年にして卒し、湣公立つ。
現代語訳
(荘公の)十七年、鄭は燕の仲父を捕らえ、恵王を周に復帰させた。二十七年、山戎が燕に攻め込んできた。斉の桓公が燕を救い、そのまま北へ進んで山戎を討って帰った。燕君は斉の桓公を見送って国境の外まで出た。桓公はそこで燕君が来たところまでの土地を割いて燕に与え、燕に周の成王の時代と同じように天子へ貢ぎ物を納める務めを果たさせ、また燕に召公の法をあらためて行わせた。三十三年に荘公が亡くなり、子の襄公が立った。襄公の二十六年、晋の文公が践土で諸侯と会盟し、覇者と称した。三十一年、秦の軍が殽で敗れた。三十七年、秦の穆公が亡くなった。四十年、襄公が亡くなり、桓公が立った。桓公は在位十六年で亡くなり、宣公が立った。宣公は在位十五年で亡くなり、昭公が立った。昭公は在位十三年で亡くなり、武公が立った。この年、晋が三郤(さんげき)の大夫を滅ぼした。武公は在位十九年で亡くなり、文公が立った。文公は在位六年で亡くなり、懿公が立った。懿公の元年、斉の崔杼がその君の荘公を殺した。懿公は在位四年で亡くなり、子の恵公が立った。恵公の元年、斉の高止が燕に亡命してきた。六年、恵公には寵愛する側室が多く、大夫たちを退けて寵臣の宋を立てようとした。大夫たちは共謀して宋を殺した。恵公は恐れて斉に逃げた。四年後、斉の高偃が晋に行き、ともに燕を攻めてその君を国に戻そうと願い出た。晋の平公はこれを許し、斉とともに燕を攻めて恵公を帰国させた。しかし恵公は燕に着いたところで死んだ。燕は悼公を立てた。悼公は在位七年で亡くなり、共公が立った。共公は在位五年で亡くなり、平公が立った。このころ晋の公室は衰え、六卿(六つの有力な家臣の家)が強大になり始めた。平公の十八年、呉王闔閭が楚を破って都の郢に入った。十九年に平公が亡くなり、簡公が立った。簡公は在位十二年で亡くなり、献公が立った。晋の趙鞅が范氏・中行氏を朝歌で包囲した。献公の十二年、斉の田常がその君の簡公を殺した。十四年、孔子が亡くなった。二十八年、献公が亡くなり、孝公が立った。孝公の十二年、韓・魏・趙が知伯を滅ぼしてその領地を分け、三晋が強くなった。十五年、孝公が亡くなり、成公が立った。成公は在位十六年で亡くなり、湣公が立った。
解説
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史記 燕召公世家湣公三十一年にして卒し、釐公立つ。是の歳、三晋列して諸侯と為る。釐公の三十年、伐ちて斉を林営に敗る。釐公卒し、桓公立つ。桓公十一年にして卒し、文公立つ。是の歳、秦の献公卒す。秦益々彊し。文公の十九年、斉の威王卒す。二十八年、蘇秦始めて来たり見え、文公に説く。文公車馬金帛を予へて以て趙に至らしむ。趙の粛侯之を用ふ。因りて六国を約し、従長と為る。秦の恵王其の女を以て燕の太子の婦と為す。二十九年、文公卒し、太子立つ。是を易王と為す。易王初めて立つや、斉の宣王燕の喪に因りて我を伐ち、十城を取る。蘇秦斉に説き、復た燕に十城を帰さしむ。十年、燕君王と為る。蘇秦燕の文公の夫人と私通し、誅せられんことを懼れ、乃ち王に説きて斉に使ひして反間を為し、以て斉を乱さんと欲す。易王立ちて十二年にして卒し、子の燕噲(かい)立つ。燕噲既に立ち、斉人蘇秦を殺す。蘇秦の燕に在るや、其の相子之と婚を為し、而して蘇代子之と交はる。蘇秦死するに及びて、斉の宣王復た蘇代を用ふ。燕噲の三年、楚・三晋と秦を攻め、勝たずして還る。子之燕に相として、貴重にして断を主る。蘇代斉の為に燕に使ひす。燕王問ひて曰く、「斉王は奚如(いかん)」と。対へて曰く、「必ず覇たらず」と。燕王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「其の臣を信ぜず」と。蘇代以て燕王を激して以て子之を尊ばしめんと欲するなり。是に於て燕王大いに子之を信ず。子之因りて蘇代に百金を遺り、而して其の使ふ所を聴く。鹿毛寿燕王に謂ふ、「国を以て相の子之に譲るに如かず。人の堯を賢と謂ふ者は、其の天下を許由に譲るを以てなり。許由受けず。天下を譲るの名有りて、実は天下を失はず。今王国を以て子之に譲らば、子之必ず敢て受けず。是れ王堯と行を同じくするなり」と。燕王因りて国を子之に属す。子之大いに重し。
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史記 斉太公世家孝公の元年三月、宋の襄公、諸侯の兵を率ゐて斉の太子昭を送りて斉を伐つ。斉人恐れ、其の君無詭を殺す。斉人将に太子昭を立てんとす。四公子の徒、太子を攻む。太子、宋に走る。宋遂に斉人の四公子と戦ふ。五月、宋、斉の四公子の師を敗りて太子昭を立つ。是れを斉の孝公と為す。宋は桓公と管仲の之に太子を属せしを以て、故に来りて之を征す。乱の故を以て、八月に乃ち斉の桓公を葬る。六年春、斉、宋を伐つ。其の斉に同盟せざるを以てなり。夏、宋の襄公卒す。七年、晋の文公立つ。十年、孝公卒す。孝公の弟潘、衛の公子開方に因りて孝公の子を殺して潘を立つ。是れを昭公と為す。昭公は桓公の子なり。其の母を葛嬴と曰ふ。昭公の元年、晋の文公、楚を城濮に敗り、而して諸侯を践土に会し、周に朝す。天子、晋をして伯を称せしむ。六年、翟、斉を侵す。晋の文公卒す。秦の兵、殽に敗る。十二年、秦の穆公卒す。十九年五月、昭公卒し、子の舎立ちて斉君と為る。舎の母は昭公に寵無く、国人畏るる莫し。昭公の弟商人、桓公の死するを以て立たんことを争ひて得ず、陰かに賢士に交はり、百姓を附愛す。百姓説ぶ。昭公卒し、子の舎立つに及び、孤弱なり。即ち衆と十月に墓の上に即きて斉君舎を弑して、商人自ら立つ。是れを懿公と為す。懿公は桓公の子なり。其の母を密姫と曰ふ。
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