春秋左氏伝 / 文公六年 臾駢、私怨を報いず
冬十月,襄仲如晉。葬襄公。十一月,丙寅,晉殺續簡伯。賈季奔狄。宣子使臾駢送其帑。夷之蒐,賈季戮臾駢。臾駢之人,欲盡殺賈氏以報焉。臾駢曰:「不可。吾聞前志有之曰:『敵惠敵怨,不在後嗣,忠之道也。』夫子禮於賈季,我以其寵報私怨,無乃不可乎!?介人之寵,非勇也;損怨益仇,非知也;以私害公,非忠也。釋此三者,何以事夫子?!」盡具其帑,與其器用財賄,親師扞之,送致諸竟。閏月不告朔,非禮也。閏以正時,時以作事,事以厚生,生民之道,於是乎在矣。不告閏朔,棄時政也,何以為民?
新字:冬十月,襄仲如晋。葬襄公。十一月,丙寅,晋殺続簡伯。賈季奔狄。宣子使臾駢送其帑。夷之蒐,賈季戮臾駢。臾駢之人,欲尽殺賈氏以報焉。臾駢曰:「不可。吾聞前志有之曰:『敵恵敵怨,不在後嗣,忠之道也。』夫子礼於賈季,我以其寵報私怨,無乃不可乎!?介人之寵,非勇也;損怨益仇,非知也;以私害公,非忠也。釈此三者,何以事夫子?!」尽具其帑,与其器用財賄,親師扞之,送致諸竟。閏月不告朔,非礼也。閏以正時,時以作事,事以厚生,生民之道,於是乎在矣。不告閏朔,棄時政也,何以為民?
書き下し
冬十月、襄仲晉に如く。襄公を葬る。十一月、丙寅、晉續簡伯を殺す。賈季狄に奔る。宣子臾駢をして其の帑(ど)を送らしむ。夷の蒐に、賈季臾駢を戮(はづかし)む。臾駢の人、盡く賈氏を殺して以って報いんと欲す。臾駢曰く、「不可なり。吾聞く、前志に之有りて曰く、『惠に敵し怨に敵するは、後嗣に在らず、忠の道なり』と。夫子賈季に禮す、我其の寵を以って私怨に報いば、乃ち不可なること無からんや。人の寵に介(よ)るは、勇に非ざるなり。怨を損して仇を益すは、知に非ざるなり。私を以って公を害するは、忠に非ざるなり。此の三者を釋てて、何を以ってか夫子に事へん」と。盡く其の帑と、其の器用財賄とを具へ、親ら師ゐて之を扞(ふせ)ぎ、送りて諸を竟に致す。閏月に朔を告げざるは、禮に非ざるなり。閏は以って時を正し、時は以って事を作し、事は以って生を厚くす。生民の道、是に於いてか在り。閏朔を告げざるは、時政を棄つるなり、何を以ってか民を為めん。
現代語訳
冬十月、襄仲(魯の公子遂)が晋に行った。晋の襄公を葬った。十一月丙寅、晋は続簡伯(狐鞫居)を殺した。賈季(狐射姑)は狄に亡命した。宣子(趙盾、晋の執政)は臾駢に命じて、賈季の妻子を送り届けさせた。かつて夷での閲兵のとき、賈季は臾駢を辱めたことがあった。臾駢の配下は、賈氏の者を皆殺しにして仕返ししようとした。臾駢は言った。「ならぬ。昔の書物にこうあると聞いている。『恩に報いるにも怨みに報いるにも、相手の子孫にまでは及ぼさない。それが忠の道である』。あのお方(趙盾)は賈季に礼を尽くしておられる。私がそのお方の信任を笠に着て私怨を晴らすなど、許されることではあるまい。人の寵愛を頼みにするのは勇ではない。怨みを晴らしてかえって仇を増やすのは知ではない。私情によって公を損なうのは忠ではない。この三つを捨てて、どうしてあのお方に仕えられようか」。そこで賈季の妻子と、その器物・財貨をすべて揃え、自ら兵を率いて護衛し、国境まで送り届けた。閏月に告朔(月の始めを祖廟に告げる礼)を行わなかったのは、礼にかなわない。閏月は季節のずれを正すためのものであり、季節は仕事を起こす拠り所であり、仕事は民の暮らしを豊かにするためのものである。民を生かす道はここにある。閏月の朔を告げないのは、季節に基づく政治を捨てることであり、それでどうして民を治められようか。