春秋左氏伝 / 文公十四年 辞順にして従わざるは不祥
春,頃王崩,周公閱與王孫蘇爭政,故不赴,凡崩薨,不赴則不書,禍福不告亦不書,懲不敬也。邾文公之卒也,公使弔焉,不敬,邾人來討,伐我南鄙,故惠伯伐邾。子叔姬妃齊昭公,生舍,叔姬無寵,舍無威,公子商人驟施於國,而多聚士,盡其家,貸於公有司以繼之。夏,五月,昭公卒,舍即位。邾文公元妃齊姜,生定公,二妃晉姬,生捷菑,文公卒,邾人立定公,捷菑奔晉,六月,同盟于新城,從於楚者服,且謀邾也,秋,七月,乙卯夜,齊商人弒舍而讓元,元曰,爾求之久矣,我能事爾,爾不可使多蓄憾,將免我乎,爾為之。有星孛入于北斗,周內史叔服曰,不出七年,宋齊晉之君,皆將死亂。晉趙盾以諸侯之師八百乘,納捷菑于邾,邾人辭曰,齊出貜且長,宣子曰,辭順而弗從,不祥,乃還。周公將與王孫蘇訟于晉,王叛王孫蘇,而使尹氏與聃啟,訟周公于晉,趙宣子平王室而復之。
新字:春,頃王崩,周公閲与王孫蘇争政,故不赴,凡崩薨,不赴則不書,禍福不告亦不書,懲不敬也。邾文公之卒也,公使弔焉,不敬,邾人来討,伐我南鄙,故恵伯伐邾。子叔姫妃斉昭公,生舎,叔姫無寵,舎無威,公子商人驟施於国,而多聚士,尽其家,貸於公有司以継之。夏,五月,昭公卒,舎即位。邾文公元妃斉姜,生定公,二妃晋姫,生捷菑,文公卒,邾人立定公,捷菑奔晋,六月,同盟于新城,従於楚者服,且謀邾也,秋,七月,乙卯夜,斉商人弒舎而譲元,元曰,爾求之久矣,我能事爾,爾不可使多蓄憾,将免我乎,爾為之。有星孛入于北斗,周内史叔服曰,不出七年,宋斉晋之君,皆将死乱。晋趙盾以諸侯之師八百乗,納捷菑于邾,邾人辞曰,斉出貜且長,宣子曰,辞順而弗従,不祥,乃還。周公将与王孫蘇訟于晋,王叛王孫蘇,而使尹氏与聃啓,訟周公于晋,趙宣子平王室而復之。
書き下し
春、頃王崩ず。周公閱と王孫蘇と政を爭ふ、故に赴げず。凡そ崩薨、赴げざれば則ち書せず。禍福告げざれば亦た書せず。不敬を懲らすなり。邾の文公の卒するや、公弔せしむ、敬せず。邾人來り討ちて、我が南鄙を伐つ、故に惠伯邾を伐つ。子叔姬齊の昭公に妃(はい)し、舍を生む。子叔姬寵無く、舍威無し。公子商人驟々國に施して、多く士を聚め、其の家を盡くし、公の有司に貸りて以って之を繼ぐ。夏、五月、昭公卒し、舍位に即く。邾の文公の元妃齊姜、定公を生む。二妃晉姬、捷菑を生む。文公卒し、邾人定公を立つ。捷菑晉に奔る。六月、新城に同盟す、楚に從ふ者服し、且つ邾を謀るなり。秋、七月、乙卯の夜、齊の商人舍を弒して元に讓る。元曰く、「爾之を求むること久し。我能く爾に事へん。爾多く憾みを蓄へしむ可からず、將た我を免さんや。爾之を為せ」と。星有り孛して北斗に入る。周の內史叔服曰く、「七年を出でずして、宋・齊・晉の君、皆將に亂に死せんとす」と。晉の趙盾諸侯の師八百乘を以って、捷菑を邾に納る。邾人辭して曰く、「齊の出貜且(かくしょ)長ず」と。宣子曰く、「辭順にして從はざるは、不祥なり」と。乃ち還る。周公將に王孫蘇と晉に訟へんとす。王王孫蘇に叛きて、尹氏と聃啟とをして、周公を晉に訟へしむ。趙宣子王室を平らげて之を復す。
現代語訳
