春秋左氏伝 / 文公十四年 荘王即位と二子の乱
楚莊王立,子孔,潘崇,將襲群舒,使公子燮與子儀守,而伐舒蓼,二子作亂,城郢,而使賊殺子孔,不克而還。八月,二子以楚子出,將如商密,廬戢黎及叔麇誘之,遂殺鬥克,及公子燮。初,鬥克囚于秦,秦有殽之敗,而使歸求成,成而不得志,公子燮求令尹而不得,故二子作亂。穆伯之從己氏也,魯人立文伯,穆伯生二子於莒,而求復,文伯以為請,襄仲使無朝聽命,復而不出,二年而盡室以復適莒,文伯疾,而請曰,穀之子弱,請立難也,許之,文伯卒,立惠叔,穆伯請重賂以求復,惠叔以為請,許之,將來。九月,卒于齊,告喪,請葬,弗許,宋高哀為蕭封人,以為卿,不義宋公而出,遂來奔,書曰,宋子哀來奔,貴之也。齊人定懿公,使來告難,故書以九月,齊公子元,不順懿公之為政也,終不曰公,曰夫己氏。襄仲使告于王,請以王寵,求昭姬于齊,曰,殺其子,焉用其母,請受而罪之。冬,單伯如齊,請子叔姬,齊人執之,又執子叔姬,
新字:楚荘王立,子孔,潘崇,将襲群舒,使公子燮与子儀守,而伐舒蓼,二子作乱,城郢,而使賊殺子孔,不克而還。八月,二子以楚子出,将如商密,廬戢黎及叔麇誘之,遂殺鬥克,及公子燮。初,鬥克囚于秦,秦有殽之敗,而使帰求成,成而不得志,公子燮求令尹而不得,故二子作乱。穆伯之従己氏也,魯人立文伯,穆伯生二子於莒,而求復,文伯以為請,襄仲使無朝聴命,復而不出,二年而尽室以復適莒,文伯疾,而請曰,穀之子弱,請立難也,許之,文伯卒,立恵叔,穆伯請重賂以求復,恵叔以為請,許之,将来。九月,卒于斉,告喪,請葬,弗許,宋高哀為蕭封人,以為卿,不義宋公而出,遂来奔,書曰,宋子哀来奔,貴之也。斉人定懿公,使来告難,故書以九月,斉公子元,不順懿公之為政也,終不曰公,曰夫己氏。襄仲使告于王,請以王寵,求昭姫于斉,曰,殺其子,焉用其母,請受而罪之。冬,単伯如斉,請子叔姫,斉人執之,又執子叔姫,
書き下し
楚の莊王立つ。子孔・潘崇、將に群舒を襲はんとし、公子燮と子儀とをして守らしめて、舒蓼を伐つ。二子亂を作し、郢に城きて、賊をして子孔を殺さしめんとす、克たずして還る。八月、二子楚子を以って出で、將に商密に如かんとす。廬の戢黎及び叔麇之を誘ひ、遂に鬥克、及び公子燮を殺す。初め、鬥克秦に囚はる。秦殽の敗有り、而して歸りて成を求めしむ。成りて志を得ず。公子燮令尹を求めて得ず。故に二子亂を作す。穆伯の己氏に從ふや、魯人文伯を立つ。穆伯二子を莒に生みて、復らんことを求む。文伯以って請ひを為す。襄仲朝すること無く命を聽かしむ。復りて出でず。二年にして室を盡くして以って復た莒に適く。文伯疾みて、請ひて曰く、「穀の子弱し、請ふ難を立てん」と。之を許す。文伯卒し、惠叔を立つ。穆伯重賂を請ひて以って復らんことを求む。惠叔以って請ひを為す、之を許す。將に來らんとす。九月、齊に卒す。喪を告げ、葬らんことを請ふ、許さず。宋の高哀蕭の封人と為り、以って卿と為る。宋公を不義として出で、遂に來奔す。書に曰く、「宋の子哀來奔す」と、之を貴ぶなり。齊人懿公を定め、來りて難を告げしむ、故に書するに九月を以ってす。齊の公子元、懿公の政を為すに順はざるなり、終に公と曰はず、夫の己氏と曰ふ。襄仲王に告げしめ、王の寵を以って、昭姬を齊に求めんことを請ひて、曰く、「其の子を殺す、焉んぞ其の母を用ゐん、請ふ受けて之を罪せん」と。冬、單伯齊に如きて、子叔姬を請ふ。齊人之を執へ、又子叔姬を執ふ。
現代語訳
楚の荘王が即位した。子孔(令尹の成嘉)と潘崇は舒の諸国を襲おうとして、公子燮と子儀(闘克)に都の守りを任せ、舒蓼を攻めた。ところが二人は乱を起こし、郢の城壁を固めて、刺客に子孔を殺させようとした。刺客は果たせず、子孔らは帰還した。八月、二人は楚子(荘王)を連れて都を出、商密へ行こうとした。廬の戢黎と叔麇が二人をおびき寄せ、闘克と公子燮を殺した。これより前、闘克は秦に捕らわれていた。秦は殽で晋に敗れると、闘克を楚に帰して講和を求めさせた。講和は成ったが、闘克はその功に見合う地位を得られず不満であった。公子燮は令尹の地位を求めたが得られなかった。そのため二人は乱を起こしたのである。穆伯(公孫敖)が莒の己氏のもとに去ると、魯の人はその子の文伯を立てて家を継がせた。穆伯は莒で二人の子をもうけたが、魯に帰りたいと求めた。文伯が父のために願い出た。襄仲は、帰国しても朝廷には出ず、家で命を待つことを条件とした。穆伯は帰国して家から出なかったが、二年後、家財をすべて持ってまた莒へ行ってしまった。文伯が病気になり、願い出て言った。「私、穀の子はまだ幼いので、どうか弟の難(恵叔)を跡継ぎにしてください」。これは許された。文伯が亡くなり、恵叔が立った。穆伯は多額の贈り物を差し出して帰国を求めた。恵叔が父のために願い出て、許された。穆伯は帰国しようとしていたが、九月、斉で亡くなった。恵叔は喪を告げて、魯で葬ることを願ったが、許されなかった。宋の高哀は蕭の封人(国境の長官)から抜擢されて卿となったが、宋公(昭公)を不義として国を去り、魯に亡命してきた。『春秋』に「宋の子哀来奔す」と字で記したのは、彼を貴んだのである。斉の人は懿公(公子商人)を君と定めてから、魯に使者を送って内乱を知らせてきた。そのため『春秋』は舎の殺害を、実際の七月でなく九月の条に書いた。斉の公子元は懿公の政治のやり方に従わず、最後まで「公」と呼ばず、「あの某」と呼んだ。襄仲は周王に使者を送り、王の威光を借りて、昭姫(斉の昭公の夫人の叔姫、殺された舎の母)を斉から引き取ることを願い出させ、斉にはこう言わせた。「その子を殺しておいて、どうしてその母を留めておく必要があろう。どうか引き取って、こちらで罪を問わせていただきたい」。冬、単伯(周の卿士)は斉に行き、子叔姫(昭姫)の引き渡しを求めた。斉の人は単伯を捕らえ、さらに子叔姫も捕らえた。
解説
この章句が説くこと
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