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻10 政事伝に曰く、志卑しきの人、既に旅困に処れば、鄙猥瑣細、至らざる所無し。乃ち其の悔辱を致し、災咎を取る所以なり。旅に在りて過剛自ら高ぶるは、困災を致すの道なり。兌の上六に曰く、「引きて兌ぶ。」象に曰く、「未だ光ならざるなり。」伝に曰く、説ぶこと既に極まれるに、又引きて之を長くす、之を説ぶの心已まずと雖も、而も事理已に過ぎ、実に説ぶ所無し。事の盛んなれば則ち光輝有り。既に極まりて強ひて之を引きて長くす、其の意味無きこと甚だし。豈に光有らんや。中孚の象に曰く、「君子以て獄を議し死を緩くす。」伝に曰く、君子の獄を議するに於ける、其の忠を尽すのみ。死を決するに於ては、惻を極むるのみ。天下の事、其の忠を尽さざる所無し。而して獄を議し死を緩くするは、最も其の大なる者なり。事時有りて当に過ぐべき、宜しきに従ふ所以なり。然れども豈に甚だしく過ぐべけんや。過恭過哀過倹の如き、大いに過ぐれば則ち不可なり。小過の宜しきに順ふと為す所以なり。能く宜しきに順ふ、大吉なる所以なり。小人を防ぐの道は、己を正すを先と為す。周公は至公にして私せず、進退道を以てす。利欲の蔽無し。其の己を処するや、夔夔然として恭畏の心を存す。其の誠を存するや、蕩蕩焉として顧慮の意無し。危疑の地に在りと雖も、而も其の聖を失はざる所以なり。詩に曰く、「公孫碩膚、赤舄几几たり。」採察求訪は、使臣の大務なり。明道先生呉師礼と介甫の学の錯れる処を談ず。師礼に謂ひて曰く、「我が為に尽く諸を介甫に達せよ、我も亦未だ敢へて自ら以て是と為さず、如し説有らば、願はくは往復せん。此れ天下の公理にして、彼我無し。果して能く明弁せば、介甫に益有らずんば、則ち必ず我に益有らん。」天祺司竹に在りて常に一卒長を愛用す。将に代らんとするに及び、自ら其の人の筍皮を盗むを見、遂に之を治めて少しも貸すこと無し。罪己に正し、之を待すること復た初の如く、略ぼ意に介せず。其の徳量此くの如し。
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史記 項羽本紀其の後に最(あつ)まりて、郎中騎楊喜、騎司馬呂馬童、郎中呂勝・楊武各々其の一体を得たり。五人共に其の体を会するに、皆是なり。故に其の地を分かちて五と為し、呂馬童を封じて中水侯と為し、王翳を封じて杜衍侯と為し、楊喜を封じて赤泉侯と為し、楊武を封じて呉防侯と為し、呂勝を封じて涅陽侯と為す。項王已に死し、楚の地皆漢に降る、独り魯のみ下らず。漢乃ち天下の兵を引きて之を屠らんと欲す、其の礼義を守り、主の為に節に死するが為に、乃ち項王の頭を持ちて魯に視(しめ)す、魯の父兄乃ち降る。始め、楚の懐王初めて項籍を封じて魯公と為す、其の死するに及びて、魯最後に下る、故に魯公の礼を以て項王を穀城に葬る。漢王為に哀を発し、之に泣きて去る。諸々の項氏の枝属、漢王皆誅せず。乃ち項伯を封じて射陽侯と為す。桃侯・平皋侯・玄武侯は皆項氏なり、姓劉氏を賜ふ。太史公曰く、吾之を周生に聞く、曰く「舜の目は蓋し重瞳子なり」と、又聞く項羽も亦重瞳子なりと。羽豈に其の苗裔ならんや。何ぞ興ることの暴かなるや。夫れ秦其の政を失ひ、陳渉難を首め、豪傑蠭起し、相与に并び争ふこと、勝げて数ふべからず。