春、周の頃王が崩御した。周公閲と王孫蘇が政権を争っていたため、諸侯に訃報を告げなかった。およそ天子の崩御や諸侯の死去は、訃報が来なければ『春秋』に書かない。災いや慶事も、知らせがなければやはり書かない。知らせを怠るという不敬を懲らしめるためである。邾の文公が亡くなったとき、魯の文公は使者を送って弔わせたが、その使者の態度が不敬であった。邾の人は魯を責めて南の辺境を攻めた。そのため恵伯(叔仲恵伯)が邾を攻めた。子叔姫(魯の公女)は斉の昭公に嫁いで舎を生んだ。子叔姫は寵愛されず、舎には威光がなかった。公子商人(昭公の弟)はしきりに国中に施しをして、多くの士を集め、自分の家の財産を使い尽くすと、公の役人から借りてまで施しを続けた。夏五月、昭公が亡くなり、舎が即位した。邾の文公の正夫人斉姜は定公を生み、第二夫人の晋姫は捷菑を生んだ。文公が亡くなると、邾の人は定公を立てた。捷菑は晋に亡命した。六月、新城で諸侯が同盟した。楚に従っていた国々が晋に服したためであり、また邾のことを協議するためである。秋七月乙卯の夜、斉の公子商人は舎を弑し、兄の公子元に君位を譲ろうとした。元は言った。「おまえは長いあいだこれを求めてきた。私はおまえに仕えることができる。おまえに多くの恨みを抱かせたままでいられようか。私が君になったとして、おまえは私を見逃すだろうか。おまえが君となれ」。彗星が現れて北斗の中に入った。周の内史の叔服が言った。「七年とたたないうちに、宋・斉・晋の君は、みな乱によって死ぬでしょう」。晋の趙盾は諸侯の軍、兵車八百乗を率いて、捷菑を邾の君に送り込もうとした。邾の人は断って言った。「斉の女から生まれた貜且(定公)のほうが年長です」。宣子(趙盾)は言った。「相手の言い分が道理にかなっているのに従わないのは、不吉である」。そこで引き返した。周公閲は王孫蘇と晋で訴訟をしようとした。周王(匡王)は王孫蘇を支持するのをやめ、尹氏と聃啓に周公の側に立って晋で訴えさせた。趙宣子は王室の争いを収め、周公をもとの地位に戻した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』文公十五年 終わりを善くす春、季文子晉に如く、單伯と子叔姬との為の故なり。三月、宋の華耦來りて盟ふ、其の官皆之に從ふ。書に曰く、「宋の司馬華孫」と、之を貴ぶなり。公之と宴す。辭して曰く、「君の先臣督、罪を宋の殤公に得、名諸侯の策に在り。臣其の祀を承く、其れ敢へて君を辱めんや。請ふ命を亞旅に承けん」と。魯人以って敏と為す。夏、曹伯來朝す、禮なり。諸侯五年に再び相朝し、以って王命を脩む、古の制なり。齊人或ひと孟氏の為に謀りて、曰く、「魯は爾の親なり。棺を飾りて諸を堂阜に寘かば、魯必ず之を取らん」と。之に從ふ。卞人以って告ぐ。惠叔猶ほ毀して以って請ひを為し、朝に立ちて以って命を待つ。之を許す。取りて之を殯す。齊人之を送る。書に曰く、「齊人公孫敖の喪を歸す」と、孟氏の為にし、且つ國の故なり。葬ること共仲に視(なぞら)ふ。聲己視ず、堂に帷して哭す。襄仲哭すること勿からんと欲す。惠伯曰く、「喪は、親の終はりなり。始めを能くせずと雖も、終はりを善くするは可なり。史佚言へる有りて曰く、『兄弟は美を致す。乏しきを救ひ、善を賀し、災ひを弔ひ、祭りには敬し、喪には哀しむ。情同じからずと雖も、其の親を愛するの道を絕つこと毋かれ』と。子道を失ふこと無くんば、何ぞ人を怨まん」と。襄仲說び、兄弟を帥ゐて以って之に哭す。他年、其の二子來る。孟獻子之を愛し、國に聞こゆ。或ひと之を譖りて曰く、「將に子を殺さんとす」と。獻子以って季文子に告ぐ。二子曰く、「夫子は我を愛するを以って聞こゆ、我は將に子を殺さんとするを以って聞こゆ、亦た禮に遠からずや。禮に遠きは死するに如かず」と。一人は句鼆(こうぼう)に門し、一人は戾丘に門し、皆死す。
