晏子春秋 / 外篇上・景公有疾梁丘據裔款請誅祝史晏子諫
民人苦病,夫婦皆詛。祝有益也,詛亦有損,聊攝以東,姑尤以西,其為人也多矣。雖其善祝,豈能勝億兆人之詛。君若欲誅于祝史,修德而後可。」公說,使有司寬政,毀關去禁,薄斂已責。公疾愈。
新字:民人苦病,夫婦皆詛。祝有益也,詛亦有損,聊摂以東,姑尤以西,其為人也多矣。雖其善祝,豈能勝億兆人之詛。君若欲誅于祝史,修徳而後可。」公説,使有司寛政,毀関去禁,薄斂已責。公疾愈。
書き下し
民人苦しみ病み、夫婦皆詛う。祝に益有れば、詛にも亦損有り。聊攝より以東、姑尤より以西、其の人たるや多し。其の善く祝すと雖も、豈に能く億兆人の詛に勝たんや。君若し祝史を誅せんと欲せば、徳を修めて後に可なり」と。公説び、有司をして政を寛にし、関を毀ち禁を去り、斂を薄くして責を已めしむ。公の疾愈ゆ。
現代語訳
民は苦しみ病み、夫婦そろって君を呪っています。祝には益があるなら、呪いにも損があります。聊攝から東、姑尤から西には、人が多く住んでいます。祝官や史官がどれほど上手に祈っても、億兆の人々の呪いに勝てるでしょうか。君がもし祝官や史官を誅したいなら、まず徳を修めてからにしてください」。公は喜び、役人に政を寛やかにさせ、関所を取り壊し禁令を除き、取り立てを軽くして借金の督促をやめさせました。公の病は癒えました。
解説
祝史を誅する是非を巡る話の結びです。晏子は、民が苦しんで夫婦ごとに君を呪っているなら、祝官がどれほど上手に祈っても、聊攝から姑尤の間の無数の人の呪いには勝てない、と数の理屈で論じます。祈りよりも、民の声を鎮める政の手当てが先だという結論です。公は役人に命じて関所を壊し、禁令を除き、取り立てを軽くし、督促もやめさせ、病が治ったと記されています。因果は断定せず、この書の語り口として受け取ります。顧客や社員の不満は、一人ひとりは小さくても積もると大きな力になります。小さな不満を数として受け止め、仕組みの側から取り除く姿勢が、いちばん確かな対策になります。
この章句が説くこと
民の声不満寛政責任徳晏子春秋
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