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『春秋左氏伝』僖公二十三年 天の興す所、誰か廃せん子玉之を殺さんと請ふ。楚子曰く、「晉の公子は廣くして儉、文にして禮有り。其の從者は肅にして寬、忠にして能く力む。晉侯親無く、外內之を惡む。吾聞く、姬姓は唐叔の後、其の後に衰ふる者なりと。其れ將に晉の公子に由らんか。天將に之を興さんとす、誰か能く之を廢せん。天に違へば必ず大咎有り」と。乃ち諸を秦に送る。秦伯女五人を納る、懷嬴與る。匜を奉じて沃盥す、既にして之を揮ふ。怒りて曰く、「秦・晉は匹なり、何を以て我を卑しむる」と。公子懼れ、服を降して囚す。他日、公之を享す。子犯曰く、「吾衰の文なるに如かず、請ふ衰をして從はしめん」と。公子《河水》を賦し、公《六月》を賦す。趙衰曰く、「重耳賜を拜せよ」と。公子降りて、拜稽首す。公一級を降りて辭す。衰曰く、「君天子を佐くる所以の者を稱げて重耳に命ず、重耳敢へて拜せざらんや」と。
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『近思録』巻10 政事感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し。人或は先生に勧むるに近貴に礼を加ふるを以てす。先生曰く、何ぞ責むるに礼を尽すを以てせずして、之を責むるに礼を加ふるを以てするや。礼尽せば則ち已む、豈に加ふること有らんや。或ひと問ふ、簿は、令を佐くる者なり。簿の為さんと欲する所、令或は従はずんば、奈何せん。曰く、当に誠意を以て之を動かすべし。今令と簿と和せざるは、只是れ私意を争ふのみ。令は是れ邑の長なり、若し能く父兄に事ふるの道を以て之に事へ、過は則ち己に帰し、善は則ち惟だ令に帰せざらんことを恐る。此の誠意を積まば、豈に人を動かし得ざること有らんや。問ふ、人議論に於て多く己を直くせんと欲し、含容の気無し。是れ気平らかならざるか。曰く、固より是れ気平らかならず、亦是れ量狭きなり。人の量は識に随ひて長ず。亦人の識高くして量長ぜざる者有り、是れ識実に未だ至らざるなり。大凡別事は、人都て強ひ得。惟だ識量は強ふべからず。今人に斗筲の量有り、釜斛の量有り、鍾鼎の量有り、江河の量有り。江河の量も亦大なり。然れども涯有り。涯有れば亦時有りて満つ。惟だ天地の量のみ則ち満つること無し。故に聖人は、天地の量なり。聖人の量は、道なり。常人の量有る者は、天資なり。天資の量有るは須らく限り有るべし。大抵六尺の軀、力量は只此くの如し。満たざらんと欲すと雖も、得べからざるなり。鄧艾の如き位三公、年七十。処し得て甚だ好し。蜀を下して功有るに因るに及び、便ち動き了る。謝安謝玄の苻堅を破るを聞き、客に対して碁を囲む。報至るも喜ばず。帰るに及びて屐歯を折る。強ふるも終に得ざるなり。更に人の大酔の後に益恭謹なる者の如き。只益恭謹なる、便ち是れ動き了るなり。放肆なる者と同じからずと雖も、其の酒の為に動かさるるは一なり。又貴公子の位益高くして、益卑謙なるが如き。只卑謙なる、便ち是れ動き了るなり。驕傲なる者と同じからずと雖も、其の位の為に動かさるるは一なり。然れども惟だ道を知る者のみ量自然に宏大なり。勉強せずして成る。今人の見る所卑下なる者有るは他無し、亦是れ識量足らざるなり。
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
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論語・八佾篇定公問う、「君臣を使い、臣君に事うるは、之を如何。」孔子対えて曰く、「君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす。」
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