-
『春秋左氏伝』文公十八年 申池の恨み春、齊侯師期を戒む、而して疾有り。醫曰く、「秋に及ばずして、將に死せんとす」と。公之を聞き、卜して曰く、「尚はくは期に及ぶこと無からんことを」と。惠伯龜に令し、卜楚丘之を占ひて曰く、「齊侯期に及ばざらん、疾に非ざるなり。君も亦た聞かざらん。龜に令する者咎有らん」と。二月、丁丑、公薨ず。齊の懿公の公子為るや、邴歜の父と田を爭ひて、勝たず。即位するに及び、乃ち掘りて之を刖(あしき)り、而して歜をして僕たらしむ。閻職の妻を納れて、職をして驂乘せしむ。夏、五月、公申池に游ぶ。二人池に浴す。歜扑を以って職を抶(う)つ。職怒る。歜曰く、「人女(なんぢ)の妻を奪ひて怒らず、一たび女を抶つ、庸(なん)ぞ何ぞ傷まん」と。職曰く、「其の父を刖られて病(うら)むこと能はざる者と何如」と。乃ち謀りて懿公を弒し、諸を竹中に納れ、歸りて爵を舍(お)きて行く。齊人公子元を立つ。六月、文公を葬る。秋、襄仲・莊叔、齊に如く。惠公立つが故なり、且つ葬を拜するなり。文公の二妃、敬嬴宣公を生む。敬嬴嬖(へい)せられて、私かに襄仲に事ふ。宣公長じて、諸を襄仲に屬す。襄仲之を立てんと欲す。叔仲可かず。仲齊侯に見えて之を請ふ。齊侯新たに立ちて、魯に親しまんと欲し、之を許す。
-
『春秋左氏伝』文公十七年 子家、書を趙宣子に与う春、晉の荀林父・衛の孔達・陳の公孫寧・鄭の石楚、宋を伐ちて、討めて曰く、「何の故に君を弒す」と。猶ほ文公を立てて還る。卿書せざるは、其の所を失へばなり。夏、四月、癸亥、聲姜を葬る。齊の難有り、是を以って緩し。齊侯我が北鄙を伐つ、襄仲盟を請ふ。六月、穀に盟ふ。晉侯黃父に蒐し、遂に復た諸侯を扈に合す、宋を平らぐるなり。公會に與らず、齊の難の故なり。書に「諸侯」と曰ふは、功無ければなり。是に於いて晉侯鄭伯に見えず、以って楚に貳すと為すなり。鄭の子家執訊をして之に書を與へしめ、以って趙宣子に告げて、曰く、「寡君位に即きて三年、蔡侯を召して之と君に事ふ。九月、蔡侯敝邑に入りて以って行く。敝邑侯宣多の難を以って、寡君是を以って蔡侯と偕にするを得ず。十一月、克く侯宣多を減じて、蔡侯に隨ひて以って執事に朝す。十二年、六月、歸生寡君の嫡夷を佐けて、以って陳侯を楚に請ひて、諸を君に朝せしむ。十四年、七月、寡君又朝し、以って陳の事を蕆(を)ふ。
-
『春秋左氏伝』宣公元年 晋侯の侈り元年春王の正月、公子遂齊に如きて女を逆ふ、君命を尊ぶなり。三月、遂夫人婦姜を以って齊より至る、夫人を尊ぶなり。夏、季文子齊に如き、賂を納れて、以って會を請ふ。晉人命を用ゐざる者を討じ、胥甲父を衞に放ちて、胥克を立つ。先辛齊に奔る。平州に會し、以って公の位を定む。東門襄仲齊に如きて成を拜す。六月、齊人濟西の田を取る。公を立つるが為の故に、以って齊に賂するなり。宋人の昭公を弒するや、晉の荀林父諸侯の師を以って宋を伐つ。宋晉と平らぎ、宋の文公盟を晉に受く。又諸侯に扈に會し、將に魯の為に齊を討たんとす。皆賂を取りて還る。鄭の穆公曰く、「晉は與(くみ)するに足らず」と。遂に盟を楚に受く。陳の共公の卒するや、楚人禮せず。陳の靈公盟を晉に受く。秋、楚子陳を侵し、遂に宋を侵す。晉の趙盾師を帥ゐて陳・宋を救ひ、棐林に會し、以って鄭を伐つ。楚の蒍賈鄭を救ひ、北林に遇ひ、晉の解揚を囚ふ。晉人乃ち還る。晉秦に成を求めんと欲す。趙穿曰く、「我崇を侵さば、秦崇を急とし必ず之を救はん。吾以って成を求めん」と。冬、趙穿崇を侵す。秦成を與(ゆる)さず。晉人鄭を伐ち、以って北林の役に報ゆ。是に於いて晉侯侈り、趙宣子政を為し、驟(しばしば)諫むれども入れられず、故に楚に競はず。
