春秋左氏伝 / 文公十八年 宋、武氏の乱を平ぐ
宋武氏之族道昭公子,將奉司城須以作亂,十二月,宋公殺母弟須,及昭公子,使戴,莊,桓,之族,攻武氏於司馬子伯之館,遂出武穆之族,使公孫師為司城,公子朝卒,使樂呂為司寇,以靖國人。
新字:宋武氏之族道昭公子,将奉司城須以作乱,十二月,宋公殺母弟須,及昭公子,使戴,荘,桓,之族,攻武氏於司馬子伯之館,遂出武穆之族,使公孫師為司城,公子朝卒,使楽呂為司寇,以靖国人。
書き下し
宋の武氏の族、昭公の子を道(みちび)き、將に司城須を奉じて以って亂を作さんとす。十二月、宋公母弟須及び昭公の子を殺し、戴・莊・桓の族をして、武氏を司馬子伯の館に攻めしめ、遂に武・穆の族を出だす。公孫師をして司城為らしむ。公子朝卒す。樂呂をして司寇為らしめ、以って國人を靖(やす)んず。
現代語訳
宋では、武公の子孫である武氏の一族が、殺された昭公の子を手引きし、司城(土木をつかさどる卿)の須を擁立して反乱を起こそうとした。十二月、宋公(文公)は同母弟の須と昭公の子を殺し、戴公・莊公・桓公の子孫の一族に命じて、武氏を司馬子伯の屋敷で攻めさせ、そのまま武公と穆公の子孫の一族を国外へ追放した。公孫師を司城に任じた。公子朝が亡くなったので、樂呂を司寇(刑罰をつかさどる卿)に任じて、国人を安んじた。
解説
宋では数年前に昭公が殺され、弟の文公が立っていた。この句は、昭公側の残党が巻き返しを図った事件である。宋の貴族は歴代の君主から分かれた一族、いわゆる公族の集団からなり、戴・莊・桓の族と武・穆の族といった系統が対立していた。文公は同母弟まで殺して反乱の芽を断ち、別の一族の力で武氏を攻め、空いた要職には直ちに人を充てている。司城と司寇という重要な官職を素早く埋めたことを「以って國人を靖んず」と結ぶ点が要所である。反乱の鎮圧そのものより、その後に人事で秩序を示すことが人心を落ち着かせたと左伝は見ている。宣公三年の伝にもこの事件は再び記される。混乱の後で空席をどう埋めるかが組織の安定を左右するという構図は、時代を越えて通じるものだろう。
この章句が説くこと
内乱公族人事秩序回復粛清
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