春秋左氏伝 / 文公七年 冬日の日、夏日の日
狄侵我西鄙,公使告于晉。趙宣子使因賈季問酆舒,且讓之。酆舒問於賈季,曰:「趙衰、趙盾,孰賢?」對曰,「趙衰,冬日之日也;趙盾,夏日之日也。」秋,八月,齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、許男、曹伯,會晉趙盾,盟于扈,晉侯立故也。公後至,故不書所會。凡會諸侯,不書所會,後也。後至不書其國,辟不敏也。穆伯娶于莒,曰,戴己,生文伯;其娣聲己,生惠叔。戴己卒,又聘于莒。莒人以聲己辭,則為襄仲聘焉。冬,徐伐莒,莒人來請盟。穆伯如莒蒞盟,且為仲逆。及鄢陵,登城見之,美,自為娶之。仲請攻之,公將許之。叔仲惠伯諫曰:「臣聞之,兵作於內為亂,於外為寇。寇猶及人,亂自及也。今臣作亂,而君不禁,以啟寇讎,若之何?」公止之,惠伯成之。使仲舍之,公孫敖反之,復為兄弟如初。從之。晉郤缺言於趙宣子曰:「日衛不睦,故取其地。今已睦矣,可以歸之。
新字:狄侵我西鄙,公使告于晋。趙宣子使因賈季問酆舒,且譲之。酆舒問於賈季,曰:「趙衰、趙盾,孰賢?」対曰,「趙衰,冬日之日也;趙盾,夏日之日也。」秋,八月,斉侯、宋公、衛侯、鄭伯、許男、曹伯,会晋趙盾,盟于扈,晋侯立故也。公後至,故不書所会。凡会諸侯,不書所会,後也。後至不書其国,辟不敏也。穆伯娶于莒,曰,戴己,生文伯;其娣声己,生恵叔。戴己卒,又聘于莒。莒人以声己辞,則為襄仲聘焉。冬,徐伐莒,莒人来請盟。穆伯如莒莅盟,且為仲逆。及鄢陵,登城見之,美,自為娶之。仲請攻之,公将許之。叔仲恵伯諫曰:「臣聞之,兵作於内為乱,於外為寇。寇猶及人,乱自及也。今臣作乱,而君不禁,以啓寇讎,若之何?」公止之,恵伯成之。使仲舎之,公孫敖反之,復為兄弟如初。従之。晋郤欠言於趙宣子曰:「日衛不睦,故取其地。今已睦矣,可以帰之。
書き下し
狄我が西鄙を侵す、公告を晉に使はす。趙宣子賈季に因りて酆舒に問はしめ、且つ之を讓(せ)む。酆舒賈季に問ひて、曰く、「趙衰・趙盾、孰れか賢なる」と。對へて曰く、「趙衰は、冬日の日なり。趙盾は、夏日の日なり」と。秋、八月、齊侯・宋公・衛侯・鄭伯・許男・曹伯、晉の趙盾に會し、扈に盟ふ、晉侯立つが故なり。公後れて至る、故に會する所を書せず。凡そ諸侯に會して、會する所を書せざるは、後るればなり。後れて至りて其の國を書せざるは、不敏を辟くるなり。穆伯莒に娶る、戴己と曰ふ、文伯を生む。其の娣聲己、惠叔を生む。戴己卒し、又莒に聘す。莒人聲己を以って辭す、則ち襄仲の為に聘す。冬、徐莒を伐つ、莒人來りて盟を請ふ。穆伯莒に如きて盟に蒞み、且つ仲の為に逆ふ。鄢陵に及び、城に登りて之を見るに、美なり、自ら為に之を娶る。仲之を攻めんと請ひ、公將に之を許さんとす。叔仲惠伯諫めて曰く、「臣之を聞く、兵內に作るを亂と為し、外に於けるを寇と為す。寇は猶ほ人に及ぶも、亂は自らに及ぶなり。今臣亂を作して、君禁ぜず、以って寇讎を啟かば、之を若何」と。公之を止め、惠伯之を成す。仲をして之を舍てしめ、公孫敖之を反し、復た兄弟たること初めの如くせしむ。之に從ふ。晉の郤缺趙宣子に言ひて曰く、「日(さき)に衛睦まじからず、故に其の地を取る。今已に睦まじ、以って之を歸す可し。
現代語訳
狄が魯の西の辺境を侵したので、文公は晋に使者を送って知らせた。趙宣子(趙盾、晋の執政)は、狄に亡命していた賈季(狐射姑)を介して狄の宰相酆舒に問いただし、あわせて責めさせた。酆舒は賈季に尋ねた。「趙衰と趙盾とでは、どちらが優れているか」。賈季は答えた。「趙衰(趙盾の父)は冬の日の太陽です。趙盾は夏の日の太陽です」。秋八月、斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・許男・曹伯が晋の趙盾と会し、扈で盟約した。晋侯(霊公)が即位したためである。文公は遅れて到着したので、『春秋』は誰と会したかを書かない。およそ諸侯と会して会した相手を書かないのは、遅れたからである。遅れて着いたとき相手の国名を書かないのは、魯の手際の悪さが表に出るのを避けるためである。穆伯(公孫敖)は莒から妻を娶った。戴己といい、文伯を生んだ。その妹の声己は恵叔を生んだ。戴己が亡くなると、穆伯はまた莒に後妻を求めた。莒の人は声己がいることを理由に断ったので、穆伯は従弟の襄仲のために妻を求めることにした。冬、徐が莒を攻め、莒の人が魯に来て盟約を求めた。穆伯は莒に行って盟約に臨み、あわせて襄仲のために花嫁を迎えることになった。鄢陵に着いて城壁に登って花嫁を見ると、美しかったので、自分の妻にしてしまった。襄仲は穆伯を攻めたいと願い出て、文公はそれを許そうとした。叔仲恵伯が諫めて言った。「私はこう聞いております。兵が国内で起これば乱といい、国外から来れば寇という。寇はなお他人に害が及ぶだけですが、乱は自分自身に及ぶ、と。いま臣下が乱を起こそうとしているのに、君がこれを禁じず、外敵に付け入る隙を与えるなら、どうなりましょうか」。文公は襄仲を止め、恵伯が二人を和解させた。襄仲にはその女をあきらめさせ、公孫敖(穆伯)には女を莒へ返させて、もとどおり兄弟として仲良くさせた。二人はこれに従った。晋の郤缺が趙宣子に言った。「以前、衛は晋と睦まじくなかったので、その土地を取りました。いまはもう睦まじくなっています。返してやるのがよいでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
-
史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
-
史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
-
史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
-
史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
-
荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る