-
『春秋左氏伝』文公十四年 荘王即位と二子の乱楚の莊王立つ。子孔・潘崇、將に群舒を襲はんとし、公子燮と子儀とをして守らしめて、舒蓼を伐つ。二子亂を作し、郢に城きて、賊をして子孔を殺さしめんとす、克たずして還る。八月、二子楚子を以って出で、將に商密に如かんとす。廬の戢黎及び叔麇之を誘ひ、遂に鬥克、及び公子燮を殺す。初め、鬥克秦に囚はる。秦殽の敗有り、而して歸りて成を求めしむ。成りて志を得ず。公子燮令尹を求めて得ず。故に二子亂を作す。穆伯の己氏に從ふや、魯人文伯を立つ。穆伯二子を莒に生みて、復らんことを求む。文伯以って請ひを為す。襄仲朝すること無く命を聽かしむ。復りて出でず。二年にして室を盡くして以って復た莒に適く。文伯疾みて、請ひて曰く、「穀の子弱し、請ふ難を立てん」と。之を許す。文伯卒し、惠叔を立つ。穆伯重賂を請ひて以って復らんことを求む。惠叔以って請ひを為す、之を許す。將に來らんとす。九月、齊に卒す。喪を告げ、葬らんことを請ふ、許さず。宋の高哀蕭の封人と為り、以って卿と為る。宋公を不義として出で、遂に來奔す。書に曰く、「宋の子哀來奔す」と、之を貴ぶなり。齊人懿公を定め、來りて難を告げしむ、故に書するに九月を以ってす。齊の公子元、懿公の政を為すに順はざるなり、終に公と曰はず、夫の己氏と曰ふ。襄仲王に告げしめ、王の寵を以って、昭姬を齊に求めんことを請ひて、曰く、「其の子を殺す、焉んぞ其の母を用ゐん、請ふ受けて之を罪せん」と。冬、單伯齊に如きて、子叔姬を請ふ。齊人之を執へ、又子叔姬を執ふ。
-
『春秋左氏伝』文公元年 閏を終わりに帰す元年春、王內史叔服をして來りて葬に會せしむ。公孫敖其の能く人を相すと聞き、其の二子を見えしむ。叔服曰く、「穀や子を食(やしな)ひ、難や子を收めん。穀や下豐かなり、必ず魯國に後有らん」と。是に於いて三月を閏す、禮に非ざるなり。先王の時を正すや、端を始めに履み、正を中に舉げ、餘を終はりに歸す。端を始めに履めば、序則ち愆(あやま)たず。正を中に舉ぐれば、民則ち惑はず。餘を終はりに歸せば、事則ち悖らず。夏、四月、丁巳、僖公を葬る。王毛伯衛をして來りて公に命を錫(たま)はしむ。叔孫得臣周に如きて拜す。晉の文公の季年、諸侯晉に朝す。衛の成公朝せず。孔達をして鄭を侵さしめ、緜・訾及び匡を伐つ。晉の襄公既に祥して、諸侯に告げしめて衛を伐ち、南陽に及ぶ。先且居曰く、「尤に效ふは、禍なり。請ふ君王に朝せよ、臣師に從はん」と。晉侯王に溫に朝す。先且居・胥臣衛を伐つ。五月、辛酉朔、晉の師戚を圍む。六月、戊戌、之を取り、孫昭子を獲たり。衛人陳に告げしむ。陳の共公曰く、「更に之を伐て。我之を辭せん」と。衛の孔達師を帥ゐて晉を伐つ。君子以って古と為す。古は國を越えて謀る。秋、晉侯戚の田を疆(さかひ)す。故に公孫敖之に